恥じらう暇はなかった。

大浴場前の更室でアサナシオス王子とメイドに囲まれ、私はぐるみを剝がされ、湯浴み用のチュニック一枚になった。ちなみにアサナシオス王子はパンツ一枚、鍛えてはいないようだけど均整の取れたすらりとしたつきをしている。

ウラノス公國では風呂にる習慣はなかった。素を他人の目に曬すこともなければ、そもそも私は人里離れた修道院にいただ。ただただ、もはや恥ずかしいと思っている場合ではなかった。

「うぅ、どうしてこんなことに」

私の口から、弱音がれた。それをアサナシオス王子は聞き逃さなかった。

「どうもこうも、これから神殿に行くんだ。風呂にるのは當たり前だろう」

「そ、そうなのですか」

「そうだ。慣れていないだろうから、手伝ってやる」

「王子自ら、ですか？　それはあまりにも畏れ多く」

「何を言う。妻のを余人に見せられるか」

アサナシオス王子は堂々と、そう言った。

どうやら、アサナシオス王子の中では、すでに私は妻であるようだった。

嬉しいやら、恥ずかしいやら、などと思っていると手を引かれて大浴場へっていく。王城でも高い位置にあるらしく、遮るもののない突き抜けた空が頭上に広がる。湯気が立ち上り、雲と混ざる。足元には部屋ほどの大きさもある湯船に、並々と湯が張られていた。

まず、り口側にある洗浄のための小さな湯船に、私は足を浸けた。常に新しいお湯が循環し、溫かく清潔に保たれる仕組みにさえする。縁に腰掛け、後ろでアサナシオス王子が床に膝を突いた。

「髪を洗うからじっとしていろ」

私は無言で頷いた。しかし、隨分と髪はびていた。腰ほどもある。放ったらかしにしていたし、それほど栄養のあるものを食べていたわけではないから、アサナシオス王子がるたびに軋む。

「エレーニ、今まで髪の手れをしたことはあるのか？」

「申し訳ございません、そのような贅沢は許されておりませんでした」

「が髪を整えることが贅沢？　ああそうか、お前は修道だったか」

「はい。忘卻の神レテに仕える修道です、まだ」

修道院は通常、質素倹約を旨とするけど、その中でも神レテに仕える修道院は特に倹約を極める。というよりも、極力他人と接せず、限られた食住で生活を賄い、修行に邁進するものだから、そんな環境で長期を迎えた私がきちんと発育するはずもない。

髪はぼさぼさ、は荒れてはいないが青白く、痩せぎすでらしい曲線はどこにもない。男がれたって楽しくないだろう。私だって楽しくない。でも、どうしようもなかったのだ。

「せっかくの金の髪が臺無しだな。これからはきちんと手れをしろ」

「はい……かしこまりました」

「お前はいくつだ？」

「十六でございます」

「十六？　これで？」

「はい」

「十二、三歳かと思ったぞ……ちゃんと食事を摂っているのか？　ああ、うん、そうだったな。これからいくらでも食べるといい」

「恐れります」

そんな會話をしているうちに、髪が泡立てられ、花の香りが下りてくる。アサナシオス王子の指先がちょうど頭皮をもみほぐしてくれるものだから、湯で溫められているせいもあって、何だか気持ちがよくなってきた。なくとも、が強張るほどの張はない。心は別として。

「エレーニ、かゆいところはないか？」

「ございません。とても気持ちがいいです」

「そうか。は自分で洗えるか？　背中くらいは洗ってやるが」

「そこまでしていただかなくとも」

「嫌か？　俺がやりたいのだが」

「で、であれば、背中はお願いしてもよろしいでしょうか」

「うん、承知した。何、お前があまりにも痩せているから、自分で上手く洗えないのではないかと心配になる」

湯浴みのチュニックの上からでも、男にをられるというのは初めての経験だ。ただ、アサナシオス王子はごく丁寧な手つきでスポンジをかす。私は必死で、メレンゲほどもある石鹸の泡でスポンジを使って自分のをる。普段は水に浸した布で拭くだけだから勝手が分からず、アサナシオス王子の真似をして、汚れを落とすように洗っていく。

