《12ハロンのチクショー道【書籍化】》4F:夢の終わり-1
朝靄煙る栗東トレーニングセンター。Eダートコースの砂上を弾む栗の馬。
前走青葉賞より一週間。サタンマルッコは次走日本ダービーへ向けての調整を行っていた。
マルッコの様子は一叩きして激変した。その変化は調教にこそ最も現れた。
鞍上の橫田が手綱を僅かに引く。意を汲んだマルッコが足の回転を心持ち落とす。微な作による意思の伝達。青葉賞以降こうした折り合いの訓練が続いていた。
この景を羽賀で調教されていた頃のマルッコを知る者が見れば驚くことだろう。何せ聞かん坊で有名なマルッコが鞍上と意思疎通を果たし、唯々諾々とられているのだから。
これまでマルッコの調教は強弱こそあれど只管に『馬なり』であった。橫田の手綱にこそレースのペースを刻むなど"それなり"に応えていたが、基本的に馬の気分で走っていた事に変わりは無い。本格的に意に沿わぬとなればマルッコは橫田の手綱を無視しただろう。
それがどのような心境の変化があったのか。橫田どころか廄務員のクニオの手綱にすら素直に従うではないか。
馬上で手綱握る橫田は納得を持ってその変化をけれていた。
マルッコの背中が伝えるのだ。不甲斐ない走りをした己自への怒りを。
彼本來の走りを封じ、まぬ走りをさせてしまった事に謝意を覚えずにはいられない。そうさせたのは自分だ。しかし必要なレースだった。その本意が伝わったからこそ、マルッコは変化したのだ。
彼は己の自惚れを理解した。恐らくどのような位置、どのような展開からでも、自分ひとりの力で一著になる事が出來る。それも簡単に。
しかしそうではなかった。高が進路を塞がれた程度で右往左往。本當に実力があるのならば殘り400mからでも勝利できたはずだ。
だから認めた。鞍上の存在を共同として。
それはつまり、勝利を渇しての行。
調教を見守る小箕灘の手に力がる。
(ついに、マルッコが本気になった)
常識の通用しない怪馬が勝利を求めて競馬する。
その時一何が起こるのか。その変化を最前線で見守る立場にあることを謝した。
「見せてくれ、マルッコよぉ」
俺が信じたお前の才能を。
レースは三週間後。それまでの期間、己を全てを捧げる決意を新たにした。
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「実際のとこ、どうするんすか?」
調教を終えた午後のひととき。クニオ、橫田、小箕灘の三人は事務所のテレビ畫面を見つめていた。その中で、クニオは漠然とした疑問を投げかけた。
すっかり古めかしい存在となった大型ブラウン管テレビには先月行われたGⅠ皐月賞が映し出されている。三人はそれぞれ繰り返し何度も視聴していたが、本番の指揮を執るため、こうして改めて見直していた。
皐月賞は戦前から前年度の二歳覇者ストームライダー一強の雰囲気で染まっていた。彼の馬は先行抜け出しからレコードタイムを叩き出すという完璧な容で朝日杯1600mを制し、続くステップレースの1800mを大差でクリアしていた。
中間、追い切りのきも余裕殘しでありつつも抜群であり、枠順も外を見ながらスタート出來る④枠⑦番。強いてネガティブな要素を挙げるとするなら、統的背景が距離延長に対して否定的であることだが、現時點における絶対能力が抜きん出ている事から前走から200mの距離延長はさほど問題にならないという見方が大半であった。
対抗として名の挙がったのはトライアルGⅡ彌生賞の勝ち馬ナイトアデイ。しかしこの馬は朝日杯においてストームライダーに完敗を喫している。
同じく彌生賞二著馬コーネイアイアン。逃げ粘りのレースを見せたが、直線最後で足が鈍っており、前目の競馬を得意とするストームライダー相手では厳しいと見られていた。
もしや、と思われていたのがマルッコ達小箕灘廄舎が馬房を間借りしている須田廄舎管理馬ダイランドウだった。
2歳時は短距離路線において抜群のスタートセンスとスピードの絶対値で以って逃げまくり連戦連勝。朝日杯を目指して調整を行っていたところを鼻出のため回避。
明けて翌年は病狀を鑑みて慎重に調整を重ねつつ、陣営は予想されていた短距離路線ではなくクラシックへの出走を表明。そしてトライアル彌生賞に出走したのだが――
《1000mの標識を通過。先頭はダイランドウですが、通過タイムは57.4。大丈夫なのか、それで2000m果たして持つのかダイランドウ》
ダイランドウは加減の出來ない馬だった。これまでは抜群のスタートとスピードで駆け抜け、燃え盡きたところがたまたまゴールだった。トライアルの彌生賞では大暴走し、最後は歩きながらタイムオーバーで線。本番の皐月賞でもそれは改まる事が無く、レース映像のように1000mをロケット花火のように駆け抜け、1400mを越えた辺りで燃え盡きた。
しかし彌生賞で大慘敗したとはいえ、これだけのスピードを持つ逃げ馬を無視する事が果たして出來るだろうか。ダイランドウ暴走の結果、それを追う各馬の足も速まり、レース全が空前のハイペースとなった。
離れた二番手を走るナイトアデイの1000m通過が58.5秒。四番手につけたストームライダーですら58.7秒。例年ならば後差しが有利な時計であり、通過タイムが表示された瞬間ストームライダーの馬券を握っていた観客は悲鳴や怒號、冷や汗を流した事だろう。
垂れるダイランドウをわして先頭に立ったナイトアデイ共々早々に直線へるとあっさりこれをわす。朝日杯で、共同通信杯で、かつて見せ付けてきた抜群の末足を発揮し差を広げ、ようやくびてきた後続を全く寄せ付けずレコードタイム1:57.6でゴール。
