《【書籍発売中】貓と週末とハーブティー》1 犬系男子と常連さんと
「早苗先輩、最近なんか調子よさそうッスね」
「そう?」
ガヤガヤと騒がしい、お晝の社員食堂。
甘ダレのからあげ定食を注文し、適當な長機の席で味噌をすすっていた早苗のもとに、ひょこっと後輩の犬飼善治(いぬかいぜんじ)が現れた。
のある八重歯を覗かせる彼も、手にしているのはからあげ定食だ。善治は「橫、失禮しまーす」と言って、よいしょと早苗の隣に座る。
「イライラしていることが減ったというか、なんか余裕が出來たというか……さっきだって、課長にまたいろいろ攻撃されていたのに、特に荒れていないじゃないッスか」
「あー……これのおかげかも。なんか鎮靜効果があるんだって」
「なんスかこれ、クッキー?」
スーツのポケットから、早苗は開封済みのビニールの小袋を取り出す。
中はもう二枚しかない、貓の顔を象ったクッキーだ。
「これね、ラベンダーりなの」
「ラベンダー? それって、あのトイレとかで匂うやつッスか」
「はい、食事中! 犬飼の知識は芳香剤しかないわけ? すっごく落ち著く香りと味なんだから」
クッキーの出所はもちろん、週末カフェ『ねこみんと』だ。
――――はじめてあのカフェを訪れてから、もう一ヶ月ちょっと。
季節は変わり、夏も本番真っ只中。
早苗は毎週、土日のどちらかは必ずカフェに通っていた。今ではすっかり常連で、他の常連さんとも顔見知りである。
早苗の仕事の愚癡も、ゆるく頷きながらぜんぶ聞いてくれる要は、『これ、イライラしたときにこっそり食べてください』と、帰りにいつもこのラベンダーのクッキーをくれる。
彼の言葉の通り、早苗はストレスがMAXに到達しそうになったとき、隠れて一枚ずつ齧っているのだが、ほんのり甘くて舌で溶かすと気分が安らぐのだ。
微かに鼻孔をでるラベンダーの香りと共に、へにょっとした要の笑顔も思いだし、リラックス効果はバッチリだった。
「犬飼も食べてみる? おいしいよ」
「じゃあ後で頂きます。でもクッキーだけでストレスは消えなくないッスか? せっかく花金だし、久しぶりに飲みにいきましょうよ!」
茶がかった髪を揺らして、二カッと善治が屈託なく笑う。
上背もありそこそこ顔が整っている善治は、小奇麗なモデル系の要とはまた種類が違い、アイドル系のイケメンだ。その人懐っこい格も相俟って、男共に好かれているし、取引先からの評判もいい。
だけどそんな善治のキラッとスマイルも、早苗はあっさりかわして「うーん、今日は止めとく」と斷る。
「えー! なんでッスか! あんなに飲んでばっかだったのに、ここ最近の先輩、っても來てくれないし……!」
「いや、止めていた読書を再開したら、本の続きが気になっちゃって……」
『ねこみんと』に通うようになってから、善治の言うように心に余裕が生まれた早苗は、好きだった読書に沒頭していた。
「ごめんね、また來週行こう。じゃあ」
「え!? もう行くんスか!?」
みそを飲み干し、早苗はラストのからあげを口に放り込んで席を立った。午後からは暑さにも負けず、すぐに外回りに出る予定なので、食事が終わればのんびりしている暇はない。
不満そうな善治の前に、殘りのクッキーを袋ごと置いて、トレーを持った早苗は迷うことなく食堂を突っ切って消えて行った。
善治は名殘惜しそうに、そんな彼の背中を見送る。
「うう……早苗先輩がつれない……」
「あれは、新しい男が出來たわね」
「わあ!」
善治は背後から突然聲をかけられ、驚いて箸を取り落とす。
振り向けば、早苗の同期である経理課の長谷川子(はせがわとうこ)が、サラダセットを持って立っていた。
「あ、新しい男ってそんな……先輩、彼氏と別れたって言っていたばかりで……!」
「一ヶ月も前でしょ? もう次の彼氏ができていてもおかしくないわよ」
赤いをつりあげて、子は不敵に微笑む。
黒髪ショートカットに、スタイルのいいエキゾチック人な彼は、妖しげな笑いも様になっている。
「の勘であれは絶対、早苗に心許せる相手が出來たのよ。あの様子を見る分に、かなり上手くいっているみたいだし? これはあんた、またチャンスを逃したわね」
「う、噓だ……これでようやく、俺のターンが回ってきたと思ったのに……っ!」
「なになに、犬飼くん、ついに足立さんにフラれたの?」
「いーや、どうせわんこは、告白すらせず散ったんだろう」
かに話を聞いていた社員たちが、ぞろぞろと善治と子の周りに集まってくる。『わんこ』と社共通のあだ名で弄られた善治は、「まだフラれていないッス!」と泣き聲をあげた。
