《高校生男子による怪異探訪》9.河の正
暗い林を通り抜けて道路側へと戻ってきた。こっちは街燈も立っているからそれなりに明るい。道路沿いにぽつぽつと燈るライトのその向こうにだだっ広い田んぼがうっすら見える。
池周りにはこの道路の燈りすら屆いていなかった。申し訳程度の明かりでも、煌々と照るライトを見るとちょっとほっとする。
「普段であればあの看板からあちらの支柱へと侵止のロープが掛かっているんですよ。私が來た際にはこのように何もありはしない狀態だったんですが、それはあなたたちが來た時から同じでしたか?」
林のり口から男が指差して聞いてくる。俺たちがここに來た時から変わりなく、古戸池を示す看板以外には侵をじるようなものは何もない。
「そうですね。特に通行を妨害するようなものは何もなかったかと思います。そうでしょ?」
「なかった! 道と看板見付けたからそれで直ぐに池に行った! っちゃいけないなんて分からなかった!」
嵩原に問われて檜山も証言する。これは大學生たちの犯行が濃厚かな。ひょっとしたらその前に取っ払われていたのかもしれんけど。
「はあ。それは困ったことですね。やはりロープなどではなくきちんと柵を立てるなりしないといけないですかね」
「……あの、それで事故に関してのお話ってなんでしょうか?」
やれやれと首を振る男に樹本がそっと本題を促す。男はおやと呟き、そうして居住まいを正して俺たちと向き合った。
「そうでしたね。今後の対策は私共の方が考えるものです。……さて、それでは過去に起こった水難事故、それについて話したいと思います。ここが立ちり止となったこととも、當然関わりのあることです。出來れば真剣に聞いてもらえればと願います」
そうして男が語り出したのは今から凡そ十五年も前の話だ。
當時、もう既に古戸池の用水池としての役割は終わっていたようで、今のような放置狀態になってしまっていた。水は濁り草が生い茂り、周囲の田畑のためにと滾々と貯えられていた面影は綺麗さっぱり失われて久しかった。
古戸池は元々用水池としての役割の他に、近隣の住民からは気軽に赴ける水辺として利用もされていて、夏場になれば涼を取るためと遊びに來る子供も多かったそうだ。その頃は水も現在ほど濁ってなく、川に比べて流れもないために自由に泳ぐにも合が良かった。
本來溜め池なんて遊び場に適しているはずもなく、中心に向かって深くなっていく構造の古戸池では遊びに夢中になって溺れてしまう子供もそれなりにいた。しかし、死者が出てしまうことは一度もなかったそうで、それは近くで働く大人がいたこと、また遊びに赴くのが日中の明るいであったことが大きく寄與していたらしい。古戸池は中心に向かうほど深くなる、つまりは岸辺に寄れば足は著く。慌てずに陸を目指せば、溺れることもそうなかったのだ。
十五年前の事故はそうじゃなかった。もう用水池としても遊水池としても利用されることのなくなった古戸池では、水辺に対する警戒心だって薄れてしまっていた。
事故にあったのは地元の中學生。夏休みにちょっとした冒険気分で偶々見付けたこの池に友達と遊びに來たんだそうだ。
見付けたのは晝。昆蟲採集だかのために踏みったこの林から古戸池を見付け、そして誰が思い付いたか肝試しと稱し夜にまたやってきた。手には懐中電燈だけ。とっぷりと暮れる真っ暗な古戸池にて、彼らは一夏のスリルを味わった。
これだけなら単なる夜遊びと不法侵、怒られることは怒られるが、それでも中學生のおいたとして當時でもそんなに重い事態にはならなかったはずだ。
ただ、とっぷりと日が暮れた夜であったことが災いした。頼れる燈りが懐中電燈しかない闇の中で、彼らのの一人が足をらせて池へと落下した。手に持った懐中電燈も手放し、真っ暗な水の中にだ。
「それは不幸な事故でした。傍に一人でもいたなら落ちたその子は充分助けられたでしょう。でも、その子は一人で、近くには誰もいなかった」
派手な水音に友達もなんだと池に懐中電燈を向けた。暗闇の中、バシャバシャと聞こえ続ける水を叩く音に誰かが落ちたんだと察するのにそう時間は掛からなかった。慌てて水面を探るも、懐中電燈の明かりだけでは落ちた子を見付けるのにも時間が掛かる。
