大量の卵パックのった袋を持って、二人が詩乃の家の玄関にったのは、それから二十分後の事だった。卵の他に、詩乃は鶏のや焼きそばやベーコンを買い込んでいた。

玄関をると、詩乃の家はしほろ苦い匂いがして、それを嗅ぐと麻もし張した。職場が一緒というだけの、ロクに會話すらしたことのない三十路男の一人暮らしの家に自分は上がり込んでいる。我ながら、危機が無さすぎると麻は今更ながら思った。しかし同時に、「この男は、私に無理やり何かをするなんてことは絶対にできない」という詩乃を侮る心地よさもじていた。

買いをしながら、詩乃は麻から、今回のことについて話を聞いた。

十一月の半ばに、麻は高校時代の友人たちを自宅に招いて、小さな同窓會を開くことになった。その話の中で、自分がオムライス専門店で働いている事を話し、うっかり見栄を張って、自分もオムライスを作れる、ということを言ってしまったという。困った麻はしかし、友達に本當のことを告げる恥じは選べなかった。料理畫を見て練習をしたが、専門店でオムライスを作っている、というレベルには全く屆く気がせず、そこで、自分を頼ってきた。

店には詩乃の他にもキッチンを擔當できるスタッフが六人いるが、麻はそのうち四人とは、シフトが被っていず、ほとんど面識がなかった。清彥か詩乃かで、麻は詩乃を選んだ。麻は、清彥とは上手くやっていたが、店長に教わるというのは、何か仰々しい気がして嫌だった。

「間に合いますかね」

卵を袋から出して、ガスコンロ橫の小さな作業臺に並べ置きながら、麻が言った。プチ同窓會の當日まで、あと三週間ほど。たった三週間で、どれほどできるようになるだろうか。

詩乃はステンレスボールを二つ、卵で占領されそうな作業場に重ね置き、言った。

「毎日できるなら一週間で充分」

「え！」

麻は、詩乃の顔を見た。

詩乃は淡々と、足元の収納棚からハンドホイッパーを出して、ヘッド部分を水で洗い始める。「卵全部、片方のボールにれて。殻はその袋に」と詩乃は指示を出した。

「え、これ全部ですか！？」

「量やらないと上手くならないから」

麻は、言われた通り卵をボールに空け始めた。

店では見慣れた景とはいえ、卵も十個を越えて集まると、それは卵ではなく桃の缶詰のようだ。二十個、三十個――道の準備を終えた詩乃は、殘りワンパック分の卵を、ぱかぱかと片手で容易く開けた。

「混ぜて」

麻は、コンセントをれたハンドホイッパーを詩乃からけ取り、大量の卵を混ぜた。グオーンと、低い音がボールと作業臺を振させる。詩乃は、折り畳みの椅子を引っ張り出して、麻の作業をしている隣に坐った。

「これくらいでどうですかね？」

詩乃は立ち上がって、ボールを覗いた。

「うん、いいんじゃない。そしたら――」

と、詩乃は準備の手順を麻に教えた。詩乃が作業場の隅に用意していた平型のシンプルなこしを使いながら、空のボールに混ぜ合わせた黃いを流し込む。普段見ている割に、麻には、忘れてしまいそうな工程だった。し面倒にじてしまう。

「これで、味変わるんですか？」

ボールを傾けながら、麻が言った。

「何か一か所良くしたからって、出來が劇的に変わるってことは無いよ」

隨分現実的なんだなと、麻は思った。もっと大袈裟に、「これで全然味が違うんだよ！」くらい言えばいいのにと思う。

「バター使おうか」

「はい」

麻は、詩乃の指示のもと、固形バターを切り、耐熱ボールにれて電子レンジにかけた。ほんの數十秒で、バターはすっかり、とろりとした香ばしい匂いの香るハチミツのようなになった。

