《星の海で遊ばせて》トラバース(5)

一月七日――久しぶりに柚子と會う日の朝。

詩乃は、一時間半の短い睡眠から、自分でかけたスマホのアラームで目を覚ました。午前八時。詩乃は、ぼんやりとした頭で顔を洗い、頭から湯を被った。タオルで髪の水を拭き取り、強引に寢癖を直す。ドライヤーで適當に髪を乾かし、デスクチェアーに腰を下ろす。

詩乃のは複雑だった。

柚子に會えるという嬉しさも、次の瞬間には、ため息となって消えてゆく。

新見さんの事を好きだと思う気持ちの分だけ、そこから逃げ出したい気持ちも膨らんでくる。いつか新見さんを失させてしまう、そのことがどうしても怖かった。かといって、〈良い彼氏〉というものを演じるのも、自分にはやっぱりできそうにない。

相手のことを考える、お互いに歩み寄る、そういう気持ちが、特に人同士には必要だという。彼氏彼の関係でも、夫婦の関係でも。でも自分は、人の気持ちに寄り添うことなんてできない。できないというより、そうしようと思った試しがなかった。人間は結局孤獨だ。大事なことは、一人で考えなければならない――そんな考えを、詩乃は拠も良くわからないままに、ずっと小さい頃から持ち続けていた。他人に合わせること、を売ること、ご機嫌を覗うこと、それを、詩乃は嫌っていた。調子の良い笑顔、気休め、中のない言葉――それが嫌いだから、他人と関わらない。関わりたいと思ったこともない。

――だから自分は、新見さんには相応しくない。

新見さんは、どういうわけか自分のことを、優しいと思っている。でもそれは間違っている。いつかそれに気づいて、失させてしまう。新見さんを、そんな気持ちにはさせたくない。

合宿先からの電話をけ取った時、詩乃は、二つの真逆の期待を同時に抱いていた。

この電話で振られたい。

振られたくない。

電話越しの新見さんは、一どんなだったのだろうか。電話では、聲が聞きたくなっただけと言っていた。でもそれは、本當の所は、わからない。本當は、ちゃんと用件があったのかもしれない。その要件が、自分との、今のこの関係に関することだったかもしれない。

しかし詩乃は、そこまで考えて、そうじゃないな、と思った。

そうじゃない。

新見さんがどう考えていたとしても、別れるなら、自分が切り出さないといけない。

別れる――そうだ。今日はその話を新見さんにしないといけないんだ。自分といたら、新見さんが不幸になってしまうと、そのことを、伝えなければ。

詩乃は、弁當箱を二つ用意して、二人分の弁當を作り始める。

きっと店にったら、落ち著いて別れ話なんてできない。一番良いのは、部室だ。文蕓部の部室なら、靜かだし、他人に話を聞かれることもない。弁當を食べながら、話をしよう。たぶん最後の食事になるから、味しいのを作ろう。

詩乃は包丁を握った。

時間になり、詩乃は弁當箱を手提げに突っ込み、制服を著て、ロングコートを羽織った。

出がけに、詩乃はネックレスの事を思い出した。

――もし今日別れるなら、渡そう。

詩乃は引き出しからネックレスの箱を取り出して、それも手提げにれ、家を出た。

駅の北口、階段の下。

詩乃が自転車でやってくるのを、柚子は待っていた。柚子は、詩乃が褒めてくれた赤いダッフルコートを著てきていた。詩乃の姿を見て、柚子は自然と笑顔になる。思わず、子供のように手を振ってしまう。そんな無邪気な柚子の様子を見て、詩乃は、やっぱりもうし一緒にいたいなぁと、思ってしまうのだった。

「明けましておめでとー」

「おめでとう」

「なんか、すっごく久しぶりな気がするよ。會えてよかったぁ」

「うん……」

詩乃は、柚子を見ていると自分の決意が崩れそうになってしまうので、柚子から目を背けた。柚子は、詩乃の顔が曇ったのを見逃さなかった。

電話でじた嫌な予が蘇ってくる。

「水上君、もしかして、また寢不足?」

「そういうのって、わかるものなの?」

「わかるよー」

にこにこと柚子は答えた。

はそういうの、やっぱり鋭いんだなーと、詩乃は呑気に心してしまった。

「新見さんは……合宿明けだよね?」

「うん。私はほら、元気だけが取り柄だし」

柚子は、両腕を上げて、スーパーマンのようなポーズを取った。詩乃は、息を吐きながら小さく笑った。やっと笑ってくれたと、柚子はそれだけで嬉しくなってしまうのだった。

「水族館、どうだった?」

「うん。水上君が好きな水族館だと思う。今度、一緒に行きたいと思って――」

柚子はそう言いながら、お土産のペンギンのキーホルダーを詩乃に手渡した。寄り添う二匹のペンギンのペアキーホルダーで、片方のペンギンはもう片方に頭を乗せて寄りかかっている。柚子が詩乃に渡したのは、そのうち、寄りかかられている方のペンギンだった。寄りかかっているポーズのペンギンは、柚子が持っている。

