《視えるのに祓えない、九條尚久の心霊調査事務所》終わり
背中から地面に倒れ込んだと同時に、空気がすうっとを通った。咳き込みながら何とか息を繰り返す。
「ちゃん!」
そうんだ伊藤さんがすぐさま私の右手をすごい力で握り、布を強く巻いた。反対の手は九條さんが押さえつけている。そこでようやく、手がから離れていたことを知ったのだ。
呆然としながら視線を上げる。そこに、ウェーブのかかった長い髪を見つけたのだ。
「よく耐えたわね」
聞き覚えのある聲。九條さんの橫に凜として立っているのは、ここにいるはずのない人だったのだ。
「れ、麗香さん??」
私が小聲でそう尋ねると、彼はちらりとこちらを見た。そして、しだけ微笑んでみせる。どうして院しているはずの麗香さんがここに?
そんな疑問をぶつける暇もあるわけがなく、麗香さんは目の前を睨みつけた。持っているのは右手にぶら下がる數珠のみだった。
「あのね……影山さんの存在さえなければ、あんたなんて私にとったらダンゴムシなのよ」
そう吐き捨てた聲からは、強い怒りがじられた。すごい殺気だ、多分個人的な怒りもあるからだろうか。
「まだ死にたてホヤホヤの新人が、よくもやってくれたわね」
そう言った麗香さんは手を合わせる。隅に立っていた日比谷の表が明らかに変わった。戸い、目を泳がせている。
「逃げられないって? 殘念、逃げられないように対処済み」
そう笑った彼は、無言でただ日比谷を睨みつけた。何を言うでもなく、だ。
日比谷の唸り聲が聞こえてくる。苦しむような、恨み言を言っているような聲だった。をしずつ揺らし、次の瞬間ぱかっと口を開けた。そしてそこから、白い煙が上昇していく。
突然、どこからともなく強風が吹いて麗香さんの髪を巻き上げた。窓も開いていないのに、その風は事務所全に吹き荒れ、機の上のペン立てを倒した。
ふとをじる。そちらに視線を向けてみると、デスクの上に置いたあの鏡だった。影山さんが力を込めたと言っていた鏡が、不自然にっていたのだ。
「消えなさい、二度と生まれてくるな」
そう冷たい麗香さんの聲がしたかと思うと、日比谷は大聲でんだ。地響きをじるほどの聲で、心臓を摑まれたように苦しくなった。
そして彼のがになっていく。鼻をつまみたくなるような異臭がした。ボロボロと崩れ落ちていくなか、日比谷の顔は苦痛で歪んでいた。
さえも消え去り、そこには何も殘らなかった。日比谷が立っていた場所には、白い壁があるだけだ。
「…………消えた」
私がポツンと呟く。唖然としたまま、開いた口が塞がらなかった。九條さんや伊藤さんも同じようで、みんな同じ方向を見つめたまま固まっている。
「く、九條さん、今度こそ日比谷が消え」
そう聲を掛けたのと同時だった。
突然彼が勢いよく私のを抱きしめたので、心臓が停止したんじゃないかと思うくらい驚いた。熱い溫に包まれ、棒のように固まるしかなかった。もう狀況全てが理解出來ない。
え? どうしたのこれ?
「……よかった……!」
耳元でそんな聲がして頭が噴火したかと思った。あれやっぱり私って死んだのかな、死んでここ天國でしたか?
天國は一瞬だった。九條さんはすぐに私を離し、何事もなかったように立ち上がった。ちょっと待ってください、せめてもうすこし浸らせてくれませんか天國を。そんな平然とした顔で終わらないでください。
「麗香」
そう九條さんが聲をかけると、ずっと背筋をばして立っていた麗香さんは、ふらふらとしながら近くのソファに倒れ込んだ。伊藤さんが慌てて駆け寄る。
「朝比奈さん!」
「ああ、もう、ちょっと寢込んでただけで力ガタ落ち。ヘロヘロよ、もう」
私も慌てて立ち上がり、麗香さんの側へ寄った。改めて見てみれば、著ているものは病。メイクもしておらず、病院で會ったままの麗香さんだったのだ。
「麗香さん! あ、ありがとうございました、でもどうしてここに?」
私が疑問をぶつけると、ううんと唸りながら上半を起こす。眉を顰めて言った。
「ねえ、なんか飲みちょうだい。お腹も空いてるけど普通のもの食べたら吐きそう」
伊藤さんが慌てて仮眠室から水を取ってきた。麗香さんはそれをゆっくり飲むと、一息ついてから言った。
「抜け出してきたの、病院」
「ひ……ひええ! 何してるんですか麗香さん!」
今頃病院では大騒ぎになっているんじゃないだろうか。すかさず伊藤さんがスマホを取り出し、どこかへ電話を掛け出す。多分、病院に麗香さんの所在を報告しているんだろう、仕事が早い人だ。
麗香さんはため息をついて言った。
「私、現実では眠ってたけどずっと見てたのよ、あなたたちの流れ」
「え、そんなことあるんですか?」
「なかなか目が開かなかったけど、し前にようやくがいて」
さすがは一流除霊師、とんでもないことができるもんだ。一どんなふうに見えていたというのだろうか。
麗香さんはゆっくりと視線を下ろす。未だ気を失ったままの影山さんをみて、小さくつぶやいた。
「愚かな人ね……」
九條さんが尋ねる。
「影山さんのこと、いつ気付いた?」
「正直、初めて向かい合った時、なんだか見覚えのあるオーラだなっていうのは思ったの。彼の後ろの方にもう一人誰かいることも気づいてた。でも、影山さんだって思い出せなかった。
さすがに、あの影山さん相手じゃ上手く行かなかった。依頼主と自分の命を守るのに一杯だったのよ」
