夢も信念も向上心もない男がいた。彼はひとり殘されたリビングで唯一といっていい日課を今日も朝から取り組んでいる。

「ふっ！　ふっ！　すぅー！」

『ハムストリングスをしっかり意識してください！　ペースは上げない落とさない！　常にあなたの全力で！　にたまった脂肪をどんどん出し切りましょう！　休憩中も気を抜かない！　関節を軽くかして次のラウンドに備えましょう！』

「ふっ！　ふっ！　すぅー」

スマートフォンの畫面を見ながらパンツ一丁でエクササイズする男。

この男はニートである。天涯孤獨というわけではないものの社會的には完全に孤立している。それなのに全くといっていいほど危機を持っていない。

２匹と６人家族の長兄であるのにもかかわらず、家計を支える気が無いどころか奨學金という名の借金まで家族に払わせ続ける始末。いわゆる社會からの落伍者だ。彼自、再起不可能と諦めている。

本名はあえて語るまい。なぜなら彼の名を呼ぶ者はを除いて他にいないからだ。

學生時代には友と呼べる者たちが大勢いたものの、人間関係をリセットした狀態でニートの世界に門してしまったため、連絡を取り合う友人はいなくなった。更新されないＳＮＳの友達リストが彼の最後の繋がりである。

そんなニートはひとりでいる時間が多い。両親は共働きで朝早くに家を出ており、兄弟は世帯を変えて獨立した。家族全員が揃うのはお盆や年末年始の時だけとなっている。

しかしニートは孤獨をじない。なぜなら彼には人生の師匠がすぐ側にいるからだ。

「にゃー」

師匠の登場だ。時間も場所もわきまえずに乞いしてくる気分屋さん。

「ちょ危ない……どうしたの。おやつ食べたいと？　よーしよし。でちゃろうね。あー逃げる。なんやねん」

「にゃー」

「はいはい。チョロちゃん、おやつ食うね。おやつがいるね。よーしよし。あー逃げる。なんやねん」

「ヒメちゃーん！　おやつ食べるー？」

ニートの呼び聲に応える者はいない。返事を待たずに棚から貓のおやつを取り出すと、プラスチックの袋同士でこすれ合う音が鳴った。するとたちまち２階からドタドタと足音を立てて、もう１匹の師匠が降りてきた。

貓にとってはニートの大きな聲よりも、おやつ袋の小さな音のほうが魅力的に聞こえるようだ。

「にゃー」「にゃー」

「はいはい。そんな急かさなくてもおやつは逃げないから。おやつ食べたらお利口にしてね」

おやつを食べ終わったらなんのお禮もなく貓たちは離れていき、各々の場所を確保してづくろいを始める。用が終わればすぐに自分の世界へ戻るのが貓という生きだ。

くだらない生きだ。こんなに小さくて生産のカケラもない存在が、まるで自分を中心に世界が回るといわんばかりにふてぶてしい態度を取る。

そんなわがままな生活を毎日継続する貓の神に、ニートは最大の敬意を表した。

スマートフォンの畫面をタッチすると、停止していたエクササイズ畫が再生される。

ヨガマットが汗でびちゃびちゃになるまで運したら、床を濡らしながら風呂場に直行し、水道熱費なんて気にせずシャワーを存分に浴びた。

ニートは軽度の潔癖癥である。日に二度も本格的に全を洗うため、石鹸やシャンプーなどの消耗品の減りがはやい。の洗いすぎは健康に悪影響を及ぼすと知っているにもかかわらず、健康でいるためにを洗うという矛盾を日々繰り返している。

風呂から上がって重チェック。いつもどおりの重だ。子高生の平均重とぴったり。

一連のルーティーンを終えると、しばらく自由時間が訪れる。そもそもニートは年がら年中自由時間のはずだが、彼の心にとってはゆとりのひと時なのだ。

ニートはゆとりの時間を使ってまとめサイトを見たり、匿名ＳＮＳで世間の聲を収集する。主に政治カテゴリーの履歴を殘しているようだ。働いておらず、法人や慈善団など中間の繋がりがないニートにとって、近な話題は政府の向なのだ。

ニートが世間と繋がれるのはインターネットでボタンを押す瞬間だけだ。

インターネットはニートの居場所だ。彼は読書家だが文學は苦手なようでプロ小説家の本をほぼ読まず、読むにしてもネットのワーナビー作家の小説くらい。主に日本史や世界史を始め、政治や財政を記した評論、エッセイ本や哲學、生學や科學史や量子力學の専門書など幅広い分野の書を好んで読む。