馬場は決して軽くはなかった。が違ったという事なのだろう。
線後高々と右手を上げる竹田騎手の姿を眺めながら、橫田が口を開く。
「やはり、前ですね」
「後ろは論外。橫に並んでヨーイドンでも絶対敵わねぇな」
橫田の意見に小箕灘も同意する。あれだけのペースで走っておきながら上がりが34.5。馬場が高速化する傾向にある本番のダービーではより一層厳しい上がりで來るだろう。
先日の青葉賞では足を溜めての競馬にも関わらず、マルッコの上がり3Fは34.7秒。単純に同じだけの足を使えるとしても、直線にった時點で0.2秒分ストームライダーより前にいなければ勝利はない。
マルッコは本質的に鋭い末足を持つ馬ではない。この事は小箕灘陣営にとって共通の見解となっていた。
「すげぇのと同世代になっちまったっすね……」
魂消たしみじみとした聲でクニオが呟いた。
「違いますよ」
「え?」
「あっちがマルッコと同世代に生まれてしまったんです」
橫田が不敵に笑った。
「負かしてやりましょうよ。皆ビックリしますよ」
「橫田さん。馬鹿言っちゃいけねぇ。俺は羽賀からマルッコを連れてくる前からアイツがダービーを取るって信じてるんですよ。こんな相手くらい負かして當然ですわ」
小箕灘も啖呵を切った。その聲は震えていたが。
「それで、なんですけど――……」
男三人の怪しい集いは暫く続いた。
シャリシャリシャリ。眠たくなるような麗らかな日差しの午後三時。須田廄舎の馬房にはりんごの皮を剝く音が響いていた。
先程から大好が奏でる音を聞きつけたマルッコが馬房から首を出してはやくはやくーとそわそわしている。殊更ゆっくりやってやろうか、とクニオの脳裏に意地悪な考えが浮かんだが、マルッコの円らな瞳と目が合ってしまい、その考えを早々に放棄した。
意外に思われるかもしれないが、サラブレッドは野菜や果も食べる。と、いうより栄養のバランス如何では積極的に與える場合すらある。馬にニンジンという認識が広まっている割には野菜や果と括ると何となく驚きがある。なんとも不思議だ。
皮を剝かずに與えても問題ないが、マルッコは剝かないと怒る上に千切りにしないと食べにくい、と文句を言う面倒くさい奴なので、クニオはいつもオーダー通りにやってやっている。皮は剝き終わったので後は千切りだ。
「ひ~ん」
「はいはい待ってろよ。あ、馬房から出てきたらやらねーからな」
「ぶひ~ん」
すっかり慣れたもので手早くりんごを千切りにし、まな板ごと飼葉いれへ持っていく。
「はいお待たせ」
「ふぃん」
れてやると、喜んでるのか怒ってるのかよく分からない唸りを上げて食べ始める。一心不。そんな様子だ。
俺も食べるかな、とダンボール箱一杯に詰め込まれたりんごに手をばす。青葉賞を二著に収めた後、マルッコの故郷中川牧場の主、中川貞晴オーナーから屆けられた祝いの品だった。牧場に居たころは資金難であんまり食べさせてやれなかったのを気に病んでいたらしく、仰々しいダンボール二箱に詰め込まれたりんごを見たときは驚いただった。りんごはそれほど日持ちしないのでさっさと食べてしまわないといけない。
(たしかに、羽賀に居たころは小さい馬だったなぁ)
自分用に皮を剝きながら、クニオは羽賀の廄舎に居たころを思い返していた。
廄舎に著たばかりのマルッコは、雌馬と見紛う小柄な馬の馬だった。というか小柄でもあったが、そもそも痩せていた。なんだこの馬はと思った記憶がある。
し世話をしてみてすぐに分かった。なんて可くて賢い馬なんだろうと。是非この馬の専屬に、と立候補した事を後悔した時期もあったが、今となっては英斷だっただろう。
疑の盜み食い事件、騎手振り落とし事件、海水浴事件、馬房走事件、デビュー戦逸走事件、まぁ々あったが、気付いてみればこんな凄い場所にまで來てしまった。
「お前がダービーに出るのかぁ。しかも羽賀ダービーとかじゃなくて、日本ダービー。お前は変な奴だなぁマルッコ。俺は今でもお前がダービーに出るってのが信じられないぞ」
廄務員手當てといって、擔當馬がレースで買った時、賞金の數パーセントが給付される仕組みがある。最近は廄舎全にプール金として集め、ボーナスとして分配する方式が採用される事が多いが、地方競馬に所屬する廄舎などはJRAと比べて賞金が低いため、擔當者制度を続けているところも多い。小箕灘廄舎もその口である。
中央に參戦してからというもの、マルッコが勝つ度、目が點になるような額が銀行口座に振り込まれる。おかげで懐合はだいぶよくなり、マルッコ様様と崇めたててやってもいい気分ではあったのだが、いざ當のマルッコを目の前にすると、これまでの事が全て夢だったのではないかという気分にさせられてしまう。
ダービーに出るだけでこれなのだから、勝った日にはどうなってしまうのだろう。むしろ、目が覚めるような想いがして現実が戻ってくるのだろうか。
皮を剝く手はいつの間にか止まり、ぼうっと餌箱に首を突っ込んでいるマルッコを眺めていた。
ふいにマルッコの顔が上がる。耳が後ろに絞られ目つきが鋭い。
(あ、怒ってる)
何を怒っているのかと思いかけたが、己が手のにあるモノに気付いた。
「ぐるるる」
おれんだ勝手に食おうとしてんじゃねー! と言わんばかりの迫真の威嚇。
「わかったわかった」
今日のおやつは二つになった。
三冠レースだと皐月賞馬は毎年応援したくなります。
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