「落ちた子もパニックを起こしていたんでしょう。彼は岸にも近かったはずで、きっと手をばせば屆いていた。でも、暗闇と落ちたショックで彼は方向を見失ってしまった。真っ暗な水の中、どこに陸があるのか分からない恐怖とは一どんなものだったのか」
響く水音に友人たちは必死に名前を呼び懐中電燈で水面を照らした。何人かが外周を回り、しでも早く落ちた子を見付けようと闘した。でも、結局助けることは出來なかった。
「落ちた子は池の中央にほど近い場所で沈んでいました。彼は恐らく、岸から向けられる懐中電燈の明かりを目指してしまったのではないでしょうか。後に分かったことですが、落ちた子と友人たちは丁度対岸の位置に立っていたみたいなんです。帰る前にもう一周すると一人で飛び出し、そして半周した所で足をらせた。屆く明かりは対角線上となりますので目指せばそれは中央に拠ることになる。落ちた子は誤った方向を目指してしまったんです。そのために岸へ辿り著くことも出來ずに最後は力盡きてしまった」
この死亡事故により古戸池の危険が取り上げられ、そして立ちり止措置が取られたのだと言う。溺れてしまった中學生はその後きちんと陸へと上げられたが、そのには多くの水草や藻が絡んでおり、これも溺れた原因の一つではないかと推察されたのだとか。
「これが、過去にこの地で起こった事故の顛末です。決して噓でも作り話でもありません。お疑いなら図書館や市役所で調べてみてください。事故の記録が出てくるでしょうから」
男は淡々と説明の最後をそう締め括る。信じられないなら自分で調べろ、男は俺たちに言うが、でもきっと誰も噓だなんて思ってない。
池の中央で見える白い影。宙にばされる腕。その腕には緑の草が絡み手は必死に宙を藻掻く。
フラッシュを焚いた時のみに姿が寫真に寫り、そしてより目立つに引き寄せられ寄ってくる。
考えれば考えるほど全ての符合が揃う。大學生の験談も、俺たちが実際に見たものも、どちらも狀況が非常に似通っているから真実というものが簡単に想像出來た。
寫真に寫る彼は河なんかじゃない。彼は水面下に屆くに必死に縋り付いていた。ライトやフラッシュなんかの強いに反応し、見えたその時に顔を出して岸を目指す。
びる手は水を掻いているんだろう。だが、それだけじゃない。彼は地面に手が掛かることを必死に願った。だから、友人たちがいるだろうその陸を目掛けて、目一杯に腕をばしているんだ。
大學生たちが撮った時も、俺たちが撮った時も。彼はずっと地面に上がろうと足掻いていたんだ。
「……」
何も言えずに沈黙が落ちる。想像するだけでもその壯絶な様に言葉をなくす。
男が何故場所を移したのかもなんとなく理解が出來る。こんな話、あの場所で出來るはずがない。あそこは、もう放っておくのが一番だと心底思う。
「私が何故、事故の話をしたのかはご理解頂けたかと思います」
重い空気を打ち破るようにして男が靜かな聲で告げる。男の意図。それは撮れてしまった寫真に関係しているのは明白だ。多分、男はここで見知ったことを忘れてしいんだろう。
「寫真……、それから、この場所についての調査の差し止めですか?」
「そうです」
嵩原が訊ねれば短く答えが返る。まぁ、こんな話を聞かされたあとで、河がどうのこうのと騒ぐほどの不謹慎さも熱も俺らにはないからな。男のみに応えるのに否やはないはずだ。
「樹本」
こっそりと名を呼んでその表を窺えば、薄暗い中でもを悪くしているのが分かる。じっと前を見據えて固まっていたが、こちらの呼び掛けに反応して顔を上げたあと、コクコクと何度も頷きを返した。
「も、もちろん、こんな話を聞いたあとまで調査などに執著なんてしません! 寫真も、皆消しますから……!」
必死な様子で答える樹本がキョロキョロ視線を彷徨わせる。何かを探して、あ、カメラか。そう言えば男に預けたままだったな。樹本もそれを思い出したようでつっと視線が男の手で止まる。
「良かったらそちらで消してもらっても……」
「いえ、全部の消去は求めません。ただこの最後の寫真だけは消してもらいたいのです。これだけは殘しておくのも如何かと思いますので」
意外な妥協が男の口から飛び出した。最後、と言うのは接寫したあれか。あれ以外のものは殘しておいてもいいと?