行しないニートにとってこれらは全て虛學であるが、ニュース関連の話題には若干ながら地の利がある。

記事の見出しや切り取りしか読めない人に対して優位に立てるくらいには知識があるため、コメント欄があるニュースサイトの閲覧は承認求を満たす絶好の場所である。

しかし、ニートが議論したりコメントを書き込むことはない。

なぜならニートは社不安癥に加えてオンライン恐怖癥だからだ。［いいね］を押すのが一杯のコミュニケーションなのだ。

もしもニートがオンライン恐怖癥を克服したときを思うと恐ろしい。勢に疎い社會人たちを相手取って、なんの社會貢獻もしないニートがマウントを取り続けてしまうのだ。

そこらの青申告者よりもファイナンシャルリテラシーがあるニートが、働き疲れた労働者たちを説教していくネット事になるのは恐ろしい。

ゆとりの時間は終わり、１２時を告げるチャイムが窓の外から聞こえてきた。この時間に投稿される畫を視聴するためにパソコンの電源スイッチが押される。

ティーパックをれたマグカップにお湯を注ぎ、椅子代わりのバランスボールに座ってパソコンの立ち上がりを待った。

今日は畑に行くことを祖母と約束したにもかかわらず、半日が過ぎてもこの余裕。なんなら行かない日もある。

ニートは約束を忘れたのではない。覚えたうえで行しない。行かない理由は特にない。人との約束が必ずしも行の原力になるとは限らないのだ。

デスクトップ畫面が表示されるまでスマートフォンをいじる。紅茶が充分飲める熱さになる頃、パソコンのデスクトップ畫面が表示された。

まだスタートアップに時間がかかるものの、これを待たずにブラウザをクリックして紅茶をすする。ティーパックは水面から引き上げない。紅茶が苦くなる前に飲み終えてしまうからだ。

スマートフォンでゲームアプリを作しつつ、図書館で借りた古代日本史を読み、経済評論家の最新畫を視聴する。謎の高能マルチタスク。生産は皆無だ。

すると突然人が変わったようにスマートフォンを閉じ、本を閉じ、パソコンをシャットダウンして洗面所へ行く。固い歯ブラシで歯を塗れにして、顔を洗ったらトイレに駆け込んで靜かになった。

個室から水が流れる音が聞こえてニートが出てきた。やけに落ち著いている。一連の謎行のあと、服を著替え、耳にイヤホンをすると家を出た。

どうやら祖母の家へ向かうようだ。

かと思えば進行方向は祖母の家から外れており、その足は本屋に向いている。ニートは決まった曜日になると本屋で週刊年誌を買い、青年週刊誌を立ち読みする習慣がある。今日がその日らしい。

エコバックを片手で持つニートが本屋から出てきた。夏の直日に怯んでいる。最新のアニメソングを再生するとまた歩きだした。今度こそ祖母の家に向かっている。

本屋は片道２０分。祖母の家まで５分。結局、自宅を出てから合計４５分歩いて祖母の家に行くことになる。

それだけの時間なら平気で歩いてしまうのがこの暇人だ。

ニート生活をモニターしてから數時間、ようやく舞臺に到著したようだ。広い前庭の向こうにある長い平家が祖母の家。

語はここから始まる。

ここで明らかになるニートの特異がある。一般論として親しき仲にも禮儀ありという論語を起源としたことわざがある。輸されたことわざは日本文化に溶け込み、いつしか常識となって社會活の中に浸している。

人の家を訪ねれば相手がどれほど親しい間柄でもインターホンを押して來訪を知らせるのが常識的な作法だ。

しかしニートは正面の玄関に向かわず、広い前庭を回り込んで裏庭から無言で侵した。

その理由は何か。ニートが説明するには、玄関を汚したくないことと効率が良いからだそうだ。

一方、祖母側からしてみれば裏の鍵を常に解錠しておかなければならないため防犯的にもやめてしいそうだ。だが夫が逝き、三人の娘たちとも複雑な事で疎遠となっており、唯一不定期で訪れる孫にまで離れてしくないという思いから口に出せずにいた。

お縁の掃き出し窓を開け、ニートは買ってきた週刊誌と財布を置いた。この時間に祖母はおらず買いに出かけている。

家主の不在というのに躊躇(ためら)いもなくカゴを漁り、農作業用の服に著替えた。

農作業用といっても本格的なものではない。中學校の著だ。それもお下がりだ。には従兄弟の苗字、ズボンの元の持ち主は妹だ。日々のエクササイズのおかげでガタイは良いもののニートは小柄であった。

