《指風鈴連続殺人事件 ~するカナリアと獄の日記帳~》するカナリアの話
私がI郡改めI市にあるM高校へと向かったのは、安愚楽氏と出會ってから、數か月が経った暑い夏の日のことだった。
電車とバスを利用して到著したM高校、その前にある砂浜は、海水浴客もおらず、ただ碧くしい海が広がっていた。
「先生、お久しぶりです」
安愚楽氏がやってきた。
數か月前と比べて、髪を短く切った彼は、さわやかな笑みを浮かべている。
かつて喫茶店で出會った我々だが、しかしあの日の最後、安愚楽氏はただ泣きはらし、話はそれ以上進まなかった。
その後、私と安愚楽氏の流は絶えていたのだが、しかし夏になり、かつて事件が起きた季節になると、また連絡を取り合った。そして、こうして再會したというわけだ。
砂浜から、M高校の校舎が見える。
あの場所で凄慘な殺人事件が起きたとは想像できない。
「例の地下室は、2016年に閉鎖されています」
安愚楽氏は言った。
「2016年。最後の事件から15年が経過し、やはりいつまでもそんな場所を殘しておくわけにはいかないという話になって、ついに埋め立て工事がなされました。今度は誰も死ななかったそうですよ。そして埋め立て工事を擔當したのは袴田工務店……」
「袴田みなもの父親の會社ですか」
「そうです。……娘が殺された連続事件。父の袴田氏は、懸賞金を出してまで報を募ったそうですが、ついに事件は迷宮りの様相で」
「…………」
私は目を細めた。
ことしの夏は酷暑といっていい。
海辺に立っていると、海面からの照り返しと、砂浜からの熱で、その場にぶっ倒れそうだった。
そこで安愚楽氏がスポーツドリンクをくれた。
用意のいい彼は、飲みをいくつか持ってきていたらしい。
気配りがありがたかった。
「日記に手を加えたのは、悪かったと思っています」
安愚楽氏は、自もスポーツドリンクを飲みながら言った。
「事件とは無関係の部分ながら、しかし私のプライバシーに関わる報なもので。勝手にああしてしまいました。そうせざるをえなかった。……しかし先生、よく僕が安愚楽士弦で、あの日記に黒塗りを加えたのが僕だとお分かりになりましたね?」
「消去法ですよ。天ヶ瀬グループの中で、唯一の生き殘り。なおかつ袴田みなもの日記を継承できるのは、あなたしかいない。袴田の家族という考えもありますが、あなたの年齢を考えると――やはりあなたの正は安愚楽士弦と考えるのがもっとも自然だ」
「…………」
安愚楽氏は、目を細めた。
この気溫と度なのに、彼は汗もかいていない。
涼しげな瞳をしていて、
「僕は同者なのです」
彼はふいに、そんなことを言った。
「黒塗りをした部分は、まさにそれに関すること。天ヶ瀬くんの日記には、僕を避けるようになったと書いてあるでしょう? そういうことなんです。僕は――僕は2001年當時、彼のことが好きだった。そして思いを打ち明けた。結果は――言うまでもないことですね」
「…………」
カミングアウトをけた私は、そういうことだったか、と何度もうなずいた。
そのデリケートな問題は、特に2001年當時の世相を考えれば、彼が日記に手を加えたのも分かる気がした。
萬が一、4冊の日記帳が他人の手に渡り、安愚楽氏のそういう部分が誰かに知られるのは――安愚楽氏にとっては苦痛なことだったのだろう。
しかし安愚楽氏はいま、自分のことを発表した。
「すべてのことを、読者の方に知ってほしいからです」
安愚楽氏は言った。
「僕が同者ということは、事件には無関係のことだと思っていた。しかしもしかしたら、あるいは――この事実さえも、事件が起きた一因なのかもしれない。どんなささいなことでもいい。読者の方に報を提供し、事件の解明に協力していただきたいのです。――そうしなければ、そうしないと、天ヶ瀬くんたちは浮かばれない!」
