《星の海で遊ばせて》トラバース(11)

「なんでタクシーなの。歩けるのに」

「いいからいいから」

「やっぱり帰りたくない」

「自分も一緒に家まで行くよ、ほら、おいで」

「……」

詩乃はなだめながら、柚子を何とかタクシーに乗せる。後部座席に二人で乗車した。

詩乃は、初老の運転手と住所の確認をして、それが済むと、車がき出した。タクシーなんて何年ぶりだろうと詩乃は思った。匂いが獨特で、それだけで張してしまう。

詩乃は、柚子を自分の肩に寄りかからせた。そうして何とか、しでも穏やかな気持ちにさせる。詩乃にはまだ、柚子に伝えないといけないことがあった。

「新見さん、明日もゆっくり、家で休みな」

「うん。……え?」

「星はまた今度にしよう」

「え、なんで!」

「休む方が大事」

柚子は、詩乃の太ももをグーでごく軽く叩いて、口を尖らせ、目で訴えた。

眠たそうな重い瞼。非難がましく見つめてくる。

詩乃はそれを、肩に回した腕で頭をでつけながら、何とか柚子のを押えようと試みる。

「なんで勝手に決めちゃうの。――そんなに、私といるの嫌?」

「新見さんに無理させてまで、デートはしたくない」

「無理かどうか、水上君が決めないでよ。私、大丈夫だもん」

詩乃は、鼻で深く呼吸をした。

こういう所で、男のすれ違いというのが起こるのかなぁと、詩乃は何となく考えてしまうのだった。のこの、トゲトゲした態度を容できなければ、確かに、こういうことが決定打になってゆくのかもしれない。

「大丈夫じゃない。ダメだよ」

「水上君に私のことなんて――」

「新見さんは自分が見えてない」

詩乃は、柚子の言葉を遮って、いつもとは違う強い聲で言った。靜かな聲だったが、柚子は、詩乃の聲の不思議な力に負けて、言葉をしまった。

「明日は中止。星空はこの先も、地球からなら四十六億年くらいは見られるんだから」

「よんじゅうろく億年なんて、私生きてないよ」

そりゃあそうだと、詩乃は笑った。

詩乃は笑いながら、腕だけは、ぎゅっと柚子を抱き寄せた。本當は詩乃は、こんな、誤魔化しのようなスキンシップはとりたくなかった。の接は、セロトニンの分泌を促して、それが、ストレスを和らげる。そういう付焼刃的な生理學の知識をもとに、こんなことをしている。柚子を騙しているようで、詩乃は心が痛んだ。でも、新見さんが安心してくれるなら、それはそれでいいのかな、とも思った。

柚子の家に著き、詩乃は柚子が家にるのを見送った。

とぼとぼと、元気のない背中。

カチャンと、扉の閉まる音も覇気がない。

詩乃はため息をついて、詩乃はスマホを取り出した。マップを開いて、近くの駅――茗荷谷駅までのルートを確認する。徒歩五分。緩やかな下り坂と上り坂の、住宅街の小道。歩きながら、詩乃は、不思議と気持ちが安らいでいた。いつもここを、新見さんが歩いているんだなと思うと、まるで、隣に新見さんがいて、一緒に歩いているような気持ちになってくる。今日はあんなに不機嫌だったけど、でも、不機嫌なのにやっぱり、可いと思ってしまう詩乃だった。

きっと新見さんのことだから、気分が落ち著いた後で、今日の事を猛省するのだろう。そこで自分は、どんな風に接したらいいだろうか。全く気にしていない、ということも言えるだろうが、たぶんそれは、噓になる。今はまだ良いが、今日の夜あたりからはきっと、新見さんに言われたことが、ボディーブローのように効いてきて、かなり堪えそうだ。

『水上君に私の事なんて――』

続きはきっと、『わからないでしょ』とか、そういう言葉だったのだろう。思い出しただけでも、グサりと來る。あの言葉が新見さんの本心だったかどうかはわからない。いやそもそも、本心かそうでないかなんて、実際のところ、言った本人にだってわからないことがある。だからあれは、新見さんがそう思って言った言葉じゃない。きっと、不安やイライラから発生して、自分を困らせたいがために言った言葉だったんだ。

たぶんそうだ。

きっとそう、そうだと信じたい。

「はぁ……」

詩乃は、駅の改札口の前の人ごみを見て、ため息をついた。

このまま帰ってしまって、本當に良いものだろうかと、立ち止まる。

仮に――さっきの新見さんの態度は、実は全部調不良なんかじゃなく、普通のの中でそれを言っていたとしたら、どうだろうか。

――どうということもないか、と詩乃は思った。

次に會った時に振られる、それだけのことだ。

それだけのこと……。

詩乃は手で顔を覆う。やっぱり嫌だなぁと、思った。

でも、もし振られるのなら、とことん慘めな方が面白い気がする。中途半端にただ振られるのでは、かえって傷口は深い。それなら、もういっそ、一番慘めな、つまり――振られるなんて全然考えていない彼氏、として、行していくのはどうだろう。

今からムーミンバレーに行って、次に會った時、新見さんに渡すためのプレゼントを買ってくる。新見さんを勵ますつもりのサプライズ。時間とお金をかけて、そしてそれ以上に、行きも帰りも電車の中で、新見さんの驚く顔を想像している能天気な彼氏。

