翌朝、ナターシャは目覚めとともに猛烈なの渇きに襲われた。飲まず食わずで一日中歩いたため、すでにナターシャのは水癥狀が始まっていたのだ。最優先事項は水の確保である。もともと贅沢な生活をしていなかったため、多の空腹は我慢ができる。しかし、水は必要だ。彼のが猛烈に水分をしていた。

今日が限界。明日はない。

それが分かるからこそ、夜風に対するものとは別の焦りをじていた。

もっとも、ナターシャも考えないでいているわけではない。選択肢はいくつかある。一つ目は井戸水の確保。廃墟となった街の井戸が生きているとは思えないが、可能ならばこれが一番理想的だ。

二つ目は街に流れる川を利用すること。昨日街を歩いた際に、街のいたる所で小川が流れているのを確認した。しかし、問題となるのが結晶だ。毎晩のように吹く結晶風、もしくは街中に立する結晶によって水が汚染されている可能がある。もしも結晶の混じった水を口にすれば結晶憑きへまっしぐらだ。

三つ目は森を流れる川を探すことだが、これも街中の川と同じ理由で危険である。もしくは果実などから水分を補給する手段もあるが現実的ではないだろう。

ナターシャは苛立たしげにを噛む。悩んで、考えて、それで導き出した答えはあまりにも陳腐。どれも可能の低いものばかりだ。

「むぅ……とりあえず井戸を探そうかしら」

井戸はさほど苦労せずに見つかった。廃屋と結晶に囲まれた井戸が寂しげに佇んでいた。

掘り抜きの臺板に手押しポンプが固定されているタイプの井戸であり、これならば結晶がり込む心配はなさそうだ。近くに転がったバケツを置いた。取手の表面はザラザラとしたであり、よくみると太が反して輝いている。夜風にあたって結晶化現象(エトーシス)が始まっているのだ。うまくいてくれれば良いが、ナターシャはし不安をじた。

取手を壊さないよう慎重に押してみた。部が錆び付いているのか予想以上に重い手応えだ。両手で思い切り重をかけねばかないほどである。

「くぅ……固っ……！！」

……流石に重すぎないだろうか。これが人を支える命の水の重みか。いやいや、これはおかしいぞ、と疑問をじながらも必死にポンプを押すナターシャ。やがて、何か引(・)っ(・)掛(・)か(・)り(・)のようなものを越えた瞬間、ポンプの口から水が溢れ出た。

「やった！」

ナターシャは両手を上げて喜びかけた。

「……え？」

バケツ一杯に黒い水が満たされている。覗き込んでもナターシャの顔が反されず、汲み上げたというのに水面が全く揺れていない。これは良くないものだ、と直的に理解した。捨てようとして持ち上げると、まるで鉛がっているかのように重かった。

それから何度もポンプを押してみたが、水は黒いままであった。見つめているとどこまでも沈んでしまいそうな黒。黒と呼ぶよりは黒そのものが形になったようなものだ。見つめ続けると潛在的な忌避が呼び起こされた。

「井戸が枯れているわけではないけど……なんで水が黒いのさ。私の喜びを返してよ」

井戸は一旦保留だ。街に流れる川を試してみよう。

ナターシャは廃墟の中央付近へ向かった。ヌークポウほどではないが、この街の住居もなかなかの集率だ。路地裏なんて日のすら屆いていない。きっとこの路地裏には貧しい人々が住んでいたのだろう。健常な人間が暮らすにはあまりにも暗すぎる。

り組んだ路地を抜けると大通りにつながった。街で一番大きな川が流れており、川を挾んだ両側に店と思われる廃屋が立ち並んでいる。ヌークポウの商業區みたいな所だろうか。活気あふれる大通りの姿を想像するとし寂しくなった。

ナターシャは適當なボロ布を拝借してから川に降りた。船著き場と思われる木製の足場に立ち、ボロ布で川の水をすくってみた。き通るほど綺麗で冷たい水だ。気溫も相まって指先がし痛い。ボロ布が水を含んだのを確認すると、今度は力一杯に絞った。

「し結晶が混じっているね。この量なら飲んでも大丈夫……いや、まずいか」

布の側には、一見では分からないほど小さな粒がついていた。川に溶けた結晶の粒子だ。ってようやくわかる程度の量であり、これならばしぐらい人にっても有害ではない。しかし、飲み続けるとなれば話は別。

ナターシャは悩んだ。一かバチかで川の水を飲むか、それとも井戸水を飲むか。どちらを選んでも賭けである。結晶化現象(エトーシス)を起こす可能のある川の水と、正不明の黒い井戸水。有害の可能が予測できる分、まだ川の方がマシだろうか。

「賭けはしたくないんだけど、こればっかりはどうしようもないわ」

賭けとはつまり思考をやめて運に任せるということだ。可能な限り避けたいが、選択肢は限られている。賭けを選ばねばならない場合もあるだろう。

流れにを任せる生き方は嫌いだ。だから自分の力で生き抜くために銃を練習し、リンベルを通じて外の報を集めた。いつかヌークポウを抜けるために。いつか、自分の足で生きるために。

は悩む。仮に川の水を飲んだとして、それで結晶化現象(エトーシス)が発生しなかったとして、果たしてその選択に未來はあるのだろうか。今は平気でもいつかは限界が訪れる。良くてその場しのぎ、悪ければ死が待つのみ。本當にそれが最善策だろうか。