どこか寂しそうに麗香さんが言った。
家族がいない麗香さんにとって、家族がわりのような人だった。そんな人が、まさかあんな恐ろしいことをするなんて、普通なら考えつかないだろう。
「悔しいわね、一度負けたんだから。
でも、ナオたちが影山さんの方を何とかしてくれたから助かったわ。ありがと」
乾いた笑みで言う。私は慌てて言った。
「お禮を言うのは私の方です! 麗香さんが來てくれなかったら死んでました……もしかして、途中何度か力が緩まったのも麗香さんのおかげだったんですか? あれで時間が稼げたというか」
「ああ、それは私じゃないわね」
そう言い、ちらりと下の方をみた。私たちは驚いて影山さんを見る。
「意識がない中でも……あなたを死なせなくない、って思いはあったんでしょうね。鏡にってた彼の力が、何とかしてくれたのよ」
「影山さん……」
そうだったのか、彼の力もあって、麗香さんがなんとか間に合った。やっぱり、優しい部分もあるんだ影山さん。
不思議でならない。なぜ人を救いたいと思う気持ちと、殺したい気持ちが共存できるのか。
世の中には他にも……そんな人がいるのだろうか。
九條さんが麗香さんに言った。
「自分の考察は甘かった。麗香が來てくれなかったらと思うと」
「そう? 私ならこんな結末気付けなかったし、影山さんに自覚させることなんて出來なかったわよ。ナオの閃きは流石だわ。結果よければ全てよし。今度こそ、終わったのよ」
そう言った麗香さんは深く息を吐いた。そして、力無く私の方をみて、眉を下げた。
「私のせいで、巻き込んでごめんね」
「そんな!」
「あなたの強さもあっぱれだったわ。ありがとう」
そう言った麗香さんの言葉が嬉しくて、私はつい目から涙をこぼした。友達が無事でいてよかったという安心も、ようやく襲ってくる。
麗香さんも助かった。私も助かった。ここにいるみんなのおかげだ。謝してもしきれない。
麗香さんは影山さんを見つめながら言う。
「日比谷本人が彼をそそのかしていたのね、上手いこと人形のように扱われて。主犯がいたというのは事実だけど、でもやっぱりそれは影山さんの心の弱さが原因でもあるから、同はしない。
彼には生きて償わせる。私がそばでしっかり見守る」
決意の聲は、あまりに悲しかった。
でも、一人で生きていくよりも、そばで見守る誰かがいるほうが絶対にいい。これから影山さんは大変だろうけど、麗香さんの存在を心に置いて頑張ってほしい。
もう二度と、に負けないで。
「朝比奈さん! 病院、戻らなきゃだめですよ!」
いつのまにか電話を終えていた伊藤さんが言った。麗香さんは不満そうな聲を上げる。
「えー。やっぱりい?」
「當たり前ですよ! 病院大騒ぎですよ。狀態は落ち著いていたとはいえ、まだしっかり療養しないと!」
「病院食ってまずいって言うじゃない」
「差しれしてあげますから! 九條さん、一応影山さんも一緒に病院連れて行こうと思うんです。多分大丈夫でしょうけど、念のため」
「そうですね、そうしましょう」
「あー、僕二人を連れていくんで、九條さんはちゃんを送っていってあげてください。影山さんをタクシーに乗せるのだけ手伝ってもらえますか。ちょっと九條さんに言いたいこともあるんで。ちゃんはそこで待っててね」
テキパキと仕切る伊藤さんは早口にそう言った。私は頷いて素直にソファに腰掛ける。麗香さんは力無く立ち上がり、私に微笑みかけた。
「退院したらまたランチ行かない?」
「あ、はい! ぜひ行きましょう! お見舞いもまた行きます!」
「多分すぐに退院できるから大丈夫よ。もう元気だもの。あなたもしっかり休んで」
そうヒラヒラと手を振った麗香さんは、そのまま自分の足で事務所から出ていった。九條さんと伊藤さんは寢ている影山さんを二人がかりで抱え、そのまま歩いて行く。
伊藤さんがくるりと首だけこちらを向いて言った。
「ちゃんはちょっと待っててね! ゆっくりしてて」
バタンと扉が閉まった事務所で、私は一人ポツンと座っていた。一気に靜まった部屋で、目まぐるしくいていた狀況を思い返す。
(今度こそ本當に、終わった)
今更やってくる実。するとどっと疲れが出て、の力が抜けた。橫に倒れてソファにを任せる。麗香さんまで終わった、って言ったんだもん、これで終焉なのだ。
麗香さんが倒れたって聞いて、代わりに私が憑かれて。除霊に失敗して、られて。結局私を攻撃してたのは影山さんで、でも彼の後ろには日比谷もいて……。
だめだ、頭がぐちゃぐちゃだ。
なんて慌ただしかったんだろう。私は夜は寢るようにみんな調整してくれていたのに、眠気がすごい。きっと九條さんも伊藤さんもほとんど寢ていないはずだ、全員疲労困憊。
ふうと息を吐いて目を閉じた。
怖かった。今までの中でも最高に。
こうも命の危機をじたのは流石に初めてだったから仕方ない。でも同時に、どこか心の中が満たされているのをじた。
私のために必死になってくれる人たちの存在、それから、自分がそんな人たちのために生きたいと強く思えた。この一年で、私はここまで変われた。
謝してもしきれないんだ。
「みんなのおかげだ。ここに……きて、よかったなあ」
一気に押し寄せる眠気と戦いながら、私はそう囁いた。
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