燕明は帰りついた私室で、頭を抱えていた。

「藩季《はんき》……俺が眠れなくなってどれくらいになる」

藩季は牀《ベッド》の縁に項垂れ腰掛ける燕明を、哀のこもった目で見つめた。

「……およそ、二月です」

「ハッ」と燕明から自嘲の聲がれれば、俯いた顔を隠す長くしい黒髪がさらりと揺れた。

彼は、萬華國《ばんかこく》唯一の皇太子にして次期皇帝『華燕明《かえんめい》』。

均整の取れた顔立ち。恵まれた長と程良い筋の付いた軀。常に凜として、揺するところなど見せない落ち著いた立ち居振る舞いは、彼に『萬華國の至寶』との異名まで取らせる。

しかしここ二月で、その至寶はりを見せていた。

「二月……ちょうど、先帝が亡くなってからだな」

気怠げに上げられた燕明の顔には、濃い隈がくっきりと出來ていた。

燕明は目元を指でみながら、重い溜め息をついた。

「心労が祟っておられるのでしょう。気分転換に後宮に足を運ばれてはいかがですか」

日に日に濃くなる燕明の隈と疲れに、藩季も気が気ではなかった。

眠れなくなって宮廷醫や民間療法も様々な事も試した。しかし、どれも効果が薄く、こうして燕明は未だに眠れないでいる。ならばと後宮に通うように進言するのだが、燕明はいつも首を橫に振るばかりだった。

唯一の皇太子という立場、男盛りの二十三歳、そして至寶とまでいわれる丈夫である燕明の後宮にりたがる達はごまんと居る。

燕明の後宮には百花繚、どのような好みにもあう達が揃っている。

それでも、燕明は後宮をおとずれない。まだ、先帝が亡くなる前は時折足を運んでいたというのに、亡くなってからは、その足もめっきり向かなくなっていた。

「人で癒やされる疲れもありましょう。夜伽など考えず、ただ一緒に眠るだけでもいいのでは？」

「それはお前の経験則か、藩季」

揶揄うような視線を向けられ、藩季は咳払いでその質問をかわす。

燕明の側近であり護衛役でもある藩季。

人の良さそうななだらかな眉に細い目、ふわりとしたクセのある黒髪が彼の雰囲気をより和に見せている。一見すると燕明と同じくらいの歳にも見えるが、歴とした不の四十歳である。

再び燕明は嘆息した。

「俺のこの心労は先帝が亡くなったからでないのは、お前もよく知っているだろう」

寂しくて眠れないわけではない。皇帝になるのが嫌で眠れないわけではない。

「皇帝になれないから、眠れんのだ」

本來ならば、燕明は二月前には即位を済ませているはずだった。

だが今尚、彼は皇太子の位に據え置かれている。その理由が燕明を悩ませ、不眠に陥らせていた。

「異國融和策の斷念……ですね」

燕明が推し進めようとしていた政策『異國融和策』。

しかし、先程のように朝廷がそれを認めない。

元來、萬華國は異國との流を拒絶してきた。

一國のみで大國になった自負と絶対的自信から、異國全てを見下しており、また他の文化の流によって、自國の文化が衰退しないよう守るという大義名分があった。

現在流がある國は、周辺四國の夷狄蠻戎《いてきばんじゅう》のみであり、それも対等國ではなく屬國という位置づけでみている。

ゆえに萬華國では異國排斥が當たり前という風がある。

「俺はこのままではこの國はいつか朽ち果てると思う。今はまだ良いが、こうも閉鎖的だと、その他國に置いて行かれるような事になるぞ」

周囲からの報や文化を閉ざしていれば、新たな発見や進化は起きない。

閉ざされた世界の中では、いずれ國も民も膿みはじめるだろう。

「蔡侍中《さいじちゅう》の言う事も分かる。今の狀態で上手くいっているものを、無理矢理変える必要があるのかと言われれば……」

だから、いつもあと一歩踏み込んだ反論ができないでいた。

國を開きたい思いは確かにある。だが、こうも否定され続けると、誰も困っていないのなら今のままでも良いのではと思ってしまう事も確かだ。

しかしその度にどうしても思い出す記憶が、燕明を後に退かせないでいた。どうにか蔡京玿の圧に立ち向かえているのは、そのき頃の記憶のおだった。

「やはり融和策を斷念させては駄目だ。……このままでは、この國も民も立ち枯れる」

この二月、葛藤の無い日はなかった。

ほとほと頭の痛くなる話だ。この國の行く末を本當に考えている吏は、果たしてどれ程居るのだろうか。

「新しい風が必要ですか」

「國にも……俺にもな」

この煮詰まった前にも後にも進めない狀況を変えてくれる、新しい何かが必要だった。そんな都合良く風など吹いてくれるものかと思いつつも、燕明は不安を掻き消すように藩季に微笑んでみせた。

「ま、それよりも今は俺の安眠が最優先事項だな」

「ですね。これでは即位云々の前に、燕明様が衰弱死してしまいますからね」

「眠くなる薬でもあればいいのだがな」

「今度花街にでも行って、眠くなる香など探しましょうか」

「そうだな。あそこは々と面白い報が集まるからな。何か良い方法を知っているかもしれん」

そう言って燕明は笑ったものの、どうせ本を解決せねばその場しのぎにしかならないだろう、と今日の朝議を思い出し、溜息と共に被《布団》にを潛らせた。