「……なにを思い出しているかは知らないけど、人を放っておいて彼方に意識をトリップするのは止めてくれる？」

「うわっ！」

子の呆れた聲で、善治は現実へと引き戻された。

あの事件の日から、まだそんなに時は経っていないというのに、善治にとってはひどく懐かしくじる早苗との思い出だった。

「ときどきニヤけていて不気味だったわよ」と、橫から突き刺さる冷たい眼差しが痛い。

「それで？　絶対に諦めない宣言はできないけど……の続きはなによ？」

「あーっと、口に出して言うのはその、俺的にはだいぶ恥ずかしいんで。勘弁してしいというか、忘れてもらえたら……」

「ぐだぐだしてないでちゃっちゃっと言いなさい」

「はいッス」

悲しいくらい、この二人は明確な上下関係がり立っていた。

善治は恥心を誤魔化すように髪をガシガシかきながら、それでもしっかりした聲で言う。

「……いつか諦めるときがきたとしても、それはいまじゃないってじなんスよね。俺につける隙はまだまだあると思うんで。一度フラれているからもう怖いもんなしだし。報われない上等ッスよ！　悩んで止まる前に行！　後悔するのはそれから！」

後半はヤケクソ気味だったが、善治のを打った早苗のお言葉を拝借させてもらった。

廊下を通りすがった掃除スタッフのおばちゃんが、善治の熱のこもった聲にビクッと肩を跳ねさせたが、どうか聞き流してしい。っから良い子な善治は「驚かせてすみません。掃除お疲れ様ッス！」と一聲かけることも忘れない。

彼はおばちゃん連中にも人気があり、『ぜんちゃん』と呼ばれて可がられている。

だが無理やり問い質したはずの當の子は、「ふーん」と興味なさそうに髪のの枝チェックをしていた。

「え！？　聞いといてその態度ッスか！？　なんかこう、激勵とか応援とかないんスか！？」

「まあ、がんば」

「軽っ！」

「あんたの敵の……早苗のお相手である植系男子くんは、たぶん強敵だと思うからね。私も無責任なことは言えないわけよ。とりあえずバジルだっけ？　ちゃんと育つといいわねとだけ、エールを送っておくわ」

「うぐぐ……なんか今日の子先輩、俺にいつもより手厳しくないッスか？」

「そうかしら？　いつも通りよ、いつも通り」

『薄荷』とかいう名前の植系男子は、犬飼にとっては現在一番のライバルである。

本のわんこよろしく唸る善治を橫目に、子は壁からゆったりと背を離した。彼も彼で、これから経理課の陣とランチに出掛けるところだったのだ。

ついでに噂の中心である早苗は現在、お晝にも行かず自分のデスクでまだまだ書類の処理に追われている。

「だけど頑張るわんこくんに、やさしいやさしい私からひとつ、とっておきの報をあげるわ」

子先輩がやさしいなら全人類がやさしいッスよ……という不用意な発言は飲み込んで、善治は「なんスか？」と首を傾げる。

「飲み會だけど、早苗は參加するらしいわよ」

「へっ？　でも早苗先輩、今回は欠席するって話していたッスよ。この前のときに飲み過ぎたから……って」

だからこそ、善治は行こうか悩んでいたのもある。

「気が変わって行くことにしたそうよ。これ知っているのはたぶんまだ私だけだから、あんたは知らなくて當然ね」

「なんで子先輩にだけ……」

「だって幹事だからね、私」

事も無げに自分を指差す子に、「いやあんたかい！」と善治は今度こそツッコミをれた。

それならそうと、會話の最初に明かしてほしかった。

『幹事の人にもいい迷』とか刺を生やしていたが、つまり出席するかしないかはっきりしない善治に、迷していたのは子というわけだ。

だからどうりで、今日はいつもより手厳しいわけだった。

「それで幹事様に出席のお返事は？」

「早苗先輩がいるなら一択ッス……參加させて頂きます」

「オーケー。これでようやく店が予約できるわ」

子は善治の返事を聞けて満足したようで、ヒールをカツカツと鳴らしてさっさとこの場を去っていく。「次からは幹事様を煩わせんじゃないわよ」という嫌味には、善治はぐうの音も出ない。

嵐が去ったあと、彼は腕時計をチラッと見て「うわヤバ！」と目を見開いた。

「のんびり話していたらこんな時間じゃないスか……！」

早苗をいたかった定食屋までは、會社から歩くとなるとし距離がある。聲をかけるなら早くしなくては。

いやその前に、彼が仕事を片付けてすでに食堂の方に行ってしまっていたら、そもそもおうにもえなくなる。

子が消えた先とは逆方向に、善治も心なしか小走りで歩み出す。

「負けないっスよ……！」

――それはいろいろな意味を込めた決意表明だ。

犬も歩けば……ボールペンなどではない、いつかんだ『幸せ』に當たるかもしれないことを信じて。

【オマケ～その週末の『ねこみんと』にて～】

「ああ、そういえば、早苗さんにお話ししようと思っていたことがあったんでした」

「ん？　なんですか？」

「実はこの前、新しく植えるハーブの苗を見ようと、ホームセンターに行ったんだけどさ」

「ホームセンターってここらへんだと、病院が近くにある大きいとこですよね。私もたまに行きますよ。……ていうか、まだこの庭に草を増やすつもりなんですか」

「可能な限り増やしますよ、趣味もかねているんで。そこで苗を味していたら、バジルの苗の前で固まっている男がいてさ。一人言こぼして、めちゃくちゃ悩んでいるみたいだったから、つい『バジルは初心者でも育てやすいですよ』って口挾んじゃって」

「ハッカさんらしいですね。それでどうなったんですか？」

「『そうなんスか！　ご親切にどうも！　じゃあこれにします！』ってすごい勢いで謝された」

「バジル……無事に育つといいですね……」

教えてくれた親切な人が敵だったとは、バジル相手に「すくすく育てよ」なんて話しかけている善治には知る由もない。

これにて番外編は終了です！

書籍版も発売中なのでよろしくお願いいたします♪

最後までお付き合いありがとうございました！