《星の海で遊ばせて》寄り添う二羽(3)
柚子の後ろ向きな考えはそうして、土曜日から――正確に言えば先週の金曜日文蕓部の部室を出た後から、ずうっと連鎖して、ぐるぐるぐるぐると、螺旋階段を地下に向かって下っていくように、気持ちの底へ底へと掘り進められていった。
寢ているのか、起きているのかよくわからないまま、柚子は気づくと、涙を流していた。鏡を見なくても、自分の目がどうなっているのかは想像がついた。熱は、ぐんと上がりもしなければ、平熱に戻ることもない。めそめそじめじめと、柚子は自分が、ナメクジにでもなるのではないかと思った。
ぐうっというお腹の音で、その日何度目かの〈朝〉を迎えた。
今は一何時なのか、朝なのか、晝なのか、時間の覚がつかめない。
「柚子ちゃん――」
階下から、母の聲が聞こえてきた。
「柚子ちゃん、起きてる? 柚子ちゃん」
階段を上る足音とともに、聲はだんだん近づいてきた。
そして、コンコンとノックがあった。
「柚子ちゃん、起きてる?」
「うん」
くぐもった聲で返事をする。
「今さっき、お友達來たわよ」
友達と聞いて、紗枝の顔が思い浮かぶ。そうか、紗枝ちゃん、心配してわざわざ來てくれたんだ。嬉しいなぁ。
「今行く」
「もう帰っちゃったわよ」
「……上がってもらわなかったの?」
「いいって言うから」
悪いことをしたなぁと、柚子は思った。次會った時、ちゃんと話そう。水上君のことも、何があったのか、全部。こんなに心配してくれたんだから、ちゃんと――。
「水上君って男の子」
柚子は、慌てて扉を開けた。
驚いた母の顔があった。
「大丈夫……?」
「水上君? 水上君が來たの!?」
「そう名乗ったけど……」
柚子はパジャマのまま急いで階段を降りると、サンダルをつっかけて玄関を出、家の前の通りに出た。びょおおっという冷たい風が、柚子の髪をもみくちゃにして、そのの熱も一気に吹き飛ばしていった。ゴロゴロゴロという、大地の怒りのような雷の音が、分厚い、真っ黒い空に轟いている。ほどなく、大粒の雨がばらばらと降り出してきた。
柚子は急いで家に戻り、リビングに降りてきていた母に詰め寄った。
「水上君、何か言ってた!?」
「お大事にって」
「それだけ!?」
「あとそれ、お見舞いだって」
娘のまくしたてるような勢いに圧倒されながら、柚子の母は、ダイニングのテーブルに置いた見舞いの品を目で指した。ツルツルした白ビニールに、桜の箱がっている。柚子はビニールから箱を出し、開けてみた。中には、六種類のゼリーがっていた。そしてふと、袋の中に、半分に折られたA4の用紙が殘っていることに気が付いた。
用紙を手に取り、開いてみる。
――秋風に たなびく雲の 絶え間より
もれ出づる月の 影のさやけさ――
草書の流れるような筆文字。
柚子は、小さくその和歌を口ずさんだ。
「柚子ちゃん、合はもういいの?」
「え?」
柚子は、一瞬、母が何を言っているのかわからなかった。そして、自分がパジャマ姿でいること。今日學校を休んだこと。一瞬前まで、がだるかったことなどを思い出した。柚子は、自分の額に手を當てた。熱があるのかないのか、わからなかった。首筋から背中にかけて、じんわり熱を持っている。不快な熱さではなく、ポカポカするような、心地の良い暖かさだ。
「お風呂、ってくる」
柚子は、自室に戻り、枕の橫に詩乃からの手紙を置いてすぐにバスルームに向かった。顔が熱く、じっとしていられない。水上君がお見舞いに來てくれた。ショートメッセージで一言とかで良かったのに、わざわざ來てくれた。なんで來てくれたのか、急に來てくれたのか、全然わからないけど、緩んだ顔が元に戻らない。
柚子は風呂場にり、バスチェアに座って、シャワーの水栓レバーを押し上げた。勢いよくシャワーの湯が飛び出して、柚子の頭から全を濡らして流れる。窓から聞こえてくる大雨の雨音、風の音。雷がごろごろと鳴っている。
――水上君、今頃電車の中かな?
