ステュクス王國は、大陸一の強國かつ神聖なる國家、自他ともにそう認められている。

そのステュクス王國が祀るオケアニデス教の主神ステュクスの神殿ともなれば、その権威は並ぶものなく、ときに王にさえ頭を下げさせる。だからこそ、ステュクスに仕える神殿の神長や巫たちは自律や自制を厳しく躾けられ、の黃金のステュクスの印にかけて誇りを忘れることはない。

その筆頭とも言える、神長パナギオティスは、神託を疑ったわけではないが、不安を宿していた。

何せ、ステュクス王國の王子の妃に、ウラノス公國という小國の娘をあてがえ、などという前代未聞の神託だ。當然、ステュクス王國側もてんやわんやの騒ぎとなって、何とか表面上落ち著きはしたものの、一刻も早くその娘を見つけ出してどんな人かを確かめなければならない。そうでもしなければ、浮き足立つ人々を鎮まらせることなどできはしない。

神託の娘を連れて帰る、という使命を帯びたパナギオティスは、すぐさまウラノス公國へ走った。本來なら仰々しく訪問すべきだが、急を要するだけにパナギオティスと付き人の見習い巫三人に護衛だけ、というささやかなメンバーとなった。もうその時點で不安はつきまとう。

だが、ステュクス王國の民に敬され、尊崇の念を浴びる聡明なる王子アサナシオスのためだ。かの王子は神託をけれた、それ以外に選択肢はないとしても、彼は堂々と、一瞬の躊躇いもなく承諾したのだ。それは王子としての義務を果たすためであり、主神ステュクスの権威を損ねないためだ。彼は國益に反することはしない、決して。

パナギオティスもまた、アサナシオス王子に一目を置き、國王は兄王子がなるとしても彼もまた將來のステュクス王國の重鎮となることは決まっており、彼のために働くことを喜びとしていた。それだけの価値がある人なのだ。

だからこそ、エレーニ・ガラニスを見定めなくてはならない、とパナギオティスは強く心に決めていた。

ところが、ウラノス公國に來て、ウラノス公からエレーニ・ガラニスの現狀を聞けば——想像とは何だか違うものだった。

まず、公だったことはまだ想定の範囲だ。たかが一市民、そのへんの村人が王子のお相手だったりすれば、神が許しても民の心は許さない。ここは、幸いにもウラノス公國公だったことはよかった。しかしだ、まさか修道にさせられていたとは思ってもみなかった。

いころから修道となったエレーニ・ガラニス。その時點でパナギオティスは察した、エレーニはウラノス公國の事で修道にさ(・)せ(・)ら(・)れ(・)た(・)のだと。政治的な思あって、ウラノス公から遠ざけられた公、すでに何やらきな臭さが漂う。それにガラニスの姓、ウラノス公國の隣の亡國ガラニシアに縁があるともなれば、ウラノス公國であまりいい待遇をけているとは思えなかった。

つまり、ステュクス王國は、パナギオティスは、エレーニに手を差しべにきた、という形になるのではないか？　だとすれば、話は早い。もしエレーニが不幸なの上であるなら、神託をこう解釈することもできる。

「偉大なる主神ステュクスは、不幸なる神託の乙エレーニを救い出せとお命じになられた。寛大なるステュクス王國が王子アサナシオスはこれをけれ、神託の乙エレーニを妻とする。その結果、ステュクス王國は——」

その先の話は、いかようにでも作り出せる。とにかく、ステュクス王國にとって悪い話ではない。聖俗ともにその評価を高める格好の材料となる。そのための神託、やはりステュクス王國にとっては益あるようにできている。

まあ、打算はそのくらいでいいだろう。パナギオティスはやってきたエレーニに會うことにした。何やら人里離れた修道院におり、ウラノス公の城へやってくるまで一週間かかる、という話だった。ウラノス公國の神殿巡りをしながらそれを待ち、一週間後の夕方、やっとパナギオティスはエレーニに面會を許された。

どのような娘だろうか——パナギオティスは、エレーニを一目見て、こう思った。

公らしく修道らしく、気高くそして何より清廉な雰囲気をまとうしい乙だ。ステュクス王國では華さは評価されない。著慣れた修道の簡素な服裝に、化粧などなくとも年頃の乙らしさを失わないエレーニは、パナギオティスにとってはなかなかに好印象だった。

これはよい巡り合わせだ。神託を全面的に信頼しはじめたパナギオティスは、興が乗ってエレーニにこう質問を投げかけた。

「ところで、エレーニ姫は修道だと聞いておりますが、何という神に仕えていらっしゃるのでしょう？」

「ああ、それは……忘卻を司る神レテです。なので、修道院も人里離れた土地にあり、今まで誰からも忘れ去られていました」

エレーニはこともなげに、そう答えた。

それがどれだけパナギオティスに衝撃を與えたかなど、知る由もないだろう。

パナギオティスは、エレーニが巫ではなく修道となっているあたり、予想をしておくべきだったかもしれない。神に仕える者という共通項はあるが、巫と修道は異なるものだ。

神の聲を聞くために神殿に侍らされている巫。そうではなく、異國の文化を取りれ、神と己のために厳しい戒律と修行をこなす修道。宗教國家から見て、どちらのほうが敬虔に見えるかなど、比べるべくもない。ましてや、忘卻の神レテは主神ステュクスの娘であり、隠者の修行の守護神でもある。

分の高い年頃の娘が、まさかそんな存在に仕える修道であるなど、ステュクス王國を見渡しても一人いるかどうかだ。

しみじみと、パナギオティスはエレーニにじり、同時に同を深めていった。この娘ならば、王子を誑かすことも、妃にありがちな出しゃばりな行をすることもないだろう。パナギオティスは心の中の申簿に満點をつけた。