《【完結&謝】親に夜逃げされた姉妹を助けたら、やたらグイグイくる》第四十四話 失われたもの
※非常に重い話になります。ご注意ください。
よく晴れていて、雲一つなく、果てがないくらい澄んだ青が頭上を覆っていた。
の子の遠い親戚が喪主を務めた葬儀が終わり、3日ほどが経過した。俺たちは、山の麓にある例の場所で、ぼんやりと座り込んでいる。
の子に合わせて、俺も學校には行かず、二人で過ごしていた。いつものように駄菓子を買って、灣へと至るしい景を見る。どんなことがあろうと景に変化はなく、まばゆいが天高くから注がれているだけだった。
俺の隣に座るの子は、口を開かずに黙ってその景を見ている。
母親が亡くなってから數日間、の子は涙に暮れていた。突然の喪失にの整理ができず、を震わせながら現実の一つ一つをけ止めていた。かなくなった母親を瞳に映し、葬儀場でバラバラの骨と灰になったことを理解し、抱えた骨壺がやたらと軽いことを知った。普段は明るくてよくしゃべる子だっただけに、落差が大きく、どう接したらいいかわからなかった。
「あげる」
並んでぼんやりしていたら、の子が食べかけのグミを渡してきた。袋のなかにはまだ半分以上殘っている。
「いらないよ」
「じゃあ、捨てておく」
そう言われたらもらうしかない。グミの一つをほおばった。
4月になり、春らしい気候になってきていた。日沒時間が遅く、長い間そこにいても、なかなか暗くはならなかった。この場所に他の人は來ないし、靜かだし、なにも考えずに過ごすには最適だった。
の子は、が落ち著いたというより、泣くことにも疲れたという雰囲気だった。
未だに俺の家にいるけれど、食がないみたいで出された食事をほぼ殘す。會話をすることすら億劫なのか、生返事も増えていた。俺といるときはまだ話してくれるけど、雄介や俺の両親とはまともに會話にならなかった。
「わたしが悪かったのかな……」
ぼそりとつぶやかれた言葉に、俺は悲しい気持ちになった。
「なんで?」
「わたしのせいで無理をさせちゃったのかなって」
いくらその言葉を否定しても、の子の気持ちは晴れないだろう。俺にできることは、の子の気が済むまで、そばにいてあげることだけだった。
きっと、二人ともこの時間が長くつづかないことをわかっていた。
の子の今後について、大きな問題があった。
引き取り先が見つからないことだ。もともと俺の家で預かっていたが、母親が退院する前提だったから、半永久的に住まわせることを考えていたわけではない。葬儀の喪主を務めた親戚は義務的に葬儀を行っただけであり、のつながりが薄いの子を引き取るつもりはないようだった。の子の周囲に接な関係の親戚はおらず、どこかの児養護施設に移る以外の選択肢がなかった。
近くに児養護施設はなかったから、移ることになればこの地を離れることになる。の子が暮らしていた家をどうするか、どこの児養護施設に行くのか、どの學校に通うのかなどの難しい問題が、大人たちを悩ませていた。
その一方で、の子はそういった難しい問題から逃げつづけた。俺と一緒にいるか、布団にこもってばかりで考えようともしなかった。ただでさえ疲弊しているのに、遠い場所に行く話を前向きに聞く気にはならなかったのだろう。
いったい、いつまでこうしていられるか。そんなふうに考えていた俺たちのもとに、ある日、その人がやってきた。
「こんにちは」
土曜の晝くらい。背の高い男の人が、玄関前に立っていた。その人は、スーツを著ていて、俺や俺の両親が出迎えると仰々しいくらいに丁寧にあいさつした。
「どちら様でしょうか?」
俺の親父が訪ねると、その男の人はの子の父親だと名乗った。
居間に案された男は、の子とも顔を合わせた。期に別れたとはいえ、の子は父親の顔をちゃんと覚えていたらしい。父親であることを素直に認めていた。
常にニコニコと笑い、腰がらかい印象をけた。話し方が非常に遅く、一つ一つの言葉を慎重に紡いでいた。
「元妻が亡くなってしまい、この子一人だけになり、今はこの家に居候していると聞きました。いてもたってもいられなくなったので、アポイントもなく來てしまいました」
話の容は、の子を引き取りたいということだった。実の父親といえど、正式な手続きで後見人になるのには裁判所の認可が必要になるのだが、その當時はそんなことを知る由もなく、突如としてやってきた救い手に、みな安堵の表を浮かべていた。
とんとん拍子で話がまとまっていくなか、の子はずっと黙っていた。ときおり父親がの子に話しかけるが、無視するか、きのような返事をするだけだった。面倒くさいだけなのかどうか、俺にはわからなかった。