「え? な、なんで」
「あなた方も指示されてこちらへ調査に來られたのでしょう? それを取り止めるともなれば納得させるだけの材料は必要となるはず。寫真の一つや二つは持ち帰らないと説得も上手くいかないかと」
「それは……」
そう言われると、確かに。蘆屋先輩は話し振りからすると理的な格をしている印象があるが、その分説得にはいくらか証の類が必要になるかもしれない。俺たちの説明だけで納得してもらえる可能はちと低いかも。
もしくは自分一人だけで調査を続ける、なんてことにもなり兼ねない。それだと俺たちが止めても意味がないな。
「それに、どうか同好會の総意として調査をこれ以上行わないと約束して頂きたい。亡くなった方が出ていることも理由ではありますが、無闇に立ちられてこれ以上の犠牲者が増えることも歓迎出來ないのです。お願いですからこの地の噂話など広めずにそっとしておいてしいと代表の方にもお伝えください。そのためならば寫真も、私の話も明かしてくださって構いませんから」
男からしてこの場所に固執される懸念は無視出來ないのか。敢えて証拠品の一部を持ち帰らせることで先輩に譲歩を見せて男側の言い分を呑ませると。狙いはそう言うことなのかね? 本來、不法侵した俺たち側が圧倒的に不利であり、なんなら頭ごなしにカメラも沒収、なんてやっても言い分としては通るだろうに、そうしないのは何か理由でもあるのだろうか?
「……それでそちらはよろしいんですか?」
「こうして誰かの口に上ったのなら完全な隠蔽は難しい。ならばせめて流れるだろう蛇口の一つでもしっかり閉じておきたい所なのですよ。私の方でもデータは確認しましたし、もしこの寫真が流出するようなら直ぐに出所はあなたたちだと判斷出來ます」
だから寫真を消さずにいても大丈夫だと? そう保険を掛けるんならやっぱり最初から全部消した方が面倒がないんじゃ……。いや、首を掛けたって言いたいのか、これ? 遠回しに脅されてる? 俺ら。
「そういった理由なのでどうぞお持ち帰りください。事故の話は出來るだけ関係者だけに止めて拡散等はしないでくださいね。族の方もご存命ですので、下手すれば損害賠償請求などされる場合がありますから注意してください」
「しません。不謹慎という意味でも、裁判沙汰という意味でもそんなことしません」
カメラを返卻しつつの男の発言に樹本が素で答える。やっぱり軽く脅された。敢えての見過ごしで分かり易い楔ぶっ刺すなんてやること汚い大人汚い。
これでもかってくらい派手に釘を刺された訳だが、しかしこうも明確に口封じされると、誤解なく口噤もうと思えるからむしろ寛容な対応と言えるか。
「さて、長々と話に付き合わせてしまって申し訳ありません。私からの話は以上です。もう暗くなってしまっているのでどうか気を付けてお帰りください。高校生の夜間外出は深夜十一時までと條例が定められていますので、どうかそれまでには帰宅してください。でないと補導されてしまうので」
最後に役所の人間らしいことを言うな、この男。男の発言はいが、中も同様のさでないことはうっすら理解している。法律に則らない部分で厳しく言い含めていたのはあくまで亡くなった人への配慮であったんだろう。これは俺たちが不謹慎であったためで特に反抗する気も湧かない。
「あ、あの、ご迷お掛けしてすみませんでした」
「いえいえ。あなた方が常識と倫理観を備えた方々であることに私も助かりました。どれだけ言葉を重ねても理解出來ない人間は一定數いるものですから」
深く頭を下げる樹本にそんな返しをする。実のこもったその臺詞でなんとなく男の苦労も分かるというもの。続けて檜山も頭を下げたので俺と嵩原もそれに倣った。
「人格の底に良識がきちんと付いているならば、失敗したとしても次から気を付ければいいんですよ。……あまり噂話など、追い掛けるものではありませんけどね」
別れ際、それは今回のあれやこれやに対する忠告であると思えたのだが。
どうにも、それは普段の俺たちの行に対するもののように聞こえてしまったのは、後ろ暗い思いがあったからこその思い込みだったのだろうか。
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