《視えるのに祓えない、九條尚久の心霊調査事務所》悲しい過去と、再會

私と九條さんは、またしてもあのアパートに戻っていた。

井戸田さんと連絡を取りあの部屋で待ち合わせる。

朝のアパートの部屋は明るくどこか爽やかな雰囲気すらじた。泣いていたの霊がいるなんて信じられないほど。

空は嫌味なほど青くしかった。

九條さんと共に部屋にったのとほぼ同時に、インターホンが鳴り響き井戸田さんが訪室した。

は相変わらず髪を一つに縛りしゃんと背筋をばした、しっかり者のに見えた。

「おはようございます、伊藤さんより連絡を頂きまして。この部屋についての最終報告だとか」

部屋にった井戸田さんは、どこかワクワクしているようにも見えた。長年謎だった部屋について真相を知れるのだ、彼が期待するのも無理はない。

九條さんは部屋の中央に立ち、ポケットに手をれたまま頷いた。

「この部屋で何が起こったのか、そして未だ滯在する霊についても分かりました」

「では、もう霊はいなくなったということですか?」

「いいえ。彼の要を葉えるのは今からです」

「要……?」

小さく首を傾げた井戸田さんに、九條さんは真面目な表で述べた。

「井戸田さん。これから話すことは、やや酷な事かもしれません」

「……え」

「よろしいですか」

驚きしたじろいだ井戸田さんだが、すぐに頷いた。私は彼の背後で、ドキドキしながら様子を伺っていた。

「はい、よろしくお願いします」

「分かりました。では、回りくどいのは苦手なので単刀直に言います」

九條さんはまっすぐ井戸田さんから目を離さず、淡々と言う。

「20年以上も前、ここの浴室で亡くなった方の名前は井戸田雅代さんです」

井戸田さんの表が固まった。目を見開き、停止したまま九條さんを見ている。

その名前だけで、彼は分かるはずなのだ。

説明なんかしなくても、誰なのか。

「……井戸田雅代さん。あなたのお母様ですね?」

を震わせる井戸田さんは、小さく首を振った。

「確かに母の名前ですが……でもまさか、祖母はそんな事一言も……病気で死んだって……」

「私は疑問に思っていました。あなたがこのアパートの管理者を継ぐのは分かりきっていた事なのに、おばあさまは何故この部屋について何も井戸田さんに教えてなかったのか。

教えなかったんじゃない。教えれなかったんです」

「……ええ?」

「……この部屋に住んでいた井戸田雅代さんは小さな子供と二人暮らしでした。まだほんの1、2歳の子だったそうです」

伊藤さんが調べてきた報だった。この部屋には、雅代さんともう一人、小さな子供が住んでいたとの証言があったのだ。

九條さんは考えるようにやや天井を仰いだ。

「死因までは流石に分かりませんでしたが……お風呂場で亡くなるとすればヒートショックによるものである可能が高い」

「ヒートショックって、溫度差で起きるあれですか?」

「はい。急激な溫度変化で、圧が上下して、心臓をはじめ全管に異変が起こることです。

心筋梗塞や脳梗塞、脳卒中、不整脈などリスクは高まります。もしくはヒートショックによる圧の変などで意識を失い、浴槽で溺死する事故も」

「……それが、母だった?」

「恐らく」

井戸田さんはきゅっとを噛んだ。その様子を九條さんはチラリと見たが、そのまま話を続ける。

「ここで大事なポイントが一つ。1.2歳の子供と二人暮らしなら、風呂を一人でることはまずありえません。普通、子供と一緒にるでしょう」

「私と……?じゃあ……」

「お母様は、あなたの目の前で亡くなられた可能が非常に高い」

井戸田さんは口を手で押さえた。私は眉を顰めてその景を見る。

記憶は無くとも、自分の目の前で母親が死んでいた経験があるなんて……普通ならショックをけて當然だ。

愕然とする井戸田さんに、九條さんはなお言葉を投げ続ける。

「たまたまあなたは洗い場で遊んでいたのか、もしくはお母様が最後の力を振り絞ってあなただけ浴槽の外に出したのかも。真実は分かりませんが、あなたの目の前でお母様が亡くなられたのは間違い無いかと。