「…………」
「先生、お願いします。すべてを作品として公開してください。そして事件の謎を読者の方に解いてもらってください。必ず真相があるはずなのです。1980年から続いた複數の連続殺人事件。誰かが――誰かが解かないと……誰かが……!」
その瞳は真剣そのものだった。
安愚楽氏は、事件の解決をんでいる。
なぜ、こんなにも多くの人々が死ななければならなかったのか。
犯人はいまも、世界のどこかでほくそ笑んでいるのだろうか。
何人もの命を奪った、塗られた魂を有したまま――
「これから、どうされるのですか?」
スポーツドリンクを飲み干したあと、私は彼に問うた。
安愚楽氏は「仕事に戻りますよ」と言った。彼は家業を継いだらしい。
そういえば、天ヶ瀬日記に記されていた。安愚楽氏はバードショップの息子であり、特にカナリアが好きなのだ、と。
「でも先生、その前に。もう一か所だけ」
安愚楽氏はそう言って、砂浜の隅に私を連れていった。
そこはなんの変哲もない海岸だ。草がところどころに生えているだけの、砂地の上……。
「このあたりでやったんですよ。……ビーチバレー」
安愚楽氏の言葉に、私ははっとした。
堂若菜が殺される前、天ヶ瀬グループがまだ平和に青春を謳歌していた、その最後の時間。
ここだったのか!
この砂浜のこの場所に、彼らは確かにいたのだ。
「僕だけ年を取ってしまった。……年を取ることができている。僕だけだ。……近ごろは肩も凝るし、腰も痛いし、おじさんになってしまった。……なれているんだ、中年に。……ちゃんとなれている……ちゃんと、年を取れている……」
安愚楽氏は、涙を流していた。
私も、わずかに瞳を潤ませた。
若者のまま、永遠に時が止まってしまった初の人と友人たち。
青春が遠くなっていた。遠くさせられてしまった。もう二度とわらない、自分と彼ら彼らの人生。
それでも確かに、あの時間、この砂浜において、共有したがあったのだ。熱い時間を分け合ったのだ。
「安愚楽さん、これを」
私はそう言って、カバンの中からそれを取り出した。
日記だ。天ヶ瀬たちの日記、4冊だ。私はその塗られた日記帳4冊を、そっと砂浜の上に置いた。
その景を見て、安愚楽氏は、微笑を口許に浮かべたあと、小さな聲音で、震える聲でつぶやいた。
「天ヶ瀬くんの言葉を思い出しました」
「言葉?」
「彼は言ったんです。あのビーチバレーのあと……」
――もしの中で、俺たち仲間同士が離れ離れになっちまったら、あの砂浜にまた集合しよう。
約束は果たされた。太が、ひときわ強く輝いた気がした。
2001年の夏に、はるか天空の彼方へと散華していった5つの命は、しかし地上に殘された友人を、きっと見守っているに違いない。
それにしても歯がゆかった。
いくつもの事件を巻き起こした犯人は、いまものうのうとどこかで生き延びて、笑っているのだろうか?
砂浜からM高校へ目を向けると、かつて天ヶ瀬グループが青春を送った校舎が見えた。その校舎の下には、いまは埋め立てられてしまった殺人現場の地下室があったのだ。
何年、いや何十年も前から、無數の人間の無念と咆哮の場となった殺人現場。その塗られた鉄壁だけが、きっと真実を知っているはずなのだ。
「なにがあったんだ。1980年から2001年までの時間……あの場所で……いったいなにが……」
私の獨言は、しかし風の中に溶けてゆくのみである。
風が、4冊の日記帳のページをめくった。パラパラパラと紙が蠢き、ドス黒い痕が目に寫り込む。
ああ、願わくば。――この事件の真相を、1980年の岡部子殺害から続くすべての事件の真実を、読者の方が解き明かしてくれんことを――
『するカナリアと獄の日記帳』 完
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