とはいえ、だ。

「遅い。もういい、こちらを向け」

「えっ」

「大丈夫だ。どうせ泡でったかどうかも分からない」

痺れを切らしたアサナシオス王子は、有無を言わさず用に私をくるくる回して、全磨くように洗い上げていった。肝心な部分にはれなかったので、そこは何とか死守できた。

アサナシオス王子に全くまなく洗い上げられて、髪を軽く結い上げられ、私は巨大な浴槽へ放り込まれ、お湯に肩まで浸かる。湯浴み用のチュニックにった大きな気泡を出したりと手間取っているうちに、アサナシオス王子はし離れたところにいた。

「俺も洗ってくるから待っていろ。熱くなりすぎたら出るように」

「はい」

そう命じられて、私はやっと一息ついて、空を見上げた。

外には、さらに高みにあるステュクス神殿だけが遠くに見える。まるで、天空の中にいるようだ。湯煙は高く舞い、時折ってくる風は涼しい。つい先日まで、このき通る青空の向こうにいたことなど、すっかり記憶の彼方だ。

花ののような、石鹸のいい匂いが髪から香ってきた。こんな匂いを嗅ぐことも、今までなかった。遠い昔に母が香水をつけていたことを思い出す。そのくらいだ。朧げで、忘れようとしている記憶。何もかも、私は忘れてしまいたかった。忘卻の神レテは、どれほど祈っても完全に忘れさせてはくれなかったようだ。

ああ、世界は醜い。俗世は嫌いだ。私は誰とも接したくはなかった。

しかし、今この場は、天國のようだ。丁寧に磨かれ、丁寧に扱われ、アサナシオス王子は強引だけど私を妻として、なくとも慣れていない風呂にれるくらいの世話はしてくれている。

それだけでもういいのではないだろうか。このままここで暮らして、一宿一飯の恩義とばかりに、アサナシオス王子の妻役をする。別に本の妻でなくともかまわない、アサナシオス王子は私を雑には扱わないだろうから、安心できる。

うん、そうしよう。それなら、私にもできそうだ。忘卻の神レテよ、私はあなたへの信仰など本當はなかったけど、ここですべて綺麗さっぱり失くします。あしからず。

そんなことを考えていると、私の隣にアサナシオス王子が來た。浴槽に浸かり、私の顔とごくごく近いところに、アサナシオス王子のしい橫顔がある。

「気分はどうだ。熱くはないか？」

「いえ、ちょうどいいです」

「主神ステュクスは綺麗好きだ、信者は毎日浴することが推奨されている。とりあえず、神殿に行く際には必ず浴するように」

「はい、かしこまりました。あの、アサナシオス王子殿下は」

「サナシスでいい。殿下も必要ない」

「では……サナシス様は」

私は、不安で溢れ出す心の中を、しだけ吐き出す。

「私などと、結婚したくなかったのではありませんか」

聞くだけ無駄だと分かっていた。誰だって嫌だ、好きでもない人間と結婚するなどどうかしている。王侯貴族だって、契約結婚は同じ分のある程度共通認識のある相手とする。それが、公とはいえ修道と、大國の王子だ。當然に、サナシスに私と結婚したいなどという気持ちがあるはずがないのだ。

それでも、私は不安を押し殺しきれなかった。口に出さずにはいられなかった。そのとおりだ、と否定されたかったのかもしれない。そう言ってもらったほうが楽だから、その言葉を待っていたのかもしれない。

しかし、サナシスはそんな言葉を使わなかった。

「お前は昨日まで顔も名前も知らない赤の他人と、今日いきなり夫婦になれと言われて納得するか？」

「いえ」

「そういうことだ。まず、知らなければ何も始まらない。お前を嫌うことも、お前を好きになることも、何もかもだ」

私はサナシスを見た。しい橫顔、空を見上げる明るい茶の瞳、それは決して、今、不機嫌ではないようだった。

私を嫌っても好きでもない、そう言ってもらえて、私はどれだけ安心したことか。

ただサナシスは思い出したように、私へ向き直り、注文をつけた。

「あとお前はをしっかり食べろ。が悪すぎる」

「は、はい」

「毎日髪との手れをして、しっかり休め。結婚や妻がどうとか、そういう話はそれから考えろ。俺は趣味だと言われるつもりはないからな」

つまり、とサナシスはこう言う。

「ちゃんと淑に育て。いいな？」

サナシスの目から見て、私はやはり、ちゃんと十六歳の淑として育っていないらしい。

私は消えりそうな聲で、はい、と答えることしかできなかった。