《星の海で遊ばせて》かさね目の炎(4)
メーメーと、海鳥が飛んでいた。
今では遠い隅田川。まだ冬の冷たさの微かに殘る風が吹いていた。
『柚子ならどうする?』
『今の私なら?』
『うん』
『學校辭めてでも追いかける』
私たちの間には、強い風が吹いていた。
鳥を薙ぐ風に私は顔を背けた。
柚子は真っすぐに風の中を見つめていた。
その時に見たあの子の橫顔で、私は決心した。
きっと一生忘れない景。
海鳥と、隅田川、そして、髪を風の自由に靡かせたまま、水面の遠く、あるいは深い水の底を見つめ、見通すような柚子のあの眼差しを。
夏の初めにはホタルが飛ぶという小川が、三島にはたくさん流れている。
十一月にり、季節はすっかり秋になり、北風が冷たい。しかし三島の秋は、三島に住む者にとっては秋でも、千代にとっては夏の様に映っていた。秋の日差しで川はきらきらとり、常緑樹の緑が作る影と川の反が、心地よいコントラストを作っている。
三島駅に降り立ち、夏祭りでは鏑流馬が行われるという三島大社の脇の道を、小川の流れを友にして、千代は舊友――紗枝の家へと歩いていた。高校時代、紗枝の上の名は〈多田〉だったが、去年の五月に〈淺茅〉になった。淺茅紗枝――もう、一児の母である。
千代が紗枝に會うのは、去年五月の結婚式ぶりだった。三島を訪れたのは、実に七年ぶりである。その時は、柚子と一緒だった。大學四年の夏、よく覚えている。
紗枝は、大學最後の一年間、三島から東京のキャンパスに通っていた。今の紗枝の旦那である剛巳を助けるために、家族の大反対を押し切って、三島にやってきたのだ。淺草の鰻料理屋の息子であった剛巳は、何もなければそのまま、家の鰻料理屋を継ぐはずだった。ところがある時――紗枝が大學四年生に上がる春休み頃、剛巳は父親と大喧嘩して、実家を飛び出した。紆余曲折あって、その流れ著いた先が三島だった。
剛巳と紗枝は馴染で、紗枝はずっと、剛巳に片想いをしていた。しかしそれは、盲目的なではなかったらしい。子供の頃から一緒に過ごしていたので、紗枝は、剛巳の良い部分も、そして悪い部分も良く知っていた。勝ち気で男っぽいが、だらしなく、一旦落ち込むとどこまでもしょげてしまう。
心配になって、紗枝は剛巳の家を訪ねた。大學の春期休暇は長く、休みはいくらでもあった。そこで紗枝は、剛巳の落ちぶれた生活を目の當たりにした。敷きっぱなしの布団、散らかったカップ麺の容に散したテッシュ。洗い場にはぬめぬめした食が溜まり、部屋全が埃っぽく、インスタントラーメンの油っぽい匂いが部屋に充満していた。
このままじゃいけない、と紗枝は、その景を見て思った。
ずっと好きだった、馴染――格好いい所もあるタケちゃんが、このまま墮落していくのは見ていられない。そこで紗枝は思い切って、自分の家族にも、剛巳の家族にも大反対されながら、三島の、剛巳の暮す安アパートの隣の部屋に移り住んだ。
そういう経緯で、紗枝はそれからずっと、三島にいる。
今では剛巳は持ち直し、割烹料理屋の板前として一人前に働いている。鰻も出す料理屋で、鰻の擔當は剛巳なのだという。そういう事を知っているだけに、千代は、紗枝の結婚を聞いた時には、我が事のように嬉しかった。しかも、結婚が決まった時には、子どもがいることもわかっていた。――どうやら、子どもができたことを知って、剛巳が腹を決めたという経緯らしい。
伊豆半島の片隅の大。
その知る人ぞ知るの巣に今から行くと思うと、が高鳴る。
そして、改めて三島の街を歩いてみて、いい所だなと千代はつくづく思った。
それは、以前三島に來た時よりも、一層強くじた。大學生の時は、小川にも、この町の長閑さや、神社や、青く茂った木々にも、そこまではしなかった。