これは、かなり慘めだ。

次に會った時、驚きと笑顔を期待してプレゼントを渡し、そこで、あっさり振られる。――想像しただけでも、悶え死んでしまいそうだ。プレゼントは、にょろにょろなんてどうだろう。あの、きょとんとしたじが、その時の、振られる男――つまり自分の、その時の表と同じなのではないだろうか。

そうしよう、と詩乃は決めて、自券売機に小銭をれた。

行き先は飯能、乗り換え切符が買えないから、とりあえず池袋まで。

柚子から貰った長財布をポーチから取り出す。面倒くさがって千円札ばかり使ってしまうせいで、小銭をれるポケットがパンパンになってしまっている。それを解消するため、詩乃は、一円玉でも五円玉でも、ひとまず、小銭ポケットの中にある全部の小銭をコイン投口にれた。

四千円分の小銭がたまっていたことに驚きながら、詩乃は切符を買い、それから、帰ってきた小銭を摑んだ。その時詩乃は、ふと、見慣れない貨を釣銭トレイの中に見つけた。

日本のものではない、赤銅貨が二枚。

詩乃は、ひとまずは全部財布にしまった。池袋で西武池袋線の下り電車に乗り換え、すぐに來た準急の長座席の真ん中あたりに座る。電車がき出した後、詩乃はおもむろに、財布を取り出し、そこから、さきほどの二枚の貨を取り出した。

裏と表を、じっくり観察する。

片面にはの肖像、それを囲むようにアルファベットが刻まれている。〈VICTORIA〉の単語が詩乃の目に飛び込んでくる。もう片方の面を見れば、そこには〈ONE PENNY〉の文字。兜に、トライデントを持つ人像。――それが、二枚。

詩乃は、雷に打たれたかのような衝撃をけた。

2ペンス――その意味を、詩乃は知っている。

でも新見さんは、メリーポピンズを、名前しか知らないはずじゃなかったか。確か、そう言っていた。

そこまで思い出して、詩乃は新たな衝撃をけた。

――つまり新見さんは、あの後、十二月三日のあのデートの後、わざわざメリーポピンズを観たということだろうか。いや、そうに違いない。それで財布の中に、この2ペンスを忍ばせた。その意味が、分かったうえで。

あの時、自分が泣いてしまった時、聞いていたのはその曲だった。

詩乃は、首筋や、頬が、どんどん熱をもってくるのがわかった。心臓も、ドクドク熱く鼓し始める。詩乃は二枚の貨を握って、目を閉じた。居眠りをするように頭を下げ、鼻から息を吐く。

これは何という気持ちなのだろうかと、詩乃は自分の心に訊ねた。

じわあっと広がって、全が暖かくなっていく。や目の奧、そして、貨を握っているその手の中が、熱い。詩乃には初めての覚だった。

飯能駅に著いた頃には、詩乃の考えは、この旅の出発時とは隨分変わっていた。

自分の慘めさの演出なんかはもうどうでも良くなり、駅からムーミンバレーパークまでの、がらんとしたバスの中、詩乃は薄暗い窓の外、飯能駅周辺から始まる道路沿いのこざっぱりした景を眺めながら、詩乃はここ最近の自分の考え方を反省していた。

新見さんは、自分の懐に飛び込んできてくれた。

それなら自分も、ちゃんと、新見さんに向き合わないといけないのではないか。自分が男らしくなれないことや、新見さんが傷つく未來が想像できること、なんかはひとまず置いておいて、今の事をもっとちゃんと考えるべきじゃないのか。

新見さんは、上っ面で、自分のことを〈好き〉と言っているわけじゃない。

それに対して自分はどうだろうか。

自分の〈好き〉こそ、上っ面じゃないか。口だけのを嫌っておきながら、自分が新見さんに向けるは、〈好き〉は本か? 本だというなら、しはちゃんと示せ。

――この臆病者め!

ムーミンバレーの広々した駐車場の中にある停留所でバスが止まり、詩乃は、囚人のような気持ちでバスを降りた。曇り空が晴れないように、詩乃は祈りながら、速足で歩いた。今の自分の見っともなさを、公衆の面前に――月や太の前に曬したくはなかった。

どうか見ないでくれ、ちょっとは男らしくなりますからと、堪忍してくれという気持ちで、詩乃はライトアップされた木々の上り坂を歩いた。

澄んだ空気、大きな泉、そして森。キャンプ場のようなテーマパーク。柚子がどうしてここを選んだのか、詩乃は考えて、そしてまた、自分を恥じた。あの林間學校の夜、二人でカレーを食べた森の中――ここは、その雰囲気とよく似ている。あの時も確か、星を見た。人混みが嫌いで、チカチカ眩しいのも好きじゃない。そういう自分の面倒くさい部分を汲んでここを選んでくれたのだ。星を見るだけなら、手軽に、都の公園でも良かったのに。

そんな新見さんに対して、本當に自分はダメな奴だ。

ちゃんと向き合おう。それが本當の誠実さだ。

自分がしなきゃいけないのは別れ話じゃない。新見さんに、自分を知ってもらうことだ。それでどうなるかは、新見さんが決めればいい。

詩乃は、夜のムーミン谷を散策したのち、土産屋でにょろにょろのぬいぐるみを買って、帰路に著いた。

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