《【書籍発売中】貓と週末とハーブティー》4 旅行と失と
さて、やってきた社員旅行自は、普通に楽しめるものだった。
もちろん上司への接待は忘れてはいけないし、先輩後輩の上下関係や、他課同士での付き合いなど、神経を張るところはバリバリ張る必要がある。
だが自由行時間が多目に設定されていたため、各々が好きなメンツと、のんびり過ごしている場面が散見された。
早苗は基本的に子と善治の三人で、バスの席を確保し、観スポットも共に回った。
ロープウェイで見た紅葉はしく、年甲斐もなくはしゃいでしまった。
そして、あっという間に訪れた夜。
「えー……それでは、我が社のますますの発展を祈りまして。乾杯!」
カンパーイ! と、畳敷きの広い宴會場に、朗々とした聲とグラスをぶつけ合う小気味のいい音が鳴る。
人によっては、この夜に開かれる宴會こそが、今回の旅行のメインだと言う者もいるだろう。
長機がいくつか並べられ、機の上に乗る料理はどれも和食中心で豪勢だ。席は最初は重役が固まり、あとは課ごとに分かれていたが、宴會が進むに連れて席移が自然と行われる。
なお、不の重役席には、若い者から順番に送り込まれる暗黙のルールがある。
「うう、行きたくないッス……みんな話が長いし。常務からの圧力、妙に強いんスよ、俺」
「期待されているってことじゃない。はい、いってらっしゃい」
渋る善治をせっつき、しょげる大きな背中を見送った早苗は、しばらくお刺に舌鼓を打って他課との流を楽しんでいたのだが。
思い立って、こっそり宴會場を抜け出し、同じ階のバルコニーに出た。
湯上がりの早苗の格好は、長い髪をまとめ上げ、シンプルな七寶模様の浴を著ている。心地のよい秋の夜風が、浴の裾を掬い上げた。
頭上には煌々と照る三日月。
街中の喧騒から離れた山奧のここでは、月がいつもよりはっきり綺麗に見える。
……ミントを拾って、はじめてハッカさんの家に行ったときも、こんな三日月だった気がするな。
昨日の鞠との電話で、多もやもやが晴れた早苗は、ここ最近では比較的穏やかな気持ちで、要との出會いを思い起こす。旅行が想定より満喫できたことも含め、今の気分は決して悪くない。
ただ一つ問題が去れば、また新たな問題が生まれるもので。
「會いに行こうにも、すごく行きづらいんだよね……」
鞠の『カナメに會いに行ってあげてね』という言葉が脳に浮上し、早苗は手摺に肘をついてため息をもらす。
旅行から帰ったら……とは考えていたのだが、あんな去り方で一ヶ月も間が空くと、普通にカフェに行くだけでも至難の技である。
しかも、要への気持ちを自覚した後だとなおさら。
「早苗先輩、見つけた! ここにいたんスね!」
「なに? もう常務から解放されたの、犬飼」
ペタペタとスリッパの音を立てて、後ろから現れたのは善治だ。重役組に囲まれて飲まされたのか、のあるアイドル顔はほんのり赤らみ、男用の流水模様の浴は著崩れている。
早苗は呆れた目で、「ちゃんと襟を直しなさい」と注意した。
「いやあ、ベロンベロンの常務に付き合ってたら、こっちも酔ってきて……なんか會社の未來は俺の肩に掛かっているらしいッスよ」
「よかったじゃん、さすがは営業課のホープ」
「早苗先輩には勝てないッスよ! 敵対していた上司にさえ認められるし、お酒だって強いし! 今だってまったく酔ってないでしょ」
「あのくらいじゃ酔えないわね」
「カッケェ!」
しばらくそんな軽口を叩いていたのだが、ふとした瞬間に善治は真面目な顔をする。
「……早苗先輩、最近元気がなかったみたいですけど、今日は元気そうでよかったッス。その、なんかあったんですか? か、彼氏との間で」
「彼氏? 別にいないけど」
「! そ、そうなんスか! 薄荷さんって彼氏じゃないんスね!」
「なんであんたがハッカさんを知っているのよ」
すぐ隣に來た善治に、早苗はうろん気な目を向ける。『彼氏ではない』と聞いて喜んでいた善治は、悪びれもなく子から聞いたことをカミングアウトした。
「じゃあ薄荷さんと早苗先輩はなんでもなくて、先輩は今はフリーなんスよね?」
「…………まあ」
「え、なんスかその間。やっぱり薄荷さんって……」
彼氏ではない。
決して彼氏ではないが、『気になる人』であることは間違いないので、なんでもないと言い切られたら、早苗としては複雑だった。
骨に顔を逸らした早苗に、百面相な善治は天から地、「やっぱり俺、もう二度と薄荷キャンディーは食わないッス……」と絶の表を浮かべて肩を落とす。早苗からすれば意味がわからない。
しかし、善治は負けじと一人で起して、橫の早苗との距離を心なしか詰めた。「覚えているッスか?」と、あくまで笑顔で話しかける。
「俺が社したての頃、商品を強引に勧めすぎて、先方のお怒りを買っちゃったこと」
「ああ、あったわね、そんなこと。あやうく既存の契約まで取り消されかけたんだっけ。あんた、ちょっと調子に乗ってたもんね」
「返す言葉もないッス」
よくも悪くも人好きのする格で、天の営業向けの才能を持った善治は、新人にも関わらず最初からどんどん果をあげていった。
