《【書籍化決定】読家、日々是好日〜慎ましく、天無に後宮を駆け抜けます〜》24室、消えた刃.3
春蕾が戻って來たので護衛を任せ、食事の前に湯に浸かろうと明渓は湯殿にきた。湯治を売りにしているだけあって湯殿は宿の外に十ヶ所ある。通常は日替わりで男れ替わり制になっているけれど、今客は明渓達と孫庸ぐらい。湯殿に興味がない男陣には二か所が割り當てられ殘りは用となっている。
(今日はどこにしよう)
昨日は四カ所も湯を巡り楽しんだ。しかし、人が殺されたとなった今日はそんな気になれない。一日中外にいてが冷えたこともあり、宿から一番近い場所を選んだ。
春蕾の話では流石に明日にはどうにかなるのでは、ということなのでこの宿に泊まるのも今夜が最後だろう。それならば、せっかくだから試してみようとあるも懐に忍ばせてきた。
選んだのは、屋はないけれど三方を竹垣で囲まれた湯殿。山に作られているので眼下に見える景が素晴らしいと聞いてここを選んだ。
木の扉を開けると簡素な棚と板間の所があり、そこで服をぐと桶にいろいろ詰めて溫泉に続く扉を開ける。
小さな湯だからって直ぐに先客がいるのに気がついた。萌だ。
「あら、申し訳ありません。お客様より先にってしまって」
慌てて出ようとするので、明渓は手を顔の前で振る。
「気にしないでください。湯冷めしますし、よければご一緒しませんか?」
「そうですか、では若奧様のお言葉に甘えて」
何か今聞き逃せない言葉が耳を掠めた気がする。
「いえね、普段はもっと遅い時間にるのですが、旦那様があのようなことになりましたでしょう。怖くて明るいうちにと」
「お気持ち分かります。さぞかし、びっくりされたでしょう」
「はい、あのあと武のお兄様にいろいろ聞かれましたが、白湯を持っていったら倒れていたとしかお答えできずお役に立てませんでした」
そうなると、誰を夫と勘違えているのかは聞くまでもない。
(初日に同じ部屋に泊まっているから仕方ないのかもしれないけれど)
否定したらそれはそれで面倒だ。
(ふしだらな娘に見られるか、若奧様に見られるか)
どちらも嫌だ。迷だ。
「若奧様は背も高く人でいらっしゃるので、ご主人もさどかしご自慢のことでしょう。私も、もうし長がしかったです。高いところのなんかすっと取れて羨ましいです」
確かに萌は小柄だ。玉風は明渓より一寸低いぐらいだけれど、萌は頭一つ分小さい。
「いなくなった笙林も若奧様よりし低いぐらいでしたので、臺所の棚は背びをすれば屆きましたが、私は踏み臺がないと屆かないから不便なんですよ」
長が高いのを羨ましがられることはあるけれど、実際に便利だったと思うのは高いところにある本に手が屆くぐらいで、それほど利便はないと思う。が、ここは曖昧に笑っておくことにする。
萌は、はぁとため息をついて眉間に皺をよせた。
「奧様も隨分転されていて、これからどうなさるか」
「今はお一人で?」
「はい。一人にしてしいと。部屋にはしっかり鍵をかけていらっしゃいます」
人間不審に陥っているのだろうか、それとも誰とも顔を合わせたくないのか。聲も出ず、顔に火傷を負った玉風を思い出す。彼はこれからどうするのかだろうか。そしてそれは彼だけではない。
「萌さんはこれからどうされるのですか?」
「実は春に娘が孫を産むのです。でも、嫁ぎ先が商家で娘も産んだら直ぐに店に出なくてはいけないので子守を頼まれていまして。春にはこちらを辭めるつもりだったのです」
先程までの固かった表がし緩んでいる。春から赤子の世話とは何だか近親間が湧く。もっとも母がつくから明渓が赤子を世話することはないだろうけれど。
「こうなると、子がいないのがまだ幸いかも知れませんね。奧様はいがお得意ですから、お一人ならまだ何とか生きていけるでしょうし」
「結婚して十年ほどになるとか」
「ええ。お二人がこの宿を始めてすぐに雇って頂きました。目のパッチリした可らしいお人でしたよ。でも、一度流産をされ、そのせいでお子が産めないに」