「じゃ、作ろう」

フライパンを火にかけ、スプーン二杯分ほどの溶かしバターをれる。卵は、底の深いおたま一杯分。卵をれたら、外の薄く固まり始めた玉子を、側に持ってきて、ぐるぐると全をかき回す。玉子がほどよく固まってきたらゴムベラを使いつつ形を整える。三日月形にして、つなぎ目を熱して閉じ、皿の上に乗せる。

言うのは簡単だが、やるのは難しかった。

形を整えるのに苦労し、最初のオムレツは、所々が開いた、いオムレツになった。

自分の家のフライパンに比べて、フライパン自は斷然使いやすかったが、明らかな失敗オムレツに、麻は「あー」と聲を上げた。

「やっぱり最後の方、弱火にした方が良かったですかね」

詩乃に何も言われなかったので、火加減は中火のまま作ったが、ＳＮＳに上がっているオムレツやオムライス作りの畫では、火加減が大事だとほとんど共通して言っていた。特に最後の形作りの所は、弱火でやった方が良いと。

「いや、そのままでいいよ。次いこ」

一回目の品評もほとんどせずに、二つ目のオムレツにる。

「フライパン、もうちょっとかしてごらん」

詩乃のアドバイスの通り、麻はやってみる。ただ、なかなか手がかない。右手は卵をかき混ぜて、左手はフライパンを上下する。簡単そうに言う詩乃が、すこし恨めしかった。

それでも、二つ目、三つ目、四つ目とどんどん繰り返すうちに、だんだんと、形になってきた。麻も、毎朝オムレツを作る様にしていたが、この十分ちょっとで、明らかに、上達しているのが分かった。

一回ごとに、フライパンの角度だったり、ゴムベラの使い方だったりを詩乃からアドバイスされているうちに、十回目あたりには、麻は自分でも驚くほどのしいオムレツができるようになっていた。

ぼてっとした黃いオムレツ。ペティナイフで真ん中に一本切れ目をれ、左右に広げると、とろっと半の玉子が湯気と一緒に姿を現す。

「すごい！」

麻は、自分が作ったとは思えないオムレツを見て聲を上げた。

時間にして、まだ三十分程度。準備を含めても一時間経っていない。

たった一時間の間にここまで――。

「綺麗にできたね」

麻の渾のオムライスを見て、詩乃が言った。

詩乃は、麻が作った大量のオムレツを使って親子丼を作っていた。しいたけの出の香りが、フライパンから漂っている。

「ありがとうございます！」

麻は、達に任せて詩乃に言った。

詩乃は、目じりにし皺が寄るだけの微笑を返した。

詩乃の控えめなその微笑を見た時、麻は、詩乃に対して大きな負い目をじた。

「あの、材料費、やっぱり私が全部払いますよ」

「いいよ、今更面倒くさい」

材料費は、割り勘で払っていた。

詩乃は麻の作ったオムレツで親子丼とひきとスクランブルエッグのあんかけ、それに形の良いオムレツを使ってオム焼きそばを作った。ちょうど、溶き卵の殘りも、あとオムレツ一回分くらいになっていた。

詩乃は、三種類の料理をそれぞれ半分くらいずつタッパーにれ、「これお土産ね」と言って、重ねて麻に差し出した。

「あとは、今日みたいに一時間くらい集中して明日、明後日で作れば、それなりの形になるよ」

「え、もう終わりですか？」

「うん、あとは慣れ」

「でもまだ――ライスの方やってないですよね」

詩乃は小さく笑って応えた。

「ケチャップライスは作れるでしょ。こだわればそりゃ、それなりだけど、オムライスの花形はオムレツなんだから、友達に振る舞うんだったら、花形に華があればいいんじゃないの」

それは確かにその通りだと麻も思った。

良かったじゃないか、三週間でできるかどうかわからなかったものが、一回の、しかも一時間にも満たないレクチャーで済んで。あと何回か自分で作って慣れればそれでいい。わざわざ誰かに教えてもらう必要もない。