ニートは裏庭にある倉庫から三又の備中鍬(びっちゅうぐわ)を取り出して畑へ向かう。

マルチシートの上から枯れた野菜のっこにクワの刃を刺し、土をらかくしてから素手で一本ずつ取り除く作業を繰り返した。

作業が終わり、ゴミを一ヶ所にまとめるとの高さになるまで枯れた野菜が積まれていた。ニートはクワを支えにしばし休憩すると、畑に殘されたマルチシートなども片付ける。

どうやら今日の畑仕事はこれで終わりらしい。ニートの１日は１ターンで終わる。

働き疲れと直日のダブルパンチを食らって立ちくらみを覚える。

膝から崩れ落ちそうなを自慢の幹で立て直した次の瞬間、地面が揺れた。

木々の葉がれ、そこらじゅうの建が軋む音が聞こえてくる。

立ちくらみに加えて地震の揺れが襲ったせいでニートは倒れてしまった。

倒れるさなか、その顔面を突き刺してやろうと備中鍬が爪を立てて待ち構える。

農の切れ味を舐めてはいけない。備中鍬は固い土をいとも簡単に掘り起こせる道だ。固い皮を持つカボチャをない力で割ってしまうくらいには危ない。

間一髪というところで両腕が間に合い、プッシュアップの勢で難を逃れた。

「あっぶなぁ、死ぬとこじゃんか」

ニートは獨り言が多い。家族がいるなかでもテレビに話しかけるくらいには獨り言が多い。なんなら會話の最中でも獨り言を言う。一人の時なら當然のように獨り言は増える。

「はあ……今の震度いくつだろう。俺を転ばせるとか相當やぞ。震度１０はあるんじゃないかと」

震度は５弱だった。見當違いも甚だしい。ニートは拠のない自信をベースにして自己を肯定している。もはや他者の評価をけられない分なため仕方がないとも言える。

「ステ……タス……」

先ほどニートの命を刈り取ろうとした勇敢なクワを持ち、片付けるために倉庫へと戻った。

ガラガラと錆びたレールの上を転がして強引に倉庫の扉をこじ開ける。

倉庫の中を見てニートは絶句した。

「うそやん……」

倉庫の床に大が空いている。床に置いていたはずのじゃがいもや玉ねぎが大に転がっていた。大といっても傾斜の勾配(こうばい)はそれほど高くなく、バリアフリースロープ程度の下り坂だ。しかし底は深くて奧の方までじゃがいもが転がっているようだった。

「はあ……こっちは疲れとるんやぞ。明日にするかー」

転がった野菜を放置して帰ろうする。だが彼の良心が大に引き戻した。

「たぶん婆ちゃんが取りに行くよなぁ。危ないよなぁ」

防犯意識が低く親不孝者ではあるものの、人一倍の優しさ持つ點が彼の良いところだ。

大雨で死にかけた貓を助けたり、兄弟を不良から守ったなど、まるで語の主人公のようなエピソードがある。

社を捨て去った現在の姿が全ての回想を臺無しにするのだが、それはともかく優しさだけは捨てられなかった。

ニートは備中鍬を片付けると、懐中電燈とカゴを持って大にった。大の中は暗い。鮮やかな玉ねぎならまだしも、ライト無しではじゃがいもを見逃してしまう。

転がった野菜を拾いつつ奧の方へどんどん進んで行くと、大の先が明るくなっていた。

「上にが空いてんのかな。つーか長すぎやろこの。人ん家の田んぼまでってねーか。雨降ったらやべーな」

ニートはすでに全ての野菜を拾い終わっていた。しかし足は止まらない。子どものような冒険心に押されて進んでいく。

進むにつれて大はだんだんと明るくなり、懐中電燈のスイッチを切った。

もうライト無しでも先が見える。源を探して仰ぎ見ると天井には想像したようなが空いておらず、強烈に発する蟲の集合がウジャウジャと天井に張り付いていた。

「新種かあ？　やばいだろこの熱量。蟲が放っていいレベルじゃねーぞ」

ニートは試しに玉ねぎの葉を蟲に差し出した。しかしなんの反応もなく蟲たちはきもしない。

そんなとき橫から思わぬものが玉ねぎに食らいついた。

そいつは壁から頭を出して玉ねぎの葉をムシャムシャかじり始めた。

「うわあああ！」

ニートの想はでかすぎるの一言。人の太ももくらい大きな昆蟲だった。

節足に見られる堅い殻、多足類にみられる沢山の歩腳、見た目はダンゴムシのようだがダンゴムシは玉ねぎのように刺激が強い野菜は食べない。

この大きさの昆蟲が雑食だった場合、人間も食料になり得る。

逃げなきゃマズい。そう考えたらすぐに持ちを捨てて走った。ゴム長靴の重さをじさせないほど軽やかに來た道を駆け戻った。

追ってくる者はいない。無事に倉庫へ戻れて安心したは良いもののニートは結局なにをしに行ったのか。

懐中電燈は落とし、拾った玉ねぎとじゃがいもは置いてきて、果といえばファンタジーのような謎の生の報のみ。

失ったものが多すぎる。あのままにしておけばせっかく収穫できた玉ねぎとじゃがいもが全滅してしまうかもしれない。

ニートは片付けたばかりの備中鍬を手に取った。

せめて巨大ダンゴムシが玉ねぎを食い終わる前に落としてきたを全て回収したいと考えた。

長靴の紐をギュッと締めて固く結ぶ。服のズボンの紐もしっかり結ぶ。

準備萬端いざ出陣か。と、その前にニートはんだ。

「ステータス、オープン！」