だからあなたのおばあさまは言えなかったんです。い頃目の前で母を亡くしたと言う事実、そしてその母が幽霊となって出るなどと噂が立っているこの部屋の事を」

「じゃあ……この部屋にいる幽霊は……お母さんって事ですか……」

目に涙を溜めた井戸田さんが言う。九條さんは頷いた。

「ここに住んだ4組の方達の話を聞いて、一つ疑問がありました。

あらゆる験の中で、の霊は人の顔を覗き込み『違う』と否定してきました。うちのスタッフもこの経験をしましたが。

しかし、ここに短期間住んでいた2歳のの子だけは違った。壁からびた白い腕は子供を抱き抱えるようにし、娘も後に『お姉さん、抱っこ』と証言している。つまりはこの子だけ否定されていない。どこか、探しているものに似ていたのかもしれません」

九條さんの言いたいことが分かったのだろうか。井戸田さんはついに顔を両手で覆った。勘のいい人だ、と思う。私はその震える肩に手を置くことしかできない。

九條さんはじっとこちらを見ながら、それでも続けた。

「……20年以上も経っていますが……霊にとって時間の経過が不明瞭になることはよくあること……。

は未だに、あの日そばにいたはずの娘を探して彷徨っている」

「……私……?」

「私が聞いた霊の聲。泣き聲に混じりし聞き取りにくかったため勘違いしてました。

『私の顔』ではない。

『私の香織』です」

井戸田香織さんは聲を上げて泣いた。

洗面所でられた時。

薄れてゆく記憶の中で、頭はただ一人のしい子の事を考えていた。

これから先この子は生きていけるだろうか、

もっとあなたの隣にいたかった、

もう一度抱きたい、と。

そんな強い思いで死んでいった母という大きなは、死んでからも未だに探している。

あの日側にいたはずのい我が子を。

20年以上も彷徨って。

きっと一目會いたいだけ、もう一度抱きしめたいだけ。あの人はそれだけのためにずっと泣き続けている。

「……大丈夫ですか井戸田さん」

私は聲を掛ける。その自分の聲すら、震えているのが分かった。

井戸田さんは泣きながら頷く。

「父は生まれてすぐ事故で死んだって……母はそのあと病気でって……祖母に教わり、そう信じて生きてきました。

でもまさか、私の目の前で死んでたなんて。それからも、ずっと私を探していたなんて……」

掠れる聲が切ない。私は彼の肩に手を置きながら、何とか泣きそうなのを堪えて言った。

「おばあさまも悩んだと思いますよ……きっとどうしていいか分からなかったんですね……除霊とかもせずあの部屋を封印したのは、おばあさまの中でも葛藤があったからだと思います」

「ええ、ええ……そうだと思います」

しばらく泣きじゃくる井戸田さんは、それでも顔を強引に上げた。真っ赤な鼻と黒くなった頬が、彼の固い意志を表していた。

「どうすれば母は眠れるんですか?」

九條さんはじっと井戸田さんを見つめる。そして當たりを見回した。

「以前お話ししたように……私の能力は見えざるものと會話をすること。

聞こえてるはずです。姿は見えなくとも。

あなたが探し続けた香織さんはここです。死んだあなたとは時間の流れが違うため、立派な大人になられました」

九條さんの聲が、やけに響いた。この覚は、前も一度経験したことがある。

まるでエコーがかかっているかのように聞こえるのだ。

しんとした部屋は、音一つ聞こえず靜まりかえっていた。

井戸田さんは真っ赤にした顔で必死に立っている。ああ、なんて強い人だろうと改めて思った。普通、こんな話中々信じないだろうし、近くに母親とはいえ霊がいるだなんてきみ悪いと思って當然なのだ。

