《ドーナツから蟲食いを通って魔人はやってくる》37話 シーマと軍使サチ・ジーンニア

(シーマ)

ことが終わって、後には喪失が殘る。終わった後というのはいつもそういうもの。脳が快楽に満たされた後は、ただただ放心する。余韻に浸っていては溺れるだけ。

シーマは部屋を後にした。

ヴィナスはシーマのベッドで休んでいる。

言書を書かせる、ただそれだけのことに思いのほか手間取った。

學匠シーバートへの文にサインさせるのは後回し。仕方ない。お姫様は気まぐれ。機嫌が回復してから、もう一度お願いしてみよう──シーマは微笑む。

シーバートへの文は壁の外にいるユゼフへのメッセージでもある。

まず、シーバートの伝書犬に文を屆けさせる。最初アダムに持たせた文、これに蟲食いを通ってグリンデルへ行くよう書いたから、シーバート達がいるのは蟲食いのある場所……きっと今頃はバソリーの五首城に向かっているはず。

文は確実に渡さなくてはいけない。

伝書犬が幾ら優秀でも、行ったことのない場所へ手紙は屆けられない。

五首城までは誰かに犬を連れて行って貰うことにしよう。

勿論、犬を置いて來たらさっさと引き揚げてもらう。余計なことを喋られては困るからだ。後は飼い主の匂いを探して犬が何とかするだろう。アニュラスのは賢い。

ダニエル・ヴァルタンを暗殺するよう間者も放ってある。そう、彼の従者ベイルはこちら側に取り込み済みだ。

『上手くいっていると良いのだが』

恐らくユゼフはシーバートと共に行する。何が何でもディアナを守ってもらわねば困るのだ。

『ヴィナスは萬が一の保険に取っておくが、あとはユゼフを信じるしかない』

シーマは上の袖を捲(まく)って、ユゼフと誓いをわした時の傷跡を眺めた。

今から向かうのは謁見の間。

イアン・ローズが軍使を送ってきた。

軍使の名はサチ・ジーンニア。

彼はこのゲームにおいて重要なコマの一つ。

謁見の間の奧には城主が座る椅子が置かれている。數日前までその椅子に自分が座るなんて、シーマは考えもしなかった。

シーマの父(正確には義父だが)は今ローズ城に囚われている。父のは全て自分の。この城も、領地も。これから王のも我がとする。

笑顔の仮面を被り、シーマは重々しい扉を開いた。

待っていたサチは無想に首を傾け、こちらを向いた。

同年齢とは思えないほどい。凹凸のない特徴的な顔立ちをしている。背は低く、年と言っても違和ないだろう。黒目がちの切れ長は鋭くシーマを見據えていた。

サチ・ジーンニアは貴族ではない。

にも関わらず、シーマとは學院の同級生である。どういった経緯で貴族の學校へ行くことになったかは謎だった。

サチは挨拶もせず、いきなり書面を読み始めた。

「イアン・ローズからの伝言を伝える。今から言う條件を呑めば、命の保証と爵位の保持を約束する。まず、クロノス前國王、及びヴィナス王の引き渡し。ローズ軍が占拠している王城の包囲解除。シャルドンのシーラズ城の開城。そしてシャルドン家の領地と財産の三分の二を速やかに獻上すること……」

