《星の海で遊ばせて》白い海へ(2)

「外出よう!」

柚子はそう言うと、まだブランデーの香りが殘っているうちに立ち上がり、ガラス扉を開けてテラスに出た。明は、笑いながら柚子を追いかけた。

「わぁ、綺麗!」

手すりにを乗り出してレインボーブリッジを見上げながら、柚子が言った。

明は、そんな柚子を、後ろから抱きしめたい衝に駆られた。

船が橋の下にもぐった。

明は、柚子の隣に歩み出て、柚子の手すりを握る手を両手で包み、引き寄せるように向かい合った。

柚子は、明の熱のこもった瞳をじっと見つめた。

明は、柚子の手を固く握りながら言った。

「新見ちゃん――付き合ってくれないか。結婚を前提に」

真剣な明の瞳に、柚子は心打たれた。

ドンと、の奧で太鼓が鳴った様な気がした。

柚子のはほんの微かに開いていたが、その小さな隙間から返事が出てくるのを待つのが、明にはもどかしかった。柚子の元には、自分のプレゼントした鍵型のペンダントが輝いている。

言葉はいらないと、明は思った。

明は、柚子の肩に手を回し、靜かに柚子のを抱き寄せた。

冬の寒さの中で、柚子も明も、互いの溫をしっかりとじ取った。

もう、心臓の音さえわかるようだった。

鼻と鼻が近づき、そこで一度、二人は止まった。

もう一度見つめ合い、互いの気持ちを確認し合う。

――明さんと付き合おう。

船に乗るときにはすでに、柚子はそう決めていた。

そして今、こんな近くにいてもその決意は揺らがない。

だから、明さんとだったら、大丈夫だ。

靜かにゆっくりと、二人のが近づく。

柚子は目を閉じた。

明の吐息を、鼻先でじる――……。

『ここ詩乃君の指定席だから』

「予約は苦手だよ」

『私が取っとくからいいの』

「ずっと?」

『うん、ずっと』

「ダメッ!」

柚子は、明と自分のの間に右手をり込ませ、明からを引いた。

明は驚いて、柚子のを離した。

「あれ……、なんで……」

柚子は、自分の反応が信じられず、唖然と明を見つめた。

明も同じように、柚子を見つめていた。

柚子は首を橫に振った。

こんなはずじゃない。

私は、明さんにを許そうとしていた。本気だった。そのはずなのに、どうして――。

低い汽笛の音がデッキを揺らした。

レインボーブリッジが再び、船の後方に現れた。

先に立ち直ったのは、明の方だった。

「いや、いいんだ、新見ちゃん、寒いから中戻ろう」

明はその場を笑顔と笑い聲で取り繕って、柚子とラウンジに戻った。ガラス戸を閉める明に柚子は振り返った。

「明さん、私……」

「いや、いいよ、謝らなくていい。うん――」

明はそう言って、テーブルに置いていたラスティネイルを、半分ほどくいっとに流し込んだ。なんとも複雑そうな柚子の表とその心もとない立ち姿を見て、明は息をつき、仕方なしに笑って見せた。

「そんな泣きそうな顔しなくていいよ。折角の誕生日なんだから」

明はそう言うと、近くのソファーにどっかり腰を下ろした。

「――座りなよ」

明は優しく、柚子に言った。

柚子は、明の斜め隣りの一人掛けソファーに座った。

「はぁ……、イケると思ったんだけどなぁ」

あっけらかんと明が言った。

しかし柚子は、くすりとも笑わない。

おどけてもダメだと悟り、明は今度は真剣な眼差しを柚子に向けた。

「新見ちゃんの中には、誰か住んでるんだね?」

柚子は顔を上げて、明を見つめた。

「――俺だって節じゃないよ。薄々、そんな気はしてた。だから何とかして振り向かせたかったんだけど――この船じゃ小さかったかな?」

明の言葉に、柚子は思わず小さく笑った。

やっと笑ってくれたと、明はほっとした。

程なく、二人を乗せた船は港に戻った。柚子は、帰りも送らせるよという明の申し出を斷って、一人船を降りた。明は船の上から、柚子が駐車場へと続く道の奧に消えていくのを、柚子に返されたネックレスを片手に見送った。