が選ぶにはあまりにも難しい選択であった。

○

數刻後、井戸の前にナターシャの姿があった。彼は黒水を選んだ。それが正しい選択かはわからないが、彼なりに々な可能を考えた結果である。

地下水を汲み上げた井戸水が結晶化現象(エトーシス)を起こす可能は低い。最悪の結果を結晶化現象(エトーシス)と仮定するならば、なくともその最悪だけは免れるというわけだ。もちろん他の原因で命を落とす可能は充分に考えられるが、川の水を選んだところで緩やかな死は避けられない。ならばしでも可能のある方をナターシャは選んだ。

「……やっぱり不安になってきた」

帰り際に廃墟から見つけた綺麗なバケツをポンプの先にセットする。そこへ並々と井戸の黒水が注がれた。やはり真っ黒だ。何度もくみ上げれば井戸水が澄むかと期待したが、殘念ながら黒いままだった。

「え、えっ、本當に大丈夫かな……まずいよね、これ。明らかにまずいよね」

不安に染まるナターシャ。とても人が飲んでいいようなものには見えない。しかし、殘念なことにナターシャのは限界を迎えており、つばを飲み込むこともできないほど渇いていた。

ナターシャは恐る恐る黒水をすくってみる。やっぱり、重い。両手ですくっただけなのに重すぎる。人がけれるには重くて、黒い。は口元にまで近づけ、嫌な予に一瞬躊躇し、意を決して飲み込んだ。

「……っ！？　グッ……ゲホッ……！」

おめでたいことに、その選択は間違いだ。が焼けている。強烈な拒絶反応だ。黒水(こくすい)はのを焼きながらを巡り、胃を、心臓を、脳を焼いた。急に全が重くなって倒れ伏す。立ち上がることができず、何が起きたのかも分からない。視界が黒く明滅し、誰かの笑い聲が頭の中に反響する。

ダメだ、吐き出さないと死ぬ。そう思いながらも吐き出されたのは自分のだった。世界がぐるぐる回転し、痛みと後悔と絶と、濁流のようながあふれてくる。

それでも最後まで足掻こうと地面をかきむしり、何度も吐を繰り返しながら、ナターシャの意識は深い黒水の海へと沈んでいった。

○

寢起き前のぼんやりとした意識のなかで、はゆっくりと覚醒した。何が起きたのかを思い出そうするが、脳がまともに働いてくれない。だが、が渇いた。水がしくてたまらない。

――水？

朦朧とした意識の中で自分が眠っていたのだと自覚する。瞬間、ナターシャは跳ね起きた。

「うそ、どれだけ眠っていた……？」

心臓がバクバクと脈をうち、急速に脳が冷えていく。今は一何時だ？　太はどこだ？　まだ月は出ていないか？

自分のが無事かどうかよりも先に、今が夜かどうかを確かめた。太は見えず、空も薄暗くなり始めているが、結晶風は吹いていない。まだ夜ではないということだ。

急いで立ち上がると、若干ふらついた。妙にが重い。視界も若干赤い気がする。ナターシャは無理やりを支えるながら周囲を確認した。

もぬけの殻だった廃墟に生きの気配がする。もぞもぞとく結晶。窓ガラスの向こうに蠢く影。路地裏を徘徊する結晶憑き。もしくは、塔から滲(にじ)む黒い塊。晝間は閑散としていたはずなのに、まるで街全が目を覚ましたようにき出した。

夜がくる。月明かりの森が活を始める。帰らねば。今すぐ、教會へ帰らねば。焦燥がの心をはやし立てる。

「ハァッ、ハァ……」

化けの気配に何度もを隠しながら、は教會を目指した。街の雰囲気が明らかに異常だった。日暮れとともに一変し、空気そのものが廃墟から夜の街へ変化した。地面からぼこぼこと結晶が顔を出し、結晶憑きのうめき聲が周囲から聞こえてくる。

（森の生きが夜に活を始めたってことかしら……もっと早く目を覚ましていたら……！）

教會までもうしという時、街全の輝きが増した。空を覆っていた雲が晴れて、満月が顔を出したのだ。

そのを見た瞬間、ナターシャは月明かりの森という名前の意味を思い出した。月のが結晶に反して森全を七に染め上げる。空を見上げれば視界いっぱいに結晶の輝きがうつった。ヌークポウから見た空とは比べにならないほどのしさだ。

北の方に高い塔が建っており、その塔からびる結晶は一際大きく輝いていた。あれが森の外から見えた結晶だろう。巨大で、非現実で、されどこれは現実だと自己中心的に押し付けてくる。

ナターシャは走った。

何とか夜風が吹き始める前に教會へ逃げ込むと、ナターシャは貓のように丸まった。「何も起きずに夜が明けますように」と首無しの神像に祈りを捧げる。明日を生活よりも今日の安全を。教會の窓ガラスから結晶憑きが覗いていた。他にも正のわからない影がゆらゆらと揺れていた。月明かりが教會の中に化けの影を落とす。

銃を握りしめたは、ただただ、息を殺しながら眠りについた。

次の日、街中の井戸を確かめてみたが黒水しか出なかった。一この街はどうなっているのだ。ついでに昨日の黒水をもう一度口にしたが、今度は平気であった。