《星の海で遊ばせて》トラバース(1)

「はいじゃあ休憩しよー!」

冬休み、ダンス部は一月の四日から始まるステージ合宿に向けて忙しい日々を送っていた。三年生のほとんどは験勉強で冬の合宿には來ない。夏の合宿とは違い、一年生、二年生で作り上げる初めてのステージ合宿である。

大晦日、高校近くの公民館の多目的ホール。ダンス部の一、二年生は、早朝から練習をしている。柚子の合図で、崩れ落ちる一年生たち。二年生も似たようなものだが、二年生には笑うだけの余裕がある。

暖房も付けていないのに熱気でむんむんする部屋の窓を、柚子は開けて回る。それから、汗で濡れた床をモップがけする。先輩、私やりますと、ふらふらな足でやってくる後輩に、柚子は笑顔を向けて、大丈夫大丈夫、休んでねと肩を叩く。それだけで、いっぱいいっぱいの一年生は、泣きそうになってしまうのだった。

「一年生、一生懸命だね」

柚子は、並んでモップがけをしている千代に言った。

千代は、ホールの壁際に退き、スポーツドリンク片手に育座りという、見るからに満創痍の一年生たちを見やった。

「まぁ、柚子が頑張ってたら、後輩はやるしかないでしょ」

「え? 私?」

柚子は、特別頑張っている、というつもりはなかった。一年生の間は、夏も冬も覚えることがたくさんあって特に大変だから、先輩として、やれるサポートはしっかりしよう、と思っていた。

二人のモップの後ろから、もう一人、モップをかけながらやってきた男子がいた。細で二重瞼の、見るからに優しそうな男の子――三ツ矢京。千代の彼氏の〈みっくん〉である。

「お疲れ様です」

京は、二人に――特に柚子に向けてそう言った。

「みっくんもお疲れ様。いいよ、休んでて」

「大丈夫です。鍛えられてるので」

そう言って、京はちらりと千代を見る。千代は、わしゃわしゃと京の髪を暴にでつける。痛い痛いと、京は笑いながら訴えた。

モップがけのあと、柚子は、手提げ袋にれて持ってきていた三つの大きなタッパーを取り出した。レモンのはちみつ漬けである。柚子はそれを、皆に振る舞った。柚子の差しれに、皆のモテベーションも上がり、一年生の表も明るくなる。

千代と柚子は、隣り合ってお握りを食べ、そのあとで、デザートとしてはちみつ漬けの黃いレモンを齧った。

柚子が優しいのはずっとそうだが、近頃は、をかけて優しくなってきているような気が、千代にはしていた。甘ったるい優しさではなく、優しさの広さと深さが増してきている。今までも笑顔が可く綺麗だった柚子なのに、その笑顔も何か、今までと違う。瞳の深さが、変わったような気がする。

「――やっぱり、水上君?」

「え!?」

突然千代に言われて、柚子は驚いてしまった。

「最近柚子、前にも増して綺麗になってるからさ」

「そう、かな……?」

柚子は首を傾げた。

クリスマス以來、柚子は、詩乃と會っていなかった。連絡も取っていない。ラインも、ショートメッセージも、それに類するあらゆるコミュニケーションツールを、詩乃は嫌っている。唯一電話だけは大丈夫なのだが、今はその電話すら、柚子はしていなかった。會う約束くらいは、本當はしたかったが、柚子はそれを躊躇っていた。

誕生日のデート、イブのダンス會、そしてクリスマスの水族館――柚子は詩乃の様子を思い返し、詩乃に無理をさせていたことを自覚したのだった。今連絡をしたり、會う約束なんかをしたら、かえってまたプレッシャーを與えてしまうような気がしていた。それで、クリスマス以降は連絡を取っていない。ダンスをしていると気が紛れて良いが、ふと思い出すと、寂しさを思い出す。

「それ、その目だよ!」

「え?」

「なんかさ、柚子、憂いが出てきたよね、憂いが!」

〈憂い〉という言葉を近頃、千代は古典の授業から仕れていた。千代も、神原教諭の授業は嫌いじゃなかった。

「まだ水上君と連絡取ってないの?」

「うん。本當は會いたいんだけどね」

「そうだよねぇ……。でも、柚子のそういう所偉いよ。私なんか、會いたいと思ったらすぐ電話しちゃうもん」

「でも、そこがちーちゃんのいい所だよ」

にこにこと答える柚子。

しかしその返答自も、何か、今までの柚子と違うなと千代は思うのだった。もともと丁寧な言葉遣いの柚子だが、近頃は、そこに不思議な意味や意図のようなものを込めるようになった。

「今度さ、水上君と會わせてよ。ダブルデートしよ、ダブルデート」

「うーん……でもそういうの、水上君苦手かも」

「あぁ……そっか。じゃあしょうがないかぁ」

千代は、まだ詩乃と直接言葉をわしたことがなかった。千代は本當に、どこかで水上詩乃という男の子と、話がしてみたかった。柚子がこれほど心を向けている相手というだけで気になる。そしてまた、小説を読んでみて、作家としての詩乃にも興味を持っていた。小説を書くなんて、千代にとっては別世界の住人の仕業である。同じ學年の生徒が、小説を書けるものなんだと、それだけで心してしまったくらいである。おまけに、容もすごく良かったと、千代は思っていた。

「でも……もしかすると、ちーちゃんと話合うかもしれない」

柚子は、考えながら言った。

「そうなの?」

「うん。なんかね……」

柚子はそうして、レモンを口に含み、その甘酸っぱい果をかみしめながら言った。

「私って、全然ダメなんだよねぇ……」

「柚子が!?」

千代は、柚子の意外な言葉に思わず反応して、そうして笑ってしまった。千代からすると、柚子にはダメな所なんて一つもなかった。千代は柚子から、後輩にビシっと言えない自分をけなく思っている、というようなことをポロっと打ち明けられたことがあった。ちーちゃんいつもごめんね、そういう役目させちゃって、と。しかし千代からすると、柚子は怒れないのではなく、怒らないなのだ。自分が嫌われるからではなく、柚子はいつも、相手の気持ちを考えすぎてしまう。

「うーん、やっぱり水上君と、話してみたいなぁ」

千代がむつかしそうな顔で言う。柚子は、千代が詩乃に本気で興味を持ってくれていることが嬉しかった。興味を持たれすぎるのも困るが、詩乃の良さは、わかってほしい柚子なのだった。

「すごく優しいんだよ」

「そうなの? 柚子に?」

「誰にっていうのじゃないんだけど――クラゲとか深海魚の気持ちに寄り添えるような優しさ、かな……」

「待って、それは特殊すぎる」

そうだよね、と柚子は笑った。

普通は、そんな風に考える人はいない。でも、水上君は考えている。たぶんいつも、教室の片隅で。そして今は、たぶん家の中で。もしかすると、河川敷を散歩しているかもしれないけれど。

一年生が、早々に練習を再開し始めた。

それに促されるように、二年生も立ち上がる。柚子の差しれの力、恐るべしと思いながら、千代も軽な作で、跳ねるように立ち上がった。

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