「待てよ。久しぶりだろう? 友と會うのに挨拶もなしか?」

あくまでにこやかに、シーマは言葉を遮った。返って來た答えは……

「貴様を友だと思った事は一度もないが」

サチは顔を上げ、忌々しげにシーマを睨んだ。

シーマは微笑んだまま、怯まない。

「それにしても酷い文面だな。おまえがイアンに助言してやれば良かったのに」

「まだ続きがある。最後までちゃんと聞け」

突っ込みをれようとするシーマを目にサチは続けた。

「今後、ローズ家に仕えると誓うこと、これからは無斷で婚姻、縁組みしてはいけない。保持している軍の引き渡し、共謀した貴族の処遇はイアン・ローズに委ねること。以上」

「なるほど、いかにもあのイアンらしい要求だ」

「気持ち悪い薄笑いをやめろ。すぐに返答できないなら俺は帰るし、この場で返事の書狀を用意するならここで待っててやる」

サチはきつい口調で宣言した。

元々こういう奴だ。

何の後ろ盾も地位もないが、自信と強い意志だけはある。そして誰よりも賢い。

シーマはサチの無禮な態度に気を悪くするどころか、楽しんでいた。

「俺がそんなふざけた要求を呑むとでも?」

「念のため言っておくが、王妃と貴様の両親の柄はこちらで預かっている」

「王妃も両親もイアンが王になるくらいなら、死を選ぶだろうよ……そんなことより何か飲むか? そんなに薄汚れて……寢てないんじゃないか? 椅子を用意させるから座ってゆっくり話そう」

サチは軍使にしてはみすぼらしかった。

著古した皮鎧は砂埃で汚れているし、手れされていてもブーツはかなり傷んでいる。元々、著飾ったりすることに興味のない格なのだ。ただ、清潔に保たれた皮や綺麗に整えられた頭髪は潔癖な格を現していた。

「おまえと話すことは何もない」

穏やかなシーマに対し、サチは頑なな態度を崩そうとはしない。シーマは溜め息を吐いた。

「まさか、本気でイアンが王に相応しいとでも?」

「無駄口叩くのなら、もう帰る」

サチは背を向けた。

「おまえの親友は俺についた」

案の定、その言葉は効果覿面(てきめん)だった。サチは驚いて振り返る。

「ユゼフが!? まさか?」

「今頃、モズで俺の為にディアナ王を守っているだろう」

「貴様、ユゼフに何かしたんじゃないだろうな?」

「何も。本人の意志だ。ただ軽い暗示はかけてやったかな。あいつは自信がないから、もしもの時に本來の力を発揮できるように」

シーマは腕の傷を見せた。

「臣従の誓いもわした。特別なやり方で」

サチの頬が怒りで紅していく。

が、顔はすぐ元に戻った。

激(げき)しやすいが、我を失うということはない。

シーマを睨み付けたまま、低い聲を出す。サチは落ち著いた口調で話し始めた。

「シーマ、おまえが間者を使ってイアンを焚き付けたんだろう? こんな大それたことをしでかすように。俺が気付いてなかったとでも? イアンは馬鹿だからまだ気付いてないが、やがて気付くだろう。勘だけはいいからな」