顔合わせだけした父親は、の子を連れていくことなく、一人で帰っていった。去り際、の子に対して「今度は一緒に帰ろう」と告げ、車に乗って去った。の子は下を向いて、遠ざかる車を目で追うこともなく、足元の土をつま先で掘り返していた。
――あの子は、お父さんと一緒にいたほうがいい。
――だから、近いうちにお別れをしないといけない。
誰に言われたかも覚えていない言葉が、俺の脳裏を駆け巡っていた。父親はいい人そうに見えたし、遠い地の児養護施設にるよりはいい選択なのだろう。本心を言えば、ずっと自分の家にいてくれればと考えていた。しかし、現実はそうかない。子供の力でできることなんて限られている。
の子は、実の父親と一緒に暮らすという案を拒否しなかった。どう思うのかについて訊いたところ、このような答えが返ってきた。
「それがたぶん、一番丸く収まると思うから」
おそらく、多くの大人を困らせているということに後ろめたい気持ちがあったのだろう。自分の意思を殺そうと考えたのではないか。
だが、の子の荷がまとめられていき、しずつ別れの日が近づいたときだった。
俺との子は、また例の見晴らしのいい場所にいた。空には雲がしあったけれど、強い日差しが照りつけていた。三つ編みを結ぶ気力もないようで、下ろされた髪が風に揺られていた。
お互いに會話はなかった。どうしたらいいかわからなかった。本當は、もっと一緒にいて、楽しい思い出を作りたかった。電話や手紙という手段があったとしても、今のように気軽に會えて話せる関係とは大きく異なる。一秒が過ぎ去るたびに、リミットが近づいてくるのが恐ろしくて仕方なかった。
雲が流れて、天高くにあった日が落ちていく。空に吸い取られるようにが失われていくのを、二人で黙って見つめていた。今日もまた、一日が終わる。そして一日が終わるたびに、貴重な時間が削られて、そのうちに無くなってしまう。
くことができなかった。この場を去り、家に戻ると再び時間の針が回りはじめるという錯覚もあった。それはの子も同じだったらしく、日が沈んでも立とうとしなかった。徐々に、お腹が空いてくるし、寒さもやってくる。それでも、どちらも黙って座りこんでいた。
そのときだった。
橫で育座りをしているの子から、すすり泣くような聲が聞こえてきた。の子は膝に顔をうずめて、鼻をすすりながら、膝を抱える腕に力を込めていた。
一度泣くのをやめてから、再び泣いたのは初めてだった。ためていたものが、一気にあふれだしたのだろうと思った。
の子は言った。
「いやだ」
聲はこもっていたし、震えていたが、はっきりと俺の耳に屆いた。
「いやだ、絶対にいやだ」
大人びていて、いつも笑っていたの子は、もうそこにいなかった。
「離れたくない。どこにも行きたくないよ」
なにも言えなかった。同じ気持ちだったが、どうしようもない現実を前に、言葉にすることの無力さをじていた。
「介くん。助けて、介くん。行きたくない。介くんと離れたくないよ」
の子がすがりついてきた。その目からはぼろぼろと涙があふれていた。
今でも思う。俺は、このときにの子の言うことをもっと聞いておくべきだった。たとえ、自分にその子を助ける能力がなかったとしても、必死になって、自分の全全霊をかけて、の子が自分の元から離れることを許すべきではなかった。
けれど、そのときの俺は、泣くの子を黙ってけ止めることしかできなかった。
そして、とうとうの子が父親に連れられる日が訪れた。
白のセダン車のトランクには、の子の荷が詰められていた。父親が運転席に乗り込むと、の子は重い足取りで後部座席のドアを開けた。
「さようなら」
涙を瞳に浮かべたまま、後部座席に座り、ドアを閉じた。
エンジンがかけられ、タイヤと砂利がこすれあう音を立てて、緩やかに車が進みはじめる。
リアガラスの奧には、俺の姿をじっと眺めるの子の姿があった。
俺の足がく。
遠ざかっていくの子の姿を、気づけば追いかけていた。
傾斜を下り、俺の足よりも速く走る車を、小さくなっていくの子を、息を弾ませて、その行に意味があるかどうかを考えるのもやめて、ただ、視界から消えていくだろうの子の姿を見失いたくなくて、懸命に、歯を食いしばりながら追いかけていた。
いろんな思い出が、頭のなかを埋めつくしていた。あの日々が過去になる。そんな事実が眼前に迫り、耐えられなくなり、ぐちゃぐちゃになり、走る以外の答えを見つけられなかった。
――介くん。
――ねえ、介くん。
やわらかくて、しっとりしたの子の聲が浮かびあがってくる。毎日のようにその聲を聞いて、ときに子供扱いをされたり、ときに笑われたりしても、心の奧底が溫かくなるようなを抱いたものだった。なんで、失われたときにわかるのだろう。こんなにも、その子のことが、大好きだったのに。