紗枝と剛巳のの巣――淺茅家は、今は安アパートではない。二人の結婚が決まった後、剛巳の割烹料理屋の主人のツテで借りられることになった一軒家である。家の外裝が寫真で送られてきて、千代は驚いた。し古そうだが立派な和風建築の家。玄関前には犬が駆け回れるような砂の庭があり、屋付きの車庫までついている。それで月の家賃は六萬円。『家換しようよ』と、千代は紗枝にそんなメッセージをれたものだった。
駅からは徒歩二十分。
しかし千代は、全く遠いとはじなかった。履いている厚底ブーツのクッションのためだけではない。元來千代は、アウトドア派の人間である。黒のワイドボトムスに白Tシャツ、からしのブルゾンジャケット、それに紺のキャップを被った年のような恰好。散歩にはぴったりだった。バスを使う手もあったが、千代は最初から歩くつもりで三島駅にやってきた。
紗枝の家は、小川沿いにあった。
歩道から車一臺分弱くらいの、丸っこいコンクリートの橋を渡った先の一軒家。かまぼこ板を二回りほど大きくしたくらいの木製表札に、〈淺茅〉の文字が黒くはっきり刻まれている。
し張しながら、千代は玄関扉まで歩き、インターホンを鳴らした。
すると、扉の奧からぱたぱたと、足音が聞こえて來た。
「今出ますねー」
飾り気のない、しかし穏やかな低い聲。
そして、サンダルか何かをつっかけるような音がしたかと思うと、ガラガラと、扉が開いた。紗枝が出てきた。淡い桃のワンピースを著ている。そのワンピースも、見るからにりの良さそうなコットン生地。
紗枝は、千代の姿を認めると、自然と笑顔になった。
「いらっしゃい、千代。遠くまでありがとね」
「ほとんど旅行気分だよ」
上がって上がってと、紗枝は潛めたような聲で言って、くすくす笑う千代を家に招いた。
「実君は?」
「遊び疲れて寢ちゃってる」
「寢顔見たい」
テーブルなどがある五畳程度の畳のリビングの隣に六畳の和室があり、その布団の上に、淺茅実は眠っていた。生後十一か月、もうすぐ一歳になる男の子。千代は、年賀狀の寫真や畫像で送られてくる実の顔は知っていたが、実際に顔を見るのは、これが初めてだった。
すやすやと、布にを寄せて、気持ちよさそうに眠っている。産のようなふわんふわんした髪の、搗きたての餅もそのらかさでは負けるであろう、ぽてっとした頬。なんて可い生きなのだろうと、千代は思った。子供はまだしばらく先と考えている千代だったが、実の寢顔を見ると、今すぐにでも子供がしい気持ちになってくる。
実の寢ている和室の襖を半分ゆっくりとしめて、二人はお茶にすることにした。
「勝さんとはどう?」
紗枝が、淹れたてのホットコーヒーを飲みながら千代に聞いた。
勝というのは、千代の夫である。今年の一月に籍をれ、二月に結婚式をした。千代も今では〈雨森〉ではなく二宮千代になっていた。紗枝は、千代の結婚式には顔を出せなかったので、千代の旦那にも會ってみたいと思っていた。大手建設會社に勤めていたのを、千代との將來のために、転勤のない別會社に転職したという、そんな千代思いの旦那様を。とはいえ今日は月曜日、平日なので勝は來られない。
「まぁ、そこそこかな。真面目が取り柄の人だから、そんな何かがあるわけじゃないし」
そう言いながらも、千代は勝の真面目過ぎるエピソードを語って、紗枝を笑わせた。
千代は高校を卒業した後、容と理容の専門學校にり、今は、三鷹の理容室で働いている。理容師資格だけでなく、容師の資格も取っているので、今度髪切ってよと紗枝はお願いしていたが、それはそのままとなっている。
「あ、〈晝いち!〉やってるね」
紗枝が言うと、千代も思い出し、見ようということになった。