──ああ、気付かれてたか。でもこいつにはバレると思ってた

この時點で気付かれるのはし早いが、まあ想定。シーマは揺せずに答えた。

「今更気付いたところで、後の祭りだ」

「イアンはおまえを絶対に許さないぞ。執念深さは折り紙つきだ」

サチの言葉にシーマは聲を立てて笑った。

「許してもらう必要はない」

「……自分が王に相応しいとでも?」

サチはシーマの瞳の奧を覗き込み、尋ねた。

「まあ、イアンよりはね」

「……俺からすれば、イアンもおまえも同じだ。やり方が違うだけ。正直な分、卑怯者のおまえよりイアンの方がマシだが」

「どうしてイアンにつく? イアンは愚か者だぞ」

シーマは近づき、そっとサチの肩に手を置いた。が、すかさず払いのけられる。

「おっと、変な力を使おうとするんじゃない。俺はおまえの言いなりにならないからな」

見抜いていた。

その瞳は真っ直ぐで寸分の迷いもない。シーマはサチが誰にも跪(ひざまず)かないことを知っていた。

──だが何もないように見えて、こいつにも弱味はある

「ジニア、おまえには妹がいたな。その妹はおまえが大逆罪で捕らえられた場合、どうなるのだろうな」

ジニアというのは、サチの學生時代の呼び名である。

「脅す気か?」

サチは再び怒りで顔を赤くした。

しかし、どんなに憤っていてもその場で剣を抜かないだけの分別はわきまえている。

シーマはその様子を楽しみながら眺めていた。

──あともう一押し

妹の話を出すことにより、サチの顔が怒りから怖れへと変化するのをシーマは見逃さなかった。その瞬間を見計らい、すかさずに刺さる一言を発する。

「ジニア、おまえは賢い。俺につけ」

サチは目を丸くして、シーマの顔をまじまじと見つめた。

腹の底から笑いが湧き上がって來そうになるのをシーマは押さえ込んだ。

一番の友達はシーマについた。

妹が危険にさらされている。

彼の主人は馬鹿殿だ。

賢い彼はどちらに勝機があるか、見抜けるはず。

サチの瞳には先ほどまでの強さはもうなかった。その有り難い提案を、から手が出そうなほどしている。

それなのに……

サチは首を橫に振った。

「今更、おまえについて何をしろと? 薄汚い裏切り者になるくらいなら死んだ方がいい」

「元々、イアンには雇われているだけだろうが。卒業してから行き場のないおまえを先に拾ったのがあいつだっただけだ。俺が先だったら、俺に従っていた」

──あれ?

今はシーマの方が揺していた。

間違いなく自分の方につくと確信していたのだ。サチの瞳はもういつもの落ち著きを取り戻していた。

「俺は誰のものにもならないし、誰にも跪(ひざまず)かない。分かっているはずだ」

言葉は率直。斷固たる意志をじる。

何か負けたような気がして、シーマは苛立った。

「まだそんな子供のようなことを言っているのか? 學生の時、學ばなかったのか?? そんなことは不可能だ」

威圧するようにサチの前に立ちはだかった。

シーマの長は四キュビット(二メートルくらい)を超える。サチは小柄だから長差は頭一個半ぐらいあった。

近くで見下ろされれば、かなりの威圧を覚えるだろう。

それでもサチは全く怯まなかった。

計畫通りに進まないのは気持ちを焦らせる。しかも容易(たやす)いと思っていたことが不可能だった時の苛立たしさよ。

シーマはサチの耳元に口を近付け囁いた。

『誰しも王には跪く』

どうしてそんなことを言ったのか、自分でもよく分からなかった。

シーマは八割方、人を思い通りに作することが出來る。自分は賢く魅力的で強い神を持つと奢っていた。

思わず本音を出してしまったのは、揺していたからだ。

サチは再び首を橫に振る。

黒目がちの目は哀れみを帯びていた。

「兵の數は今のところ五分だが、こちらは間違いなく増える。お互い戦の初心者だ。でも俺は絶対に負けない」

最後の言葉は強い決意を表し、シーマのに刺さった。

それからすぐにサチは出て行った。

客人を失った謁見の間は不安を加速させる。城主の椅子はただの椅子。自信満々の利己主義者はの王様になる。

彼が出て行く時、嫌味のつもりでシーマは言葉を放った。

「イアンがおまえの思うようにくかな?……」

自分で言ってから負け惜しみのように思えて、を噛む。サチは何も答えず出て行った。

シーマの顔から笑みは消える。

サチが消えたのとは別の出口から、執務室へと向かった。

機に向かい、用意するのは紙とペン。

──ユゼフに伝えなければ

予定が狂った。

取り込めるはずだった強敵があちら側にいる。

賢い彼が友人側ではなく、愚かで狂人格の暴君につこうというのだ。その理由はシーマには分からなかった。

だが、今は理由云々より、手立てを高じなくては。こちらがやられる。

便箋を取り出し、しきりにペンを走らせる。部屋中にペン先が紙上をる音だけが響いた。

シュッ……シュルシュルシュル……

軽快な音はを奏でる音楽のようで、シーマのを粟立たせた。

しばらく書き続け、険しい顔になる。次に書いたを眺めて嘆息する。最後に便箋をぐしゃぐしゃに丸め、機上のを掻き回し、全て床へ落とした。

ユゼフにだけ分かるよう、文に暗號を紛れ込ませるのだ。他の誰にも悟られないように。

──グリンデル王に依頼してほしい。援軍を。

それができるのはディアナ王だけ。

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