でも、と麻は思った。

――もうし、水上さんに教えてもらいたい。

「でもやっぱり、店の看板に傷つけたくないので、もうちょっと教えてもらいたいんですよね。ライスの方も。――ちゃんと、オムライスの形で作れるようになるまで……迷ですかね？」

詩乃は、どうして麻がそんな事を言って粘るのか測りかねて考え込んだ。

そんなに料理が好きという風にも見えない。今回の頼みだって、味しい料理を友人に振る舞いたいからではなく、恥をかきたくないからという機だ。今の出來が、むしろ麻と言うには全くよく似合っているではないかと思う。卵を混ぜる時の泡の考え方だとか、半の加減、ご飯の水分、ケチャップの酸味やタマネギの甘みのバランスなど、そんな面的なこと、興味があるのだろうか。なくとも、店の看板云々なんていうのは、全く思ってもいないことだろう。

「まぁ、いいけど」

詩乃は怪訝な様子を見せながら応えた。

なんでこんなに不機嫌なんだろうと思い、麻は一つの可能に気づいた。

「あ、水上さん、彼いたりします！？」

「いないよ」

ぶっきらぼうに詩乃は応える。

前にそんなこと言ってましたもんね、と麻はけらけら笑った。

馬鹿にしてるのかと、詩乃はを結ぶ。いや、麻が自分のことを馬鹿にしているのは知っていた。麻がりたての頃、店長と麻と、もう一人のバイトと、閉店後の片付けをしている時に、たまたまその頃、不倫についての発言でちょっとしたバッシングをけて話題になっていた柚子の話が出た。

その時に詩乃は、柚子と高校の時同級生だったと、三人に話した。「可い顔して子アナってドロドロしてそうだ」とか「実は新見アナも、不倫してんじゃないの」だとか、そう言った意見を皆が言い始めたので、思わず、詩乃は打ち明けたのだ。同級生だった、ということだけ。

流石に詩乃の同級生となれば、三人も子アナとはいえ安易に柚子の悪口は言えない。三人は柚子をネタにするのをやめ、代わりに、の話になった。彼はいないと詩乃が言ったのは、その時だった。

不満そうな詩乃の様子を見て、麻は慌てて繕うように言った。

「安心しただけですよ。やっぱり、彼さんいたら、流石に自宅上がるのまずいじゃないですか」

今日何度目か、詩乃は舌打ちを我慢する。

どうも麻は、噓ばかりで嫌だと詩乃は思っていた。本心を隠した探り合いのようなやり取りは、面倒で疲れる。そもそも、そこまで本心を隠して建前や見栄を張る目的が全く見えない。常に自分の優位を示していたいという見え見えのを、隠そうとしていることが鬱陶しい。

詩乃は、麻が他のバイトに、自分の口を言っていることを知っていた。聞いたのはたった一回だったが、詩乃はそれで、麻に対する見方を定めた。麻の中では自分は、同級生の子アナにストーカー的な想いを抱く憐れな三十路男なのだ――。

「明日もいいですか？　店終わった後、同じ時間で」

「いいよ」

麻を玄関から送り出した後、詩乃はウィスキーグラスに氷をれて、冷蔵庫の脇に置いておいたゴールドラムを注ぎ、ぐいっ一息で飲みした。それから居間にり、デスクチェアに座り、空のグラスに二杯目――ウィスキーを注ぐ。

「はぁ……」

今日もため息をつき、天井を仰ぐ。

いつもより一時間遅くそうしているだけで、今日も昨日と変わらないサイクルに突する。酒で額の上の方、たぶん前頭葉のあたりだろう――そこが、カッカと熱を持つ。モニター上の白紙を眼前に、キーボード前の両手を握ったり、開いたりして、書きあぐねる。

一自分は、何を書いたらいいのだろう。

ぎゅっと目を閉じ、首を垂れて、詩乃はその日も、何も生み出せない真夜中から早朝までの七、八時間程度を過ごすのだった。