テレビをつけると、柚子の姿が映し出された。
テレビ城東の看板子アナとまで言われている新見柚子。枯れ葉のブラウスに、白いフリルのロングスカートを穿いている。千代も紗枝も、柚子とはそれぞれの結婚式以來直接會ってはいない。しかしテレビに出ている柚子のことは、二人ともよく見ていた。二人の中では、柚子は誇らしくもあり、そして、自分たちを焦らせる存在でもあった。
紗枝は、今の生活には不満は無かった。タケちゃんが旦那で、可い実もいる。しかし、テレビの中の柚子を見ると、嫉妬のような激しく熱い、あるいはドロリとしたではないが、未だとして現役のその姿に、微かな羨ましさをじてしまう。
「柚子だね」
「うん、柚子だ」
紗枝が言い、千代もそれを確認するように応えた。
見ている方を溫かくする自然で、嫌味の無い笑顔。高校時代から変わらない。高校時代は、よく一緒にいたのを思い出す。あの時代も柚子は、明らかに輝いていた。でも今の柚子は、気も出て、として遙かに磨きがかかっている。
そんな柚子を見て、紗枝も千代も笑いあった。
「まさかアナウンサーになるとは思わなかったよね」
千代が言った。
「うん、しかも全國ネットだからね」
紗枝が同意する。
アナウンサーになった事だけではない。大學のミスキャンパスに選ばれたことにも、二人は驚かされたものだった。グランプリに輝いたことや、アナウンサーとして採用されたそれ自の驚きよりも、そのイベント、その職に応募したことについて。
柚子は確かに、高校でダンス部だった頃から、ステージに立てば目立ち、クラスでも學年でも、居るだけで目立つ存在だったが、それは柚子がそうしたくてそうしていたというより、周りが自然とそういう目で柚子を見て、柚子が目立つ空気が自然と作られてそうなっていたのだ。目立つのが苦手な子ではなかったけれど、前に出ることが生きがい、というようなタイプでもなかった。
どうしてアナウンサーになったの――という類の質問は、紗枝も千代も、個人的に柚子にはしていた。それさえもう、ずいぶん前のことだったが、「何かしなきゃいけないと思って」というのが、二人が得た柚子の答えだった。
「でも私、翌々考えるとさ――」
千代がそう話し始めたのは、自分の結婚式の事だった。千代の結婚式では、柚子が司會を務めた。さすがアナウンサーという、素人では真似のできない堂々とした進行をしてくれたが、それを任せたことを、千代は後から考えて、し後悔していた。千代の結婚式が決まった時、司會を買って出たのは柚子の方だったが、それでも、自分の結婚式の司會をさせるというのは、柚子には酷だったのではないかと、思うようになっていた。
柚子はまだ未婚で、當時は彼氏もいなかった。今はどうかわからないが、テレビに出る仕事だから、たぶん、そう自由にもできないのだろう。そんな柚子に、自分の結婚式を見せつけて、笑顔で司會までさせて、自分は酷いことをしてしまったのではないだろうか。二十七――もうすぐ二十八という年齢については、流石に柚子も、無頓著ではいられないだろう。
「――でもそれはさ、柚子だって嫌だったらやらなかったと思うよ。私の時はさ、地元の出たがりオヤジがたくさんいたから任せちゃったけど、頼めるんだったら私だって柚子に頼んでたわよ。現役アナウンサーが司會なんて、豪華じゃない」
千代は、紗枝らしい答えに、安心して笑った。
「うん、それは本當に、そうだったんだけどさ」
「考えすぎだよ」
と、紗枝はそう言いながら、千代の柚子に対する気持ちには共を覚えていた。
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