〝新見柚子、カリスマIT社長と熱発覚! 相手は婚約者持ち! 果たして略奪の行方は!?〟

〈週間スマッシュ〉がその記事を載せたのは、柚子の誕生日の三日後だった。見出しは瞬く間にSNSに広がった。記載された寫真は三枚、どれも、読者を納得させるには充分な、決定的な寫真だった。一枚は明と柚子が手を取って船に乗り込む所を撮ったもの、そしてもう二枚は、二人が船のテラスデッキで接近し、見つめ合っている所と、そして、ほとんどキスしているようなその瞬間を撮ったもの。

記事が出た翌日の金曜日、〈晝いち!〉のオンエア後、柚子は會議室に呼ばれた。集まったのはアナウンス部長と副部長、総合編局各部長と局長、それに、柚子が出演している番組のプロデューサー陣。

事実確認として、柚子は、この九月頃から明とたびたび會っていた事を皆に話す必要があった。そして十二月三日のことを。しかし柚子は、明が自分に告白し、自分がそれを振ってしまった事を、皆の間で言いたくはなかった。會議とはいえ、そんな、明を辱めるようなことは、決してしたくない。

そう思った柚子は、その場で、決意を固めた。

「告白して、振られました。私が」

柚子がそう言うと、幾人かが嘲るような笑みを浮かべた。

「相手に婚約者がいるの知ってたのかよ」

第二編部長の徳上が、いらいらした様子で柚子に聞いた。

「……知ってました」

柚子が応えると、今度はほとんど全員が、どよめいた。

「お前、知っててそういうことしてたのかよ」

徳上が、怒気を込めて言った。

一昨年は佐山博の不倫スキャンダルで番組が壊された。そして今、番組が立ち直ったかに思えた矢先、今回のゴシップである。徳上は、その番組制作の殆ど全権をチーフプロデューサーの辻木に渡しているので口出しはしなかったが、本當は、メインにしろサブにしろ、タレントを起用したいと思っていた。アナウンサーは信用ならない、特に〈子アナ〉というものは――徳上は若手のアイドル扱いされているのアナウンサーを嫌っていた。

「見てみろよお前、これ」

徳上は、大畫面のタブレット端末を、暴にテーブルの上をらせて、柚子に渡した。柚子はそれをけ取って、畫面を見た。柚子の出演している番組のフォロワー數が軒並み、この一日で減っている、そのデータだった。そしてそのデータの下には、柚子についての視聴者意見が羅列されている。

『ファンへの裏切りだ。もう新見アナの出てる番組は見ません』

『略奪が本當だったら、ちょっと信じられない。そんな人がニュース読んでると思うと吐き気がする』

『怖すぎ。清純なフリして超遊んでるとか。格最悪』

ほとんど呪いのようなバッシングのコメントに、柚子は涙を堪えた。これまでだって批判くらいあったじゃないか。なんでこんなことで泣きそうになってるの、と柚子は自分に言い聞かせた。それでも、文字だけはどうしても追ってしまう。

『笑顔が不快です』

『別にいてもいなくても変わらないじゃん』

柚子が端末のモニターを見ている間に、部長や局長間で、この件に関する処理についてのことが話し合われた。最終的に、〈晝いち!〉をはじめ、柚子の出演している四番組について、柚子の降板は見送られた。局としてもコメントを出さず、鎮火できるようであればこれまで通り、もし炎上がひどく、視聴者離れが続くようであれば、來年の四月クールでキャスティングを変えていく、ということに決まった。