柚子は風呂場の、し開いた窓を見上げた。
あとで電話をかけよう。お禮を言おう。水上君と話せる。それから、そのあとは、紗枝ちゃんに電話をしよう。水上君とのことを、やっぱりちゃんと報告しなくては。
シャワーを止める。
嬉しさと恥ずかしさがこみあげて來て、柚子は、イチゴミルクのようなデザインのボトルからシャンプーを出して、わしゃわしゃ、わしゃわしゃ、と、思い切り髪を洗った。
詩乃が柚子の家に見舞いに行った翌日。
柚子は、すっかり調も良くなり、飛び跳ねるような気持ちで朝、登校した。
柚子が教室にってゆくと、皆、柚子に労いの言葉をかけた。柚子は、満點の笑顔と聲で皆に応えた。いつもよりテンションが高いのは、風邪明けのせいだからだろうと皆思っていたが、昨日、柚子からの電話で諸事を聞いている紗枝だけは真相を知っているので、こっそりほくそ笑んでいた。
「お、おはよう紗枝ちゃん……」
紗枝は教室のど真ん中の席にいて、柚子は紗枝の意味ありげな笑顔を見つけると、とととっと紗枝のもとにやってきた。
「ご、ご心配をおかけしました……」
ぺこぺこと頭を下げる柚子の頭を、紗枝は暴にでつけた。
「でも、水上の行はつくづく想定外だったわね」
呆れたような口調で紗枝が言った。
柚子は、昨日の自分の浮かれっぷりを思い出して、はにかんだ。
「――で、水上とは連絡取れたの?」
「ううん、まだなんだよね」
「返事、返ってきてないんだ」
昨日、風呂から出た後、柚子は詩乃からの手紙を橫に置いて、詩乃に電話をかけたのだった。ところが、電話は、コールはするものの、詩乃は出なかった。そのあと、十分おきに三回かけたが、出ず、紗枝との電話が終わった後でもう一度かけなおしたが、結果は同じだった。ショートメッセージに、笑顔のマークをふんだんに盛り込んだお禮のメッセージをれたが、今もって、既読さえも付いていない。當然、返事もない。
「まぁたぶん、見てないだけなんだろうね」
「うん。そうだよね?」
不安げに、柚子は紗枝に同意を求める。
紗枝は、そんな柚子の顔を見て、思わず笑ってしまった。やっぱり自分は嫌われているのではないか、と心配している柚子が、紗枝には面白くてたまらない。
「もうししたら、ひょっこり來るでしょ」
――ところが、一時間目、二時間目、そして三時間目と四時間目も終わり、晝休みになっても、詩乃は登校してこなかった。どうしたのだろうかと心配になって、柚子は四時間目が終わってすぐ、詩乃に電話を掛けた。ところが電話は、例の、電源がっていない、というアナウンス。昨日と違ってコールさえしない。
「どうしたんだろう」
心配になった柚子は、文蕓部の部室に行ってみた。部室の鍵は開いていたが、人が來た形跡はない。柚子は教室に戻り、紗枝に報告した。
「いなかった?」
「うん……何か、あったのかな」
柚子は、し深刻に考え始めた。
「そんな考えることないでしょ。風邪とかじゃないの?」
「そうかな……」
しかしふと、柚子は、詩乃が一人暮らしだということを思い出した。事故とか火事とか強盜にられたとか、事件に巻き込まれたわけではなく、単なる風邪だったとしても、一人暮らしなら、それはそれで一大事ではないだろうか。
「ちょっと、先生に聞いてくる」
柚子はそう言うと、今度は職員室に赴き、擔任に詩乃のことを聞いた。しかし擔任も、詩乃からは連絡をけていなかった。柚子が再び教室に戻ってきたときには、すでに晝休みは半分ほどが過ぎていた。柚子はまだ、弁當箱さえ出していない。
「水上君、一人で大丈夫かな」
時間とともに不安がつのる。
「あぁそっか、水上って、一人暮らしなんだっけ」
紗枝もそれを思い出し、それなら、ちょっと狀況も違うなと考え直した。風邪だとしても、その度合いによっては、一人だとしんどいかもしれない。
「確かにちょっと、心配だね」
「うん。大丈夫かな……」
自分の事のように柚子は悩んでしまう。何かあったの? もしかして、風邪引いちゃった? 大丈夫? ――そんなショートメッセージを詩乃にれる。弁當箱の橫にショートメッセージの畫面を開いたままにして置き、晝食を食べ始める。紗枝と話をしながら、ちらちらと畫面を確認する。しかし、何分待っても、メッセージには既読すら付かない。
あまりにも心配そうな柚子に、紗枝は背中を押してやることにした。
「お見舞い、行ってみる?」
実は、柚子もずっと、そのことを考えていた。詩乃の家の住所は先生に聞けば良いとしても、突然家に押し掛けるのは、迷な気がする。特に風邪でも何でもなくて、水上君のプライベートな用事があって休んでいるだけだとしたら、それこそ、お節介と思われて、また嫌われてしまうのではないか。その不安があった。でももし、風邪だったとしたら――。
「やっぱり、行った方がいいよね」
そう尋ねる柚子の顔は、真剣そのものだった。いつも笑っている柚子の、こんなに真剣な顔は、紗枝も初めて見た。これはもう、友人として応援するしかないと、紗枝はこの瞬間に、柚子の思いの本気度を悟った。
「うん。行った方がいいと思う」
柚子は頷き、弁當をしまった。
「私も付いていこうか?」
「大丈夫」
柚子はそう答えると、自分の席に戻って、必要なものをスクールバックにれた。え、放課後じゃなくて今行くの? と紗枝は驚いたが、柚子がそのつもりならと、咎めるような言葉は言わないことにした。
「何かあったら連絡するんだよ」
「うん。ありがと」
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