誰も言葉を発さないまま數分が過ぎた。私も音ひとつ立てないように細心の注意を払いながらじっと固まっていた。

しかし次の瞬間、自分の背後に気配をじた。

ぎょっとして振り返る。そこには、一人のが立っていた。

私は一瞬たじろいだものの、何も言わずにそっとその場を離れた。井戸田さんの數メートル後ろに、あの人はいることになる。

言おうかとも思ったが、私はあえて何も言わなかった。井戸田さんからしたら見えないわけなのだし、怯えさせる結果となるかもしれないと思ったのだ。

九條さんに視線を合わせれば、彼もやはり気付いてはいるようで、井戸田さんの背後をじっと見つめていた。

は相変わらず俯き加減に立ち、手をブラリと力なく垂らしていた。だが、無造作にされている黒髪の隙間から見える瞳は、目の前にいる井戸田さんをじっと見つめていた。

しばらく彼はただそうして井戸田さんを後ろから見つめていた。ピクリともかず、ただ無の表で立っている。

赤ん坊だと思っていた自分の娘が、突然こんな大人になっていて霊も混しているのだろか。知らぬ間に自分は死んでいて、知らぬ間に20年以上も経ってしまっていた。

……この人が探していた香織さんだと、分かるだろうか……

私が戸いながら聲をかけようとした時、ずっと黙っていた井戸田さんが震える聲で話し出した。

「私……香織です……」

の黒目が、ほんの僅かに揺れる。

「お、おばあちゃんに育てられて……そのおばあちゃんも去年死んじゃったけど……ちゃんと専門學校も出て、小さな會社だけど楽しくしてます……。

ちゃんと長して、大人になりました」

井戸田さんは誰にいうでも無くそう言った。聞いていた九條さんが、優しく目を細める。

しだけ、固く閉じていたを開いた。

井戸田さんの姿を見つめたまま、彼の目からポロリと涙が流れ出てきた。微かにを震わせ、ただ無音で涙をこぼし続けた。その表に、私はぐっと息が詰まる。

そして垂れていた腕を、ゆっくりゆっくり持ち上げた。

何歩か前進し、目の前にいる娘に近づく。彼の青白い腕は、そっと井戸田さんを抱きしめた。無論、井戸田さんは何も気付かない。

後ろから優しくおしそうには井戸田さんを抱擁し、その存在を確かめるように井戸田さんの肩に頬を寄せてり付けた。

涙で濡れた顔はどこか幸福に満ちたように見えた。

はそっと目を閉じて、優しく口角を上げる。

その景からは多大なじ、今まで見たどんなシーンよりもしいと思えた。これまでの冷えていた部屋の空気とは違う、どこか溫かな風が吹いているようにじた。

……ああ、やっと見つけられたんだ

死ぬ間際まで想っていた相手を、こんなに時間をかけて探し回り、泣きながら求め続けてようやく。

この人は會えた。

堪えきれず私の目からも涙が溢れ出る。洗面所でられた時のあのは言葉では表せられないほどの思いだった。

よかった、よかったね。

きっと悲しくて辛かった。もう娘はとっくに長し自分に追いつくほどになってしまっている事に驚いたかもしれないが、ちゃんと長してる姿を見れたのはよかったのかもしれない。

は長く井戸田さんを抱擁したのち、何も言わずにそのまま消えた。あ、と私の口から聲がれる。

その聲に反応した井戸田さんがこちらを振り返った。泣いている私に気づき、ぎょっとする。

私は慌てて顔を手で拭いた。

「す、すみません、私まで……」

「い、いいえ……」

「お母様、消えました。すごくすごく幸せそうな顔で」

「……本當ですか」

私は笑顔で強く頷く。

「本當に最後は幸せそうに……井戸田さんを背後から抱きしめて」

「……あ、なんか……背中がやけに熱いなあ、って……思ってた……」

は自分の背中をさすってみる。そしてすぐに微笑んだ。

「……私、母の記憶はないけど……祖母から見せられた寫真で、い私を大事そうに抱きしめる母の寫真を多く見せられて。されてたんだなあ、ってじる事が出來てたんです。だから…お母さんが安らかに眠ってくれたなら、よかった」

「……井戸田さんが優しくて立派な人に長して、お母さんも喜んでると思います」

私が心の底から言うと、彼は恥ずかしそうにはにかんだ。いつもの凜としている姿とはし違い、い表に見える。

井戸田さんは九條さんに向き直り、頭を下げた。

「ありがとうございました。これで、もう変な事は起きないですよね」

「そう思います。長く探し求めていた人を見つける事が出來たので、あの方がここに彷徨う理由はなくなりましたから」

「よかった……でも……その、せっかく解決して頂いたのに何ですが。

やっぱりこの部屋は人には貸し出さない事にします。短い時間ながら母と過ごした思い出の場所だと分かりましたし。時々ここに來て、母の供養をしたいと思います」

「……そうですか」

九條さんはそう短く言い、僅かに微笑んだ。私はと言えばまたしても鼻の奧がツンとしてしまい、慌てて平常心を保つ。井戸田さんより泣いてどうするんだ。

井戸田さんはにこっと笑った。

「あなた方に頼んでよかったです! 何も知らないまま母を無理やり除霊でもしてたら無念でしたでしょうし。謝しています。ありがとうございました!」

晴々としたその表は、眩しいほどに輝いていた。

私も九條さんも、その顔を見てなんとも穏やかな気持ちになれた。

……同時に私は、母の顔を思い浮かべていた。

母もきっと、私をあれほどして育ててくれたんだと。

信じられないくらい深いで支えてくれていたのだと。

もう今は會うことのないあの人の顔は、いつ思い出しても笑顔だった。

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