萌はよく話す中だった。でもそれはこの狀況だからというのもある。燈実が殺され、それを目撃し、気を張り詰めて一日を過ごした。湯に浸かって々気が抜けても仕方がない。
「奧様はそれが負い目だったのでしょう。旦那様の浮気にも隨分目を瞑っていらっしゃいました」
「浮気、ですか」
それは初耳だ。多分春蕾にも話していないだろうと明渓は思う。お互いで湯に浸かっていれば、普段話さない話題も意外と口をつくことがある。
「ええ。ここにを売りにくるならまだしも、時には若い中にも。よく我慢していらっしゃいました。こちらは浮気相手に子ができたらどうなることかと心配していたのですが、もしかしたら子だけ引き取るつもりだったのかも知れませんね」
「宿の跡取りとして、ですか」
「にとって跡取りを産めないのは肩が狹いですからね。私も娘に子かできたと聞いた時は心底ホッとしました」
確かに後宮でも帝の子を孕めばその地位は確立される。そう考えると四人も子を産む香麗妃の立場は揺るぎないものだろう。そして婚姻とはやはり煩わしい。そう思うのに
「若奧様も仲が宜しいようなのですぐにできますよ」
口の端が引き攣るのを笑いで誤魔化す。それをどうとったのか萌はにこにこしている。
「昨日、一緒に足湯に浸かっていらっしゃいましたが、ご主人はおしそうにずっと若奧様を見つめていらっしゃいましたよ」
「…………」
これは何と答えれば良いのだろうか。妻であるなら間違っても蟲ケラを見るような目をしてはいけない。明渓は全力で顔の表筋をかし笑いをり付けた。そして誤魔化すように桶を手に取る。中にはわざわざ持ってきたものがっている。
「あっ、若奧様、いけません。ここにそれを持ち込んでは」
いい加減若奧様は辭めてしい。そして桶にっているを明渓は摘み上げる、
「大丈夫です。これは使い古した簪ですから」
桶にっているのは子供じみた意匠(デザイン)の簪。実家にいた時髪が邪魔で手近にあったもので適當に纏めていた。ついうっかり持ってきてしまったのだ。
「こちらの溫泉にれると腐食するのですよね。どれぐらいの時間で変するのか試そうと思いまして」
明渓は桶からもう一つ取り出す。白蓮から借りた砂時計だ。時間もしっかり計るつもりでいる。
「あらあら、何とも好きだな若奧様ね」
(もう聞き流そう)
乾いた笑いを浮かべながら湯を桶にとり簪をれようとする。でも、萌がその手を止める。
「でも、やっぱり勿無いわ。意匠は子供染みているけれど素材はいいもの。売れば幾らかになるわ。そうだ、臺所に古くて切れなくなった包丁があります。それを差し上げましょう」
包丁かぁ、と思う。大きいから簪より腐食に時間がかかりそうだ。日が暮れてしまわないだろうか、そう萌につたえると、
「ならば足湯を使えばどうでしょう。あそこは源泉ですからもっと早く腐食しますよ」
その言葉に明渓がパッと明るい顔をする。それは面白そうだ。簪より大きい分観察のしがいもある。萌は、所に布に包んで置いておくので帰りに持って行けば良い、と言いながら湯を出て行った。
明渓はいそいそとを洗い湯に首まで浸かりながら、先程聞いた話を思い出す。どうやら自分が思い描いていた夫婦像とは違うようだ。
燈実は妻を蔑ろにしているようには見えなかった。でも、それと浮気とは別なのかも知れない。この國では裕福であれば平民でも側室を持つことがある。浮気もその延長線上と捉えていたのかも知れない。
自分ならどう思うのだろうか、と考える。
(無理だ。想像できない)
結論はすぐに出た。妙齢のとしては何ともけない話だ。
湯から出ると服の橫に包丁が置かれていた。他人が見たら実に怪しい絵面だ。明渓はちょっと気まずそうにそれを袂に隠すと足湯へと向かった。これで今晩、誰かが死んだら疑われるのは自分ではないか、と思うと心なしか早足になっていた。
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