《星の海で遊ばせて》かさね目の炎(9)
一瞬、冬璃がを結んだのを、奈は見逃さなかった。奈はブロッコリーをフォンデュフォークに差して、チーズ鍋にれた。その作業で冷笑を隠しながら、冬璃に聞いた。
「応援コメントとか貰うでしょ?」
皮の一つでも言い返してやりたい気持ちだった冬璃は、しかし奈のその問いかけで反抗を諦めた。冬璃は、他の若手のアナウンサーと同じように、〈応援コメント〉どころか、ファンもいて、ファンメールも貰っていた。その現実を叩きつけられてなお、私はタレントではなくアナウンサーだ、と言い切る論陣を、冬璃は張れないと思った。
『アナウンサーの本分は伝えることだ。そのスキルを磨いてこそのアナウンサーだ』と、研修では冬璃も散々言われてきた。日頃は、そういうものだ、と思うことにしているが、それは、先輩達の言うアナウンサー哲學に銘をけたからではない。そういうものだ、と思っておけば、それを土臺に歩くことができる。進んでいく拠がしいために、その拠を信じて、疑わない振りをしているに過ぎない。
冬璃はわかっていた。アナウンサーはスキルだ、実力だ、というのが建前であることを。しかし一度そこに疑問を抱けば、自分が次に進む一歩先からの地面が幻のように消えて、踏み出そうとすれば、底の見えない奈落へ落っこちていってしまう。それがわかるから、建前を、今は縋る様に信じている。
それなのに池さんは、平気で私を、谷底へ突き落そうとする。自分だけはがっしりとした鉄橋の上を歩いて、なんでそんな靄の上にいるのか、あの蠱的な笑みで聞いてくる。それが冬璃には悔しかった。しかし悔しくても、足元のしっかりした奈の歩みには敵わないと思った。
冬璃は風船が萎むような空気を鼻から出して応えた。
「まぁ、はい……」
冬璃の反応は、奈には意外でも何でもなかった。一言のに自分の言葉の裏を読み取るだけの賢さ――言い換えれば神経質さを冬璃が持っていることは知っている。
「ま、椎名は私とは路線違うからね」
この話題はここまでにしようと、奈はそう言って、ブロッコリーを食べた。ここで冬璃に説教するつもりも、自分の仕事論を冬璃に語るつもりも、奈にはなかった。
「池さん、ファンメールとかたくさん來て大変そうですよね」
「え? 全然大変じゃないわよ」
「え、そうなんですか?」
「だって、返事出すわけじゃないし」
確かにそれは尤もだった。テレビ城東では、アナウンサー宛てのファンメールは総務部のチェックがった後に、各アナウンサーの社アドレスへと送信される。しかしけ取るだけで、返事は止されている。
そこで一つ、冬璃は思い出したエピソードがあった。
「――そういえば、オミさんから聞いたんですけど、柚子先輩、ファンメールに返信出そうとしたことあったらしいですよね」
「え? それ知らない」
奈は冬璃の話に興味をそそられた。先を促すよう、冬璃を見つめる。
「去年の話みたいですよ。その時は私、知りませんでしたけど」
「でも返事って、出せないよね? メールの送り側のアドレスって、私たちに回ってくる時には消されてるから」
「どうやろうとしたのかはわからないんですけど、無理に出そうとして、総務に怒られたらしいですよ」
「へぇー……」
奈は深く相槌を打った。
私や、他のちょっと浮ついているアナウンサーならともかくとして、あの新見さんがルールを破ろうとするなんて、一どんなメールだったのだろう。ものすごく腹の立つ容だったのか、それとも勵まされたのか、それとも別のことで返事を出そうと思ったのが。規則を破ってまでそれをしようとしたのだから、よほど何か、あったに違いない。
そこで奈は、柚子が『もう忘れた』と言った相手の事を考えた。『作家になってるかも』と言った新見さんの口ぶりからすると、今はもう、どこで何をしているかわからない人なのだろう。その元彼からのメールだったのだろうか。
そこまで考えて、いやいやと、奈は自分の推論の下手さを思って、考えるのを止めた。そのメールがその初の相手からだったら、その話を、さっき一緒にしただろう。まだ去年の話なのだから、『実は去年メールが來たんだ』とか、そんな言葉を添えないはずがない。
また別の日にし聞いてみようと奈は思った。でもたぶん聞いても、新見さんが踏み込ませたくないとしでも思っている気配があったら、やっぱり自分は、無理には聞けないのだろうなと奈は思った。
程なく、柚子が部屋に戻ってきた。
本當に忘れていた連絡をしに行ったのか、それは席を離れる口実だったのか、奈も冬璃も、柚子には聞かなかった。戻ってきた柚子は、溫かくて濃厚なチーズフォンデュを食べて、ワインを飲み直し、その味しさを褒めた。
食事の後、店を出て階段を上っている時に、奈は柚子からこっそり「ありがとう」と禮を言われた。子供っぽい仕草に優しい微笑み。それなのにその瞳だけはやけに落ち著いていて、奈は妙な不安に駆り立てられた。枯れ葉が落ちるのを見つめているような、そんな目をしていた。
數人の友達を招いてのプチ同窓會で、麻は皆に見事なオムライスを作って見せた。ナイフで真ん中を切ると、とろっとした半の黃い玉子が広がり、そこに、キャラメルのソースをかける。皆に褒められて、麻は鼻高々だった。
「お禮したいんですけど、食事とか、どうですか?」
