ドンッと重たい音を立てて、竈《かまど》の上に大鍋が置かれた。

隣の作業臺にも、バラバラと一見しただけでは分からないが置かれる。月英はそれらをくみ上げ一つの裝置を作り上げた。

太醫院の房の片隅には竈《かまど》が據えられている。薬草を煮たり煎じたりする時に使うもので、常に火がっている。

おかげで夏場はそこら一帯地獄のような蒸し暑さになり、この季節は必要にかられないと誰もすすんでは近付かない。

そこに、いつもは部屋の隅の薄暗い所で靜かに果の皮を剝いたり、花を並べたりしていた謎の新人が現れたものだから、皆一斉に手を止めて注視した。

ヒソヒソとした様子伺いの聲が方々で上がる。

一何なんだ、何をやるつもりだ、あのはどうしたんだ――などと房はざわついていた。

そしてやはりというか、最初に月英に正面切って聲を掛けてきたのは、いつも月英を小馬鹿にしてちょっかいをかける男だった。

「おいチビ」

不機嫌を表わしたような野太い聲。

線の細い者が多い醫の中でその男はよく目立った。武のような逞しいつきは他の醫達よりも一回り大きく、見た目からも態度の大きさからも醫達の中心的存在だと伺い知れた。

――まず、この男をどうにかしないとだよね。

先日の燕明との會話から、月英は自分のすべき事を考えた。

そして出した結論が、「まずは認められる事」だった。その為には太醫院の主《ぬし》を押さえるのが一番だ。

本當の太醫院の主《ぬし》である呈《てい》太《たい》醫《い》は、皇族や後宮妃達の健康を一手に擔っている。その為太醫院を不在にしがちで、実質この男が太醫院での権力者だった。