それ故の慢心か、お得意様の取引先を怒らせ、取り返しのつかない大きなトラブルになりかけた過去がある。
「あのとき、早苗先輩に助けられて、俺いまでもすっごい謝しているんッス」
『やっちゃったことは仕方ない。どうしようって悩んでいるうちに、まずは會って謝りに行くよ。私も一緒に行ってあげるから、止まる前に行! 後悔するのはそれから!』
青褪めて頭を抱える善治の肩に手を乗せ、早苗はそう勵ました。
先方に関するデータをかき集めて、早苗は善治を連れて誠心誠意謝罪を行ない、なんとか契約続行を維持したのである。
……悩んでいるうちに行しろか、と。今になって過去の自分の言葉が、早苗に返ってくる。
「あのときの先輩、本當に本當にカッコよかったです」
「まあ、あそこはもともと、犬飼に引き継ぐまでは私の擔當だったし。あんたも今では、怒らせた相手と仲良しでしょ」
「たまに一緒に飲みに行って、その話をネタにするくらいは仲良しッスね」
「しかも強引に勧めたはずの商品も、ちゃっかり契約取ってくるし……犬飼のその、転んでも諦めないとこ、私の方こそ尊敬してる」
見習わなきゃなと、早苗は月を見上げながら思った。
善治は茶がかった髪をかきながら、早苗の方を向いて、意を決したように告げる。
「だから、フラれても諦めない覚悟で言います――――俺、早苗先輩のことが好きです。俺とお付き合いしてくれませんか」
えっと、早苗は驚いて善治を振り返った。善治の目はどこまでも真剣だ。冗談なんて欠片も混じっていないことがすぐにわかる。
早苗は頬を赤くして、思わず口を開けたまま固まってしまったが。
ほどなくして……小さな小さな聲で、「ごめん」と謝った。
告白をけても、どうしても浮かんでしまうのは、ハーブティーのポットを手にして「早苗さん」と自分の名を呼ぶ、あのゆるい笑顔なのだ。
「ごめんね、犬飼。……本當にごめん」
「そう何度も謝らないでください! 死覚悟だって言ったじゃないッスか! でも、これだけは教えてしいッス。……その薄荷さんっていう男、そんなにいい男なんですか」
「一般的ないい男……ではないかな、たぶん」
素はとにかく怠いしゆるいし、スーツさんモードは出來る男なのだろうが、そんな自分の二面に悩んでいたりと、わりと面倒臭い。
いいところと殘念なところを比べると、殘念さが若干勝つくらいだ。
「だけど人のことをよく見ていて、一緒にいると落ち著くっていうか……。あと、ハッカさんの淹れるハーブティーはおいしいし、不思議と効くの。なんか魔法みたいに」
「ハーブティー? 植のお茶ッスか?」
「そうだよ。ハッカさんって植系ネコ男子なの」
早苗が笑って教えれば、犬飼はをわざとらしく尖らせ、「なんかよくわからないけど、早苗先輩がソイツのこと好きなのはよくわかりました」とぼやいた。
改めて他人に自分の気持ちを言われると、うずうずむずい気持ちになる。
善治はくるっと踵を返した。
「というわけで無事に死亡したんで、俺は戻って飲み直してきます。今度、俺をめるために焼連れていってくださいね!」
「普通、フッた相手がフラれた相手をめるもの?」
「早苗先輩と焼食べたいからいいんです!」
犬歯を見せて強がる善治の背に、早苗は謝ることは止めて「ありがとう」と聲をかけた。善治は特になにも言わずに去って行って、一人に戻った早苗は、夜の闇の中でふうと息をつく。
旅行から帰ったらちゃんと、要に會いに『ねこみんと』に行こうと、そう靜かに決意した。
――――その一方、宴會席に戻った善治は。
「わんこ、お前はがんばったよ! 男だったよ!」
「私までドキドキしちゃったよ~、お疲れ、犬飼くん!」
「さあ飲め飲め。今日はじゃんじゃん飲め!」
「まあ、犬飼にしてはがんばったんじゃない? ほら、注いであげる」
子を含む、全の三分の二くらいの社員に囲まれ、酒や食べをぐいぐい勧められていた。
忘れてはいけないのは、今は社員旅行の最中。
善治の早苗への片想いは、社訓と同じくらい社員の間では知っていて常識な事柄であり、善治が早苗を追って宴會場を出た段階から、何人かがつけてこっそり様子を見ていたのだ。
つまりは、わんこの失はすでに周知の事実である。
「俺も若い頃は、フラれた経験なんて星の數ほどあったぜ……ほら、刺も一緒に食え。日本酒はいけるか?」
「あんな告白、私も旦那にされたかったわ。天ぷらもおいしいわよ」
「フラれてフラれて、男は磨かれるってもんよ! ビールもあるぞ! ジョッキでいけ!」
「失した夜は飲むのが一番だぞ、わんこ。ほらぐいーっと! あ、茶わん蒸し食う?」
「だからみんなしてあやさないで……! まだフラれて……フラれましたけども! 俺はまだ諦めてないッスから!」
とりあえずハーブティーの勉強して出直すッス!
そう吠えてビールを一気に呷り、善治の夜は更けていったのだった。
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