急に、俺の足に力がらなくなり、が地面にたたきつけられた。けつまずいたのだと理解するのに、し時間がかかった。また走ろうとするが、足に違和を覚えて、靴がなくなっていることに気がついた。
振り返ると、片方の靴が背後にぽっかりと転がっていた。
青地に白のラインがったアシックスが、橫向きに倒れている。
肩で息をして、車の走った先にもう一度視線を向けると、すでに車はどこかに消えている。
それが、の子との最後の記憶だった。
* * *
いつだって記憶は殘酷だ。どんな過去でさえも、どんなに後悔していても、すでに通りすぎたものとして、取り返すことができない。
――なにもわかっていなかった。
――俺は、何一つとして理解していなかった。
どうして、の子は母親と一緒に故郷に戻ったのだろうか。父親とは暮らさず、父親の話もしなかった。初めて父親が來たときもうれしそうな表を浮かべず、行きたくないと子供のように言っていた。
そのわけを、一年後に知ることになる。
* * *
冬の日に、一組の夫婦が町に訪れた。その夫婦の片方に見覚えがあった。かつて、の子の母親が亡くなったとき、喪主を務めた遠い親戚の男だった。
彼らは、その手に、白くて小さな磁を持っていた。縁のあった俺たちの家に挨拶にきて、それからその磁の正について明かした。
「この骨を、同じ墓にれてあげることにしたんです」
顔をうつむけて、小さな聲で淡々と言っていた。
「わたしたちの責任として、せめてそれくらいはしてあげようと思ったんです」
……すぐには、なにが起こったのか理解できなかった。しかし、その事実は息が止まるほどの恐ろしいものだった。
の子は、父親に待されていた。もともと、の子の母親と父親が離婚した要因が、DVだったのだそうだ。母親は、夫から逃げる形でこの故郷にたどり著いた。
父親は、そのことが許せなかったのだろう。最終的に、娘だけでも連れ帰ることにした。
學校どころか家からも出してもらえず、その家にの子がいることすらも知られないように生活をしていた。二人は東京にいて、の子の知り合いはおらず、母親につながりがある人もいなかった。だから、誰もそのことに気づかなかった。
(わたしね。男の子も、大人の男の人も、あんまり好きじゃないの)
いつの日か、の子がそんなふうに語っていた。
(介くん。助けて、介くん。行きたくない)
過去のの子の言葉がフラッシュバックして、俺のがぶるぶると震えだした。
「あ……」
どうして、わからなかったのだろう。
どうして、の子の奧深くに眠るものに目を向けてやれなかったのだろう。
ヒントは転がっていたのに。気づける可能は、十分にあったかもしれないのに。
そう思うのと同時に、なにかが壊れた。自分の心を支えていたものが崩れていくのをじた。
期のあいまいな記憶で、父親の質を暴くことはできなかったのかもしれない。自分が迷をかけている負い目から、決まりかけている話を覆すことができなかったのかもしれない。
それでも、俺にだけ、俺にだけは、懸命に助けを呼びかけていた。
(介くんと離れたくないよ)
俺は、いつのまにかの子と長い時間を過ごしたあの場所まで來ていた。
呼吸がうまくできなかった。自分の側にたまった熱ばかりが鼻からこぼれて、空気というものがそこを通っているのかわからなかった。顔の上部がひりひりと痺れて、口のまわりに力がらず、目の奧から痛みが走った。足が震える。手も震える。あふれ出るの種類が多すぎて、頭のなかが火傷するんじゃないかと思った。心臓の鼓が皮を押し上げて、その圧力に耐えられずに発するんじゃないかとも思った。さきほど認識した現実が、その現実とともに脳裏をよぎる記憶が、いびつな音を立てながらさらけ出した鋭い刃で俺の側をずたずたに切り裂き、々にして、自分という存在ごと消してしまうんじゃないかという気がしていた。
もしも、天使かなにかが降りてきて、俺を過去に戻してくれるのであれば、きっと、今隣にいるの子の手を引いて、山のなかを走って、どこまでも遠くへと逃げていくのに。
けれど、現実の俺の視界には、なんの変哲もない晴天が広がっているだけだった。
いつものように、どこまでもつづいていそうな電線が空を駆けている。
そのとき俺は、のに空いたその空を、一生埋めることができないのだろうと思った。
まだ文章がいと思うので後で修正するかもしれません。
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