次の日、帰宅するわたしを待ち構えている人はいなかった。

それにほっとしながらも、何となく周囲を確認しながら、わたしは家とは別の場所へ向かう。

ゆっくりと落ちてくる雪が積もる中で燈されているのは──『食事処あまりりす亭』の看板だ。相変わらずその明かりを見るだけでほっとする。

わたしは扉を橫にらせるように開いて、中へとった。

「いらっしゃい、アリシアちゃん」

「こんばんは」

一人居たお客さんはもう帰るところらしい。お會計を済ませたその男の人の為にドアを開けると、會釈をしてくれた。その顔がお酒で赤らんでいる。

他にはお客さんはいない。

わたしはカウンターの右から二番目の席に腰を下ろした。コートを椅子の背に掛けて、帽子や手袋をバッグにしまう。

「今日は何にしましょうか」

「白ワインと、それに合う食事を何か。おまかせで」

「はい、かしこまりました」

にっこり笑うエマさんは今日も綺麗だ。く度に頭に飾る大花が小さく揺れて可らしい。

すぐにカウンターに置かれたグラスを手に取ると、軽く掲げてからに寄せる。花のような香りが鼻を抜けていく。口りは軽やかで甘味が強い。うん、味しい。

「なんだか疲れた顔をしているわね。大丈夫？」

「ちょっと々あって。でもエマさんの顔を見たら元気が出ちゃった」

「あら嬉しい」

くすくすと笑うエマさんは、わたしの前に小皿を置く。小皿の中はピーナッツとピスタチオ、くるみだった。早速とばかりにくるみをひとつ口にれると、塩がまぶしてあってとても味しかった。

ガラリと扉の開く音がする。

ピーナッツを口にれながらそちらを見ると、頭の雪を払いながらノアがってくるところだった。

「よう」

「こんばんは。最近よく會うわね」

「俺も結構來てるからな」

「わたしに會いたくて？」

「自炊すんのがめんどくせぇ」

けらけらと笑うノアはわたしの隣の椅子を引く。いだコートを綺麗に畳んでから椅子の背に掛けて、それから座った。

「エマさん、エール頂戴。あとなんか適當に出して」

「はぁい」

エマさんの向こうで、マスターが頷いている。

相変わらず無口だけど、エマさんを見つめるその眼差しはいつだって優しい。

「お前、風邪は？　治ったの？」

「だいぶいいのよ。風邪に効くっていう飴を舐めていたからかしら」

「良かったな。やっぱり檸檬って効くんだな」

「ん？　ええ、そうね……？」

なんで檸檬の飴って知っているんだろう。

用意されたエールのジョッキをけ取りながら、ノアは不思議そうに首を傾げる。

「なんで檸檬の飴って知っているのかと思って」

「あ？　……檸檬の飴は知らねぇけど、エマさんが檸檬に蜂混ぜたのを用意してくれてただろ」

「あ、そっか」

そっちか。確かにあれも味しかったし、に優しかったなぁ。

わたしが納得して頷いていると、ノアがジョッキを掲げてくる。わたしも白ワインのグラスを掲げると、酒同士がれ合って高い音がした。

「最近どうよ。落ち著いたか？」

「それがそうでもないのよね」

「愚癡なら聞いてやるぞ」

「ありがと。でも最近ずっとわたしの愚癡になっているでしょ。なんだかそれも申し訳なくて」

「変な気を回すんじゃねぇっての。話を聞くくらい、いくらでもしてやるよ」

ノアの薄いが笑みを描く。

らかな聲が耳を擽る。……いやいや、わたしどうしたんだ。

「ありがとう。じゃあ遠慮なく」

「おう。それに世の中には変わったやつもいるんだって思えるからな。面白ぇわ」

「ちょっと、わたしの不幸で楽しまないでよね」

わざとらしく睨んで見せると、ノアは可笑しそうに肩を揺らした。

ノアが小皿に手をばして、ピスタチオを持っていく。つまみやすいように互いの間に置いてやると、今度はくるみを持っていった。

……よく見ると綺麗な指をしていると思った。し骨張った長い指は男らしいのに、とても綺麗だ。短く整えられた爪と、よく見れば手の平は固くなっているような……いや、何を見ているんだわたしは。

恥を誤魔化すように白ワインをぐっと呷った。

「……元婚約者が家に來たりもしたんだけど、まぁそれはいいのよ」

「いいのかよ」

「わたしは會ってないし。話が通じなくて、対応した家族はぐったりしていたけれど」

そこまで話したところで、ふわりといい匂いが鼻を擽った。香ばしい匂いにわれてカウンターの向こうを見ると、エマさんが湯気立つお皿を両手に持っている。

「今日のおすすめはこちら、鶏の赤ワイン煮よ」

「味しそう。エマさん、赤ワインくださいな」

「俺も」

「はいはーい」

これには絶対赤ワインでしょう。

わたしとノアの前に置かれたお皿には骨付きの鶏。小玉ねぎとマッシュルームがころんと何とも可らしい。

手を組み祈りを捧げてから、ナイフとフォークを手にする。らかく煮込まれているからか、ナイフがすっとって骨とおが簡単に切り離される。

小さく切り分けたおを口に運ぶ。広がる赤ワインの香りと、焼くことで閉じ込められていたのだろうが合わさってすっごく味しい。

ほろりとおが崩れていく。おに野菜の旨味が染み込んでいるのがわかる。

「んんん、今日も味しい」

「うん、味い」

「良かった。ぶつ切りの鶏もれているんだけど、そっちは雛鳥だからもっとらかいわよ」

小玉ねぎが口の中で溶けていくのを楽しんでから、これかなと思うおを口にれる。やっぱり雛鳥だったようで本當にらかい。

「こっちのおも味しい～！」

「味いけど俺は骨付きが好きかな。旨味が強い」

「それもわかる。どっちも味しい」

カウンターに置かれた赤ワインを口に含むと、スパイシーな芳香が口の中いっぱいに広がっていく。飲みやすい辛口で、ふぅと吐いた息は酒が濃い。

「はぁ……味しいもの食べてる時が一番幸せ」

「疲れてるから余計に染みるんだろ」

「それもある。……ずっとこうやって居られたらいいのにな」

ここを出て、また明日。

今日は突撃されなかったけど、明日はどうか分からない。

毎日そんな不安を抱えるのは、正直なところ心が辛い。

思わずそんな言葉をらすと、頭にぽんと溫もりが乗った。ノアが頭をでている。

「……ノアが優しい」

「泣きそうな顔してたからな」

そんな優しい聲で、そんな優しい手ででられたら本當に泣いてしまいそう。

の奧が疼く。いや、そんな事よりも、この溫もりをわたしは知っている気がする。

思い出せないそれは頭の端に追いやって、わたしはグラスを口に寄せた。頭にれる手をほどくこともせずに。