月英は、背後で睨みをきかせてくる男を振り返った。

「僕の名はチビじゃない」

「どうせすぐ居なくなる奴の名なんか覚えねえよ」

一々言う事が腹立つ男だ。

月英はの橫で手をわきわきさせる。手元に柑の皮が無い事が悔やまれる。

「その竈は醫が仕事に使うもんだ。茶でも湧かしたいなら食膳処《しょくぜんしょ》行きな。醫より宮廷料理人の方が向いてるかもしれないぜ、ハハッ！」

男は月英の両手にこんもりと盛られた葉っぱの山を見て意地悪く笑った。クスクスと周囲からも失笑が聞こえる。

しかし月英は怯まない。

「変な事を言うんだな。僕も醫だけど？」

「醫の使えねえ奴は、醫とは言わねえんだよ。コネで任された奴に、真剣にやってる俺達の橫で優雅にお花遊びなんてされちゃ堪んねえんだよ！」

男の月英を見つめる瞳は、それこそ食膳処に迷い込んだ野良犬を見るような、異を排除しようとするものだった。

「君が知る醫が全てじゃないだろう」

男は「ほう」と口を丸め、月英に好戦的な目を向けた。

「じゃあお前の醫を見せて貰おうか？　醫を名乗るならそれくらい出來るだろ？　出鱈目《でたらめ》だったら大人しく醫を辭めて貰うからな」

周囲から「おお」囃し立てる歓聲が上がった。

月英と男のやり取りは、もはや一種の見せと化していた。

「……分かった」

これくらい想定だ。この程度の狀況をひっくり返せないようでは、到底このを認めさせる事は不可能だろう。

月英は男達の存在を認知の外へと追いやると、素早く作業に取り掛かった。

「ただでさえ暑いってのに、そんなに火をくべてどうするってんだよ」

男は顎先から滴る汗を拭いながら、ぐちぐちと悪態をつく。

竈の火はごうと音を立てて燃えさかり、ただでさえ暑い房の中はさらに暑さを増し、まるで地獄の釜で煮込まれているようだった。

窓から一応の風はってくるが、房《ぼう》の熱気を巻き込んだ風はただの拷問でしかない。

月英の向を見つめる男や他の醫達の額には、玉のような汗が浮いていた。

男や醫達は「うー」だの「あー」だの、聞いているこちらが鬱陶しくなる、度の高いきを上げている。正直うるさい。

――嫌なら、隣の房に行ってれば良いものを。

この場に柑が無いのが本當に、心の底から悔やまれる。

「ここに柑がなくて良かったね」

「あったら、どうだってんだよ」

「ふふ……今頃、明日の朝日も拝めなくなってたよ」

「ただの目潰しを妙に雰囲気出して言うんじゃねえよ」

バレていた。しかし、男も柑の怖さを思い出したのだろう。月英から一歩距離を取る。

「それで、お前は今何の薬を作ってんだよ？　チラッとしか見えなかったが、鍋に大量の葉をれてたよな。煎じ薬か？」

「煎じてるわけじゃない。蒸してるんだよ。正確には水蒸気蒸留法《すいじょうきじょうりゅうほう》って言うんだけど」

「蒸す!?」と、男は語尾を高めて月英の言葉を復唱した。

「丸薬《がんやく》でも作るつもりか？　それでも普通そんな沢山は必要ねえだろ」

知的好奇心が旺盛なのか、男達は何だかんだとくだを巻きながら月英を質問攻めにする。そこはやはり醫なんだな、しだけ月英は見直した。

「もうすぐで出來上がるから、大人しく見てなよ」

月英は、竈隣の作業臺に置かれた玻璃瓶《がらすびん》を顎で示してみせた。その先には冷たい井戸水をたっぷりと張った盥があり、中に明の玻璃瓶が置かれていた。

玻璃瓶は鍋の蓋と繋がっており、革のようなもので出來た鍋の蓋は、飴をばしたように細い管狀になって、玻璃瓶の中にその先端を差し込んでいる。

「この、鍋の蓋は革か？」

「豚の胃袋だよ」

男は「へえ」とだけ言うと、鍋の蓋のびる先を追って目線を移させた。目線の終著點からはポタリポタリと一滴ずつ雫が落ち、玻璃瓶を満たしていた。

男は玻璃瓶に顔を近づけ、顎をでながら雫が落ちる様子を眺めていた。

「蒸気を冷卻して化してんのか」

やはりこの男ただ単にが大きい故の主《ぬし》ではなく、醫としての高い技倆《ぎりょう》も持ち合わせているようだった。一目でこの裝置の意味を當ててしまった。

「そう。鍋から出た蒸気をにする為の裝置なんだけど、出てきた蒸気はただの蒸気じゃない」

男は首を捻った。

「鍋にれた葉の香り分が含まれた蒸気だよ」

「香り!?　蒸気にか!?」

素っ頓狂な聲が房に響いた。

「どんな植だって大なり小なり香りを持ってるでしょ？　それは植の中にある『油《ゆ》のう』って袋に香りの分がってるからなんだけど。その香りの油ってのが揮発《きはつ》しやすくて、こうやって蒸してやると、出來た蒸気に香りが移るってわけ」

月英は取り巻く者達に説明するように、の溜った玻璃瓶を掲げ見せた。

は不思議な事に、上下を分けるように一本の線がっていた。

「この上澄み部分が油《せいゆ》、この線より下の部分が芳香蒸留水《ほうこうじょうりゅうすい》って呼ばれるものなんだ。芳香蒸留水の方が分は薄いけど、どっちもしっかりと香りがついてるよ」

月英は上澄みを薬匙で丁寧に掬い取り、油瓶に移した。そうして出來た白磁瓶にった油と、玻璃瓶に殘った芳香蒸留水とを男に手渡せば、男は確かめるような手つきで二本をけ取り、それぞれに鼻を近づけ香りを確認していた。

「この香り……薄荷《はっか》か！」

二本の瓶からは、清涼のある香りがほのかに立ち上がっていた。

男の言うとおり、月英が鍋にれていたのは、薬草園に茂っていた大量の薄荷だ。

「確かに薄荷は、俺達も煎じ薬や薬膳として使うけどよ。じゃあ、お前はこんな回りくどい方法までして、俺達のと同じもんを作っだけっていう事かよ」

先程まで興味津々という顔をしていた男の表が、途端に曇る。

月英を見る目も、どこか見下したようなものへと変わった。しかし、月英はその視線をけてもケロリとしていた。それどころか、男の手にあった油の瓶を奪うと醫達の山を突っ切り、窓辺でゴソゴソと作業を始める。