善治が早苗に片思い中なことは、社員間で有名な事実である。
社時から、善治は犬のようにわんわんと早苗に懐いており、惜しみなく好意を向けていたので、周囲には彼の気持ちはバレバレだった。ただ一人知らぬ者は、仕事中だと回路が全面停止する早苗だけだ。
アタックしてもスルーされる善治を、皆は「いつかわんこの想いが葉うといいね……」と微笑ましく見守っていた。
「足立さん、自覚ないけどモテそうだしね。元気出しなよ、犬飼くん。ほら、焼きプリンあげる」
「あの手のタイプは、もっとハッキリ言わなきゃ伝わらないって言っただろ? 出張土産で余った最中やるよ」
「わんこ、とうとうフラれたんだって? チョコでも食う?」
「業務中にしけた面はすんなよ、犬っころ。あーほれ、飴やるから。イチゴ味だぞー甘いぞー」
「子供をあやすみたいになぐめさないで……! というか、まだフラれてないって言ってるじゃないッスかー!」
トレーを貢ぎでいっぱいにしながら、食堂に響き渡る聲で善治がぶ。
完全に大型犬の遠吠えだった。
やれやれとそんな善治を見下ろしながら、子は「それにしても……」と、早苗が置いていったクッキーの袋に目を留める。
「あの子のお相手って、いったいどんな人なのかしら……」
※
「いらっしゃいませ、早苗さん。今週も來てくれたんですね」
あっという間に平日が過ぎて、日曜日の午後一時。
通常営業中な『ねこみんと』で、カフェスタイルの要がへにょりと笑って早苗を迎える。
照りつける太の日差しから逃れるため、今日はウッドデッキの方ではなく、室のカウンター席を選んだ。外ではミーンミーンと蟬の聲がうるさいが、中は冷房が効いていて涼しい。白のノースリーブから覗く早苗の汗ばんだ腕を、冷たい風が乾かしてくれた。
隅っこを見れば、ミントも丸まってそよそよと涼んでいる。
「あら、早苗ちゃんこんにちは! こう毎日暑いと、なんにもする気がおきなくて困っちゃうわよねえ。こんなときは、クーラーの下で要ちゃんの綺麗なお顔を拝むに限るわ。あ、隣來る? どうぞ座って!」
「こんにちは、志保さん」
先客に椅子を引かれ、早苗はコンコルドで束ねた髪を直しつつ、「ありがとうございます」とそこに座る。
常連の手洗志保(みたらいしほ)は、近所に住む四十代の主婦だ。ふっくらした型に、パーマのかかった髪をいつも右肩でまとめている。顔立ちはタヌキっぽく、人好きのする印象で、実際にフレンドリーで誰にでもお喋りである。
そんな彼がこのカフェに通うようになったきっかけは、今は涼み中などこぞの三貓が、洗濯中だった靴下をくわえて逃走し、追いかけたらここにたどり著いたとか。
「ミントちゃんも、夏場はもふもふのが邪魔そうよね。私たちはおいしいものでも食べてやり過ごしましょ! 私はさっき、本日のおまかせコースを頼んだところよ。デザートは『レモンバーベナとオレンジのすっきりゼリー』ですって」
「いいですね、涼しそうで。私もそれで」
といっても、おまかせコース以外を頼んだことはないのだが。
カウンターの向こうに佇む要は、かしこまりましたと微笑んで用意に取りかかる。
「ふんふーん♪ アは明日になっても帰れない~♪ イはいつからこの案件してたっけ~♪ ウは噓だろ終わらない~♪」
「ハッカさん、なんですかその滅茶苦茶な歌詞と音調の歌は。聞いていて悲しくなってくるんですが」
「俺作詞作曲『社畜のアイウエオ~殘業バージョン~』です。エは『え? 今更追加案件ってなんですか』で、オは『遅すぎる帰宅』。別の『理不盡な上司バージョン』や『生意気な後輩バージョン』で、カキクケコとサシスセソもあるよ」
このあとさらに追い詰められる歌詞になっていくらしい。
謎の鼻歌を口遊みながらポットを手にする姿からは、一昨日の金曜の朝に早苗がベランダから見た、きっちり決めたスーツさんの姿とは重ならない。
相変わらず、すごい変わりだなと心してしまう。
「はあ……」
「……どうかしたんですか、志保さん?」
早苗が苦笑しつつも、何気なく要を見守っていると、いきなり橫で志保が特大の溜息をついた。
の起伏が激しい彼の顔は、さっきまではにこにこと元気そうだったのに、今はなにやら憂鬱そうである。頭上に黒い雲でも漂っているみたいだ。
あからさまに『話を聞いてしい』オーラを醸しだされ、素直に早苗が尋ねると、案の定、志保は「聞いてくれる、早苗ちゃん!?」と食い付いた。
「実はね……うちの旦那が浮気をしているみたいなの!」
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