「ご迷おかけしました。申し訳ありませんでした」

會議の終わりに、柚子は皆に頭を下げた。

諸番組のプロデューサーの中には、出て行くとき、柚子に舌打ちをする者もいた。柚子は、皆が會議室を出るまで、席に座っていた。

「本當に余計なことしてくれたよな。恩をあだで返しやがって」

去り際、徳上は柚子にそう吐き捨てた。

すみません、と柚子は小さく謝ることしかできなかった。

會議室を出て、柚子はアナウンス室に戻った。奈が、それとなく柚子を待っていた。柚子は、心配する奈に、とりあえず降板は免れたということを話した。奈は柚子の手を握って喜んだ。

ところが翌週の月曜日、〈晝いち!〉のオンエア前に事件は起こった。

本番三分前、スタジオりした柚子は、スタッフに挨拶をしながらセットに歩いていた。セットの上には、すでに奈と莉玖がいて、それぞれディレクターとの臺本確認をしている。

柚子がやってきたのを知り、奈はちらりと顔を上げた。

そうして笑顔で、柚子を迎えるつもりだった。

ところが、柚子が突然、不自然に立ち止まった。

臺本をぎゅっと固く両手で握り締め、震えている。

ただ事ではないと、奈にもすぐにわかった。

柚子は、奈の見ている間に、その場にしゃがみこんでしまった。近くにいたスタッフが、柚子のもとに駆け付けた。柚子は過呼吸のような狀態で、はぁはぁと、淺い息を繰り返している。

「新見さん、大丈夫ですか!」

の若いアシスタントディレクターが立膝をつき、柚子の肩に手をやる。

「大丈夫、大丈夫……」

柚子は絞り出すように、震えた聲でそう言って、立ち上がろうとした。

しかし、腰を浮かせた所でまた、座り込んでしまった。

すでにスタンバイをしていた出演者たちも、立ち上がった。

奈はセットから降りて、柚子のもとに駆け寄った。

「新見さん、大丈夫です、今日は休んでください。大丈夫です」

奈は、柚子の背中をさすりながら言った。

「番組のことは、心配しないでください。私もオミさんもいますから」

柚子は、奈の腕に額を付けて、目を閉じた。

「ごめんね……」

と、柚子は奈だけにしか聞こえないような細い聲でそう言うと、ぐったりと、意識を失い様に、蹲った。ベテランのスタッフは、経験の中で、柚子と同じような狀態の人間を見たことがあったので、慌てることは無かった。

丁度その日は現場に來ていたプロデューサーの辻木は、アシスタントディレクターを呼んで柚子を前室に運び出させた。

「パニック発作かな。まぁ、無理もないか。――オミちゃん、何とかしてくれる?」

辻木は、莉玖に向かってそう言った。

ばたばたと駆け回るスタッフたちをセットの上から見つつ、莉玖は答えた。

「はい。――皆さん、落ち著いていきましょう。新見の生ナレのところ、池、いける?」

「はい、任せてください」

セットに戻ってきた奈は、頷いた。

今日は絶対に、新見さんのためにも失敗はできないと、奈は気合をれた。

「一分前です! いやぁ、參ったなぁ……」

ディレクターもカメラマンも、急なことにてんやわんやだった。

それでも、時間にはきっちりとカメラが回った。

こんにちは、と奈と莉玖がお辭儀をする。

「十二月十日、月曜日、今週も元気に行きましょう、〈晝いち!〉の時間となりました。今日は新見アナがお休みをとっていますので、新見アナの分まで、いつもより笑顔二割増しでやっていきたいと思います」

「二割増しじゃ二人分になりませんよ。二倍でやってください」

「あ、はい、そうですね、失禮しました。笑顔、二倍でお送りいたします」

奈と莉玖のアドリブの掛け合いに、スタジオにはひとまず安堵の空気が流れた。この二人なら、今日は大丈夫そうだと、張りつめていた空気が解れる。そうして放送は、最初からその日、柚子の欠席が決まっていたかのように進行していった。

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