窓から風が流れ込んでくる。しかし、やはりその風は変わらず生溫い。

こんな熱い風なら無い方がマシだな、などと醫達が思っていた次の瞬間――

「――ん……あれ？　なあ……急に涼しくなったじしねえ？」

「おお何だ!?　風が冷てえよ！」

男も醫達も、突然変わった風に驚きを隠せないでいた。窓の外や、冷たくじた自分の手を不思議そうに眺めては首を傾げている。

「どう？　これでしは仕事しやすくなるんじゃないかな」

男が目玉が落ちそうな顔で月英を見ていた。

「お前の仕業か!?　けどどうやって……まさか呪法か」

呪法とは星をよんだり、卜占を行う者達が得意とする、まじないのようなもの。月英は呪法について信じてはいないが、これを信じるものは案外多い。

「はは、僕がそんなの使えるわけないだろ。正は――さっきのコレ」

そう言って見せたのは先程の油の瓶と、窓辺に置かれた謎の石。

「素焼きの石に油を染み込ませたんだ」

風が吹き込む度、噓のように房が涼やかになっていく。同時に、醫達の苦痛に満ちていた顔も、穏やかなものへと変わっていく。

「確かに俺達の知らないだ」

これで認めてくれたか、と月英はホッとをで下ろした。が、男は「だが！」と言葉を続けた。

「だがな、チビ。これのどこが醫って呼べるんだよ。風が涼しくなった。気持ちいい。それだけじゃ醫とは言えねえんだよ！」

言う事は確かにその通り。ごもっとも。

だが単純に月英はこう思った。「しつこい」と。

「だったら……そのご自慢のに直接分からせてやるよ」

月英はドスドスと足音を立てて男へと向かった。その迫力に醫達はを引いて道を空けた。

男も迫り來る月英の全から溢れる邪気に、顔を引きつらせる。

「お、おい、何だ――」

男は最後まで言葉を言わせて貰えなかった。

月英の両腕が男の醫服の襟を暴に摑み、そして――

「きゃあああああッ！」

一瞬にして男は上半を剝《む》かれた。

みたいな聲を出すな。

本のである自分以上にらしい悲鳴が無駄に癪に障る。

月英は剝ぎ取った男の醫服を、「フンッ！」と床に投げつけた。

「いやあああああッ！」

を手で隠すな。

なぜか下は剝《む》いていないのに男の足はだ。それがまたイラッとくる。

月英は投げ捨てた男の醫服に、もう一つの玻璃瓶の中――芳香蒸留水をぶちまけた。

「お、俺の服ううぅ！」

黙れ。下も剝《む》くぞ。

びしょ濡れになったその醫服を月英は暴にみ込み、水気を絞ると男に投げて寄越した。

この時の月英の様子は、まるで憎い者の首でもねじ切っているような迫力だった、と後に醫達は語っている。

「さっさとその無駄なを隠しなよ」

「じゃねえ！　筋だ！」

どちらにしろ醫には不要だろう。

男は返ってきた醫服にさっさと袖を通していたが、そこで気付いたようだ。

「……んだ、これ。服が……冷てえ？」

男の言葉に醫達が笑う。

「ハハッ、何言ってんだよお前。濡れてんだから冷たいに決まってるだろう」

「いや、違うんだって！　ただの水濡れだったらすぐに溫が移って溫かくなるだろ？　それが全くないんだって！　氷室で冷やしたみてぇによ！」

醫達は「またまたぁ」と男の言葉に笑って、取り合わない。

「それに、心なしかがスッキリするんだわ。なんか軽くなったような……」

「勘違いじゃないのか？　ちょっと私に貸してみろよ」

「いや、オレが試したい。ちょっとげよソレ」

自分も私も、と醫達が男にわらわらと群がり始める。

「や、やめ!?　剝くな！　おい、待てって！　や！　や！　襲われるううう！」

熊のような男にカマキリのような醫達が群がる。絵面はまさに汚い地獄。

「そういう事やるなら、別の所でやってくれないかな。僕、そういう趣味ないから」

「俺だってねーわ!!」

と男は言いつつも、その腹の上では「うわ、本當だ冷たい！」などと、服の取り合いが発していた。男はご自慢の筋を使い、纏わり付くカマキリ達を千切っては投げ千切っては投げ、ようやく立ち上がる。

月英はおもむろに、ぜーはーと肩で息をしている男に、薄荷の油がった白磁の瓶を手渡した。

「薄荷は清涼を與えてくれるだけじゃなくて、疲労回復や集中力向上にも効果があるんだ。君がさっきが軽いってじたのもそのおかげ。他にも頭痛や腹部異常、蟲刺されなんかにも――」

月英が油の効能をツラツラと並べれば、男の口はそれに伴い段々と顎が下がっていく。

「そんなにか!?　俺達が薄荷を使うのは病熱の時だけだったが……」

「植にはんな力だあるんだよ。一つだけとは限らない。使い方だって、なにも口かられるばかりじゃない。こうやって嗅覚を使って、直接脳やに作用させる事も出來るんだ」

男は「へえ」と、しばらく手にした瓶を真剣な目付きで眺めていた。

「……お前が使うのはこの薄荷の油だけか？」

月英はにやりと口角を上げると、唯一の私である竹籠を開いて男に見せた。そこには小皿やの他に、ずらずらと沢山の白磁の瓶が並んでいた。

「端から柑《オレンジ》、薫草《ラベンダー》、丁子《クローブ》、