《視えるのに祓えない、九條尚久の心霊調査事務所》聲
そう思い顔を上げてみると、九條さんが無言で事務所のり口を見ていた。怪訝そうに眉を顰めて。
私もそれに釣られて扉をみる。なんの変哲もない、いつもどおりの扉だ。
すると突然、仮眠室にいた影山さんがそこから飛び出してきた。厳しい形相で、手には數珠を持っている。それを目にした途端、私たちは何も言われなくても立ち上がった。一気に迫に満ちる。
……何、もしかして?
言葉も出ない私の前に、伊藤さんと九條さんが庇うように立ちはだかった。影山さんは扉正面に一人で立ち、じっと睨みつけている。
そのまま誰も言葉を発さず靜寂が流れる。迫が増し、自分の耳も研ぎ澄まされていく。
廊下から、誰かの足音が聞こえてくる。
ゆっくりとした歩調だった。一歩一歩噛み締めるようにこちらへ近づいてくる。その時點ですでにおかしいのだ、普段事務所の前に誰かが通っても、こんなに足音が聞こえることはない。
影山さんが數珠を握りしめながら言った。
「鏡の準備はまだ途中です、今除霊は待ってほしい。追い払うだけ追い払いましょう」
そう言った彼の顔は、額に汗をかき、手が若干震えていた。前回除霊しようとしたとき、彼の腕を包丁で傷つけてなんとか追い払った。その張が蘇り、影山さんですら不安があるのかもしれない。
九條さんは立ったまま拳を強く握った。伊藤さんは、持っていたお守りを無言で私のそばに置いてくれる。
足音はどんどん近づいてきている。
私は何ができるわけもない。ただ、負けないと目を閉じながら強く思った。相手が誰だか分かったんだ、今までよりこっちが有利になっているはず。大丈夫、大丈夫だから。手のひらだって、これじゃ首が絞められない。
扉の前で、ピタリと足音が止まる。全員がごくりと固唾を飲む。一相手がどう出てくるか。
しばらくそのままかなかった。固まる私たちをよそに、向こう側から聞こえて來た聲は、明るいものだった。
「ねえ? ここ、開けてくれない?」
高い聲、聴き慣れた口調。それが誰のものかなんて、口に出さなくても分かっていた。
「せっかく來たのよ、なんでここ閉まってるの? いるんでしょ?」
バクバクと心が震えてくる。あなたはここにいないはずだ、いないはずなの。
麗香さんはまだ、院中なんだから。
震えるを止めたくて、布で巻かれた手先で腕をさする。こちらを騙しにきているんだ、知っている聲を利用して、私を油斷させようとしてる。
返事はもちろん返さなかった。相手も黙り込み、また沈黙が流れる。
「お姉ちゃん?」
ややいの聲に変わる。またもや息を呑んだ。まるで、聡がすぐそこにいるかのような……。
「お姉ちゃん、今までごめんね。今からちょっと遊ばない? 々話したいな」
不思議だ、と思う。
相手は間違いなく麗香さんでも聡でもない。それは明確な事実で、間違えようがない。それなのに、頭では分かっていても心が揺れる。なぜこんな簡単な揺さぶりで焦るのか。
私が飢えているからか。人付き合いが上手くなくていつも不用で悩んでいた。だから、心の隙間にろうとするのか。
一人で表を歪めて聲を飲み込む。返事をしてはいけないことは、言われなくても分かっていた。
このままいなくなってほしい、これ以上私を揺さぶらないで。
「」
はっとする。
もうここずっと聞くことが出來なかった、溫かな聲だった。
「、元気にしてる? ちゃんとご飯食べているの?」
九條さんと伊藤さんが、ゆっくりと私を振り返った。私は瞬きもできず、ただドアをじっと見つめる。
「一人にしてごめんね、寂しい? おいで、ゆっくり話したい」
らかな話し方、ちょっとお喋りな人。私にとっては唯一無二の、大事な人。
二度とその聲を聞くことはないと思っていた。だから、耳にってきた瞬間、それが本ではないと分かっていても、自分の目から涙が出るのが止まらなくなった。
(お母さん……)
懐かしき、母の聲。
あの聲で私の名を何度も呼んでくれた。子供の頃から幾度となく叱り、褒め、笑いかけてくれた。たった一人の理解者、私の家族。
「、おいで」
ふるふると首を振る。
「泣いてるのね、一人にしてごめんね」
あなたはお母さんじゃない。
だから、呼ばないでほしい。
その大好きな聲で私の名を呼んで、わさないでほしい。
「おいで、一緒に遊ぼう」
その聲に吸い込まれるように意識が遠くなる。呼ばれるまま、ふらふらと足が扉に向かっていく。あそこに行けば、お母さんと會える。そして、あの明るい笑顔で私を癒してくれるんだ、そう信じて。
「待ちなさい!」
私の手を摑んで止めたのは九條さんと伊藤さんだった。必死に私の行く手を阻み、押さえつけてくれる。
「あれはあなたのお母様ではない、分かっているはずです!」
「ちゃんしっかりして、君のお母さんは今ちゃんを呼んだりしないよ!」
二人の聲は聞こえている、でも脳まで屆いてこない。が自分のものではなくなったように、私は力無くそのまま歩こうとする。
「おかあ、さ」
「行ってはいけない!」
厳しい九條さんの聲に重なり、影山さんが低い聲で何かを唱え始めた。それが酷く耳障りだと思った。
二人の手を振り払いながら進もうとする私を、ついに伊藤さんが床に押し倒した。馬乗りにされの自由が奪われる。
「ごめんね、今だけ!」
自分の腹部にじる重みが邪魔で仕方がなかった。未だ扉の向こうで母の聲がする。
「おいで」
「ケーキ食べよう」
「と話したい」
「おいで、どうして來ないの?」
自分の生気が、どんどん奪われていくようだった。
自由にならないを必死にかして起きあがろうとする。それを伊藤さんは決して許さなかった。離れたところで聞こえる影山さんの聲は一段と大きくなっている。
頭がぐちゃぐちゃでおかしくなりそうだった。自分の中にたくさんの人格がいるみたい。九條さんたちを認識している私、向こうに行きたい私、それを止めたい私。
一、どれが本當の自分なのか。
混しつつ暴れる私の耳に、追い討ちをかけるような言葉が屆いた。
「、來てくれないの?」
幻滅するような響き。母のそんな冷たい言葉にハッとした。
瞬時に影山さんがぶ。
「耳を貸してはならない!」
けれど、そんな大きな聲よりも、囁くような母の冷たい聲の方が、はっきりと脳に屆いてくる。まるで直接脳に語りかけるかのように。
「來てくれないのね冷たい」
「私は一人で寂しい、あなたのせいで一人になった」
「こんなに呼んでるのに來てくれないなんて」
「あなたはいらない子」
「死ね」
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