「可いでしょ」

「……」

詩乃は、恥ずかしさを押し殺しながら、キーホルダーをポケットにしまった。

柚子の善意が、詩乃には痛かった。

「――新見さん、こんな自分の、どこがいいの?」

思わず、ぽろりと、詩乃は聞いてしまった。

「水上君の?」

「うん」

「全部好き!」

真正面からそう言われ、詩乃は考え込んでしまった。

笑顔で答えた柚子は、しかし、心の中では大きく揺していた。何もなければ、水上君がそんなことを聞いてくるはずがない。もし、私と付き合っていく自信が無いなんて思われていたらどうしよう。本當に、どうしよう――。

柚子は、キーホルダーのペンギンの様に、詩乃の橫からぎゅっと抱き著いて寄りかかった。晝間から人前で何てことを、と詩乃は目を白黒させた。の左側に自転車を支えているので、詩乃はきが取れない。ハンドルを支えている詩乃の両腕の間から、柚子がひょっこり顔を出す。ふわあっと、甘い柚子の香りがする。

「ちょっと、新見さん――」

「柚子って呼んでよー」

「えー……」

「じゃあ退かなーい」

の子って、こんなに甘えるものなのだろうかと、詩乃は困した。そうだとしたら、やっぱり自分は良い彼氏にはなれっこないと思った。新見さんに甘えられても、上手く甘えさせることなんてできやしない。そんな余裕のある男には、金際なれないのではないかとさえ思えてくる。

そんなことを考えると、かえって詩乃は、恥ずかしがっている自分が馬鹿らしく思えて來て、冷靜を取り戻したのだった。鼻で小さく息を吐き、柚子の目を見て言った。

「柚子、退いて。進めないよ」

詩乃の聲は、低く、落ち著いていた。

柚子は、顔を真っ赤にして、固まってしまった。自分から求めたことだったが、詩乃にいざ下の名前で呼ばれると、柚子は、心臓をぎゅっと鷲摑みにされたようになって、呼吸さえできなくなってしまった。

「新見さん、ほら」

詩乃は、固まる柚子の背中を軽くった。それでやっと柚子は我に返り、詩乃の腕の中から抜け出した。心臓がドキン、ドキンと高鳴り、柚子は、詩乃の橫顔から逃れるように、ちょこんと、詩乃の背中に回り込んだ。

詩乃のすぐ後ろを柚子はついて歩いた。

詩乃がどこに向かって歩いているのか、學校に行く道と同じだけど、目的があるのか――聞きたかったが、柚子は、詩乃を意識しすぎてしまって、聲すらかけられなくなってしまった。詩乃のたまに見せる男っぽさや強引さは、それを向けられると、柚子は何も考えられなくなってしまうのだった。特に今日は、久しぶりに會った喜びと相まって、心臓は一層大きく跳ね上がる。その張がまた、柚子には心地よかった。

茶ノ原高校の正門まで來た時、柚子はやっと、詩乃に聲をかけることができた。

「水上君、學校?」

「うん」

正門を通り、駐場に自転車を置く。

柚子は黙ってついてゆく。

「お弁當にしよう」

「え、でも私、持ってきてない――」

「二人分作って來たから」

詩乃はこともなげにそう言い、CL棟に向かって歩みを勧めた。柚子は、詩乃の後について歩いた。言いたい言葉が渋滯してしまって、結局柚子は、文蕓部の部室にるまで、また何も言えなくなってしまうのだった。

合鍵で部室の扉を開け、中にる。

久しぶりの部室、し埃っぽい空気。

詩乃は窓を開けた。

「文蕓部も、すごく久しぶりだなぁ」

柚子は部室を見回した。冬休み前、部誌を書き終えた詩乃は資料や本を整理していたので、今は隨分と、整った――ある意味では、生活のない部室になっている。

部屋の空気が何となく新鮮になってきたので、詩乃は窓を閉め、暖房をれた。柚子がコートをぐと、詩乃はそれをけ取って、ハンガーにかけた。そういう小さな気遣いの一つ一つで、柚子は詩乃のことがますます好きになっていくのだったが、詩乃は全くそのことには気が付かなかった。

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