プチ同窓會の翌週、麻は店の閉店作業をしながら詩乃をった。一緒に作業をしていた清彥ともう一人の大學生バイトの男は、何のことかと興味をそそられ、二人に訊ねた。麻と詩乃に、プライベートの関係があるとは誰も知らなかった。
「オムライス、作り方教えてもらったんですよ」
麻は、どうしてそうなったかの経緯についてもその場で話した。清彥とバイトは二人してゲラゲラと笑った。プライドの高そうな麻にはいかにもありそうなエピソードだった。頼ったのが詩乃だったということと、詩乃が頼られて手伝ったということが、二人には意外だった。
「いや、いいよ」
と、詩乃は麻のいを最初は斷った。外食をするくらいなら、自分で食材を買ってきて作った方が、安く、味しくできる。どうせ外で食べるなら、特別なものでなければ意味が無い。
――じゃあ、何食べたいですか。
麻は詩乃に訊ねた。詩乃の外食に対する意見を聞いて、麻は腹を立てていた。自分で作った方が安い、というのは理解ができたが、「特別」に関しての詩乃の認識は癪に障る。私と二人、というのは「特別」ではないのか、と。
「普段食べられないものかな、どうせ行くなら」
お禮程度の食事でそんな店普通行かないでしょ、と麻は詩乃の非常識に心呆れながら、攜帯端末で店を探した。「特別な料理」「店」「今が旬」と、キーワードを繋げたり、変えたりしながら悩む。検索結果には高級店がずらりと並ぶ。どの店も、「ちょっとしたお禮」の域を遙かに逸している。
苛立ち半分、店選びに苦心している麻に詩乃は言った。
「いいよ、気使わなくて。気持ちだけけ取っとくから」
麻はそう言われて、攜帯端末ごと詩乃に投げつけてやりたい衝に駆られた。別に、気を使ってっているわけじゃない。それなのにそんな言い方、流石に冷たいんじゃないの、と麻は小さく傷ついた。
自分の言葉には答えずに、無言で小さなモニターとにらめっこをする麻を見て、詩乃は眉間にしわを寄せた。
「じゃあ、牡蠣小屋でも行く?」
牡蠣小屋ですか、と麻は顔を上げた。
「お金は出すから、店探してよ」
「いやいや、奢りますよ! じゃないとお禮の意味が――」
「牡蠣を大學生に奢らせる慘めな男にしてほしくないんだけど」
そう言われると、麻も反論できなかった。
「わかりました」
と、麻は応えた。
旬はわかるけど、よりにもよってどうして牡蠣、と麻は思ったが、これ以上何か意見したら、やっぱり行くのやめよう、と言われかねない。麻はその場で詩乃と予定を合わせ、早々に店を予約した。
麻は実家の草加から神保町のキャンパスまで、片道四十分ほどかけて學校に通っている。その途中に通る押上駅の近くに牡蠣小屋がるのを飲食店紹介サイトで知り、麻はその店で予約を取った。水曜日――講義の後はいつもなら、マネージャーをしているフットサルサークルの活に參加する。しかしこの日は、サークルを欠席して、押上の駅に向かった。
日が落ち始める夕方四時。
待ち合わせの場所は、駅前のバスロータリーにしていた。広場の様になったその開けたロータリーの、スカイツリーを見上げるベンチの一つに、詩乃は座っていた。ジーンズに黒シューズ、ごわっとした茶のダッフルコートを著ている。腕を組み、居眠りをするダルマのような詩乃の姿を見つけ、麻はその肩を強めに叩いた。
驚いて顔を上げた詩乃に、麻は尖った口調で言った。
「おはようございます」
「あぁ……おはよう」
詩乃は、麻に起こされて立ち上がった。
ライラックのファーコート、膝下からブーツをはく足首の上まではがになっている。それを見た最初の一瞬だけ、詩乃は麻にのっぽさをじた。麻から漂うキンモクセイの微かな香りが、その一瞬を、微か數秒だけ長引かせる。
「寢不足ですか?」
歩きながら、麻は詩乃に訊ねた。
「考え事してただけだよ」
「何考えてたんですか?」
「何を考えようか考えてた」
なんですかそれ、と麻は聲を上げた。
待ち合わせ場所から歩いて數分で目的地の牡蠣小屋に著いた。平日の夕食前とは思えないほど、店は繁盛していた。ぱちぱちと、牡蠣をはじめとした魚介類を焼く音があらゆるテーブルから聞こえ、天井付近には煙がもうもうと立ち込めている。
二人の席は、四人掛けの四角いテーブル席だった。テーブルの真ん中には、焼き屋のような網焼きのコンロと、その橫に、プレートも用意されていた。二人は向かい合って座り、コートを丸め、椅子の下の荷籠にしまった。
牡蠣食べ放題、ソフトドリンク飲み放題で約五千円というコース。折角來たからには元を取りたいと、麻は早速、牡蠣を取りに行った。氷上にずらりと並べられた殻付きの牡蠣。食べ放題コースの客はそれを、用意された銀の小さなバケツやステンレスのトレーにれる。詩乃は麻が牡蠣を取りに行っている間、ドリンクサーバーで野菜ジュース注ぎ、席に戻って、眠気覚ましにそれを飲んでいた。
呑気にジュースを飲んでいる詩乃のもとに、麻が戻ってきた。銀のバケツに、十杯以上の牡蠣がっている。
「牡蠣小屋って初めてなんですよね」
麻はそう言って、バケツから牡蠣を摑み出した。
その時になって麻は、牡蠣の殻を取らなければならないことに気が付いた。
牡蠣が並べられているカウンターの橫を見れば、殻剝きカウンターがあり、そこに牡蠣のったバケツやプレートを持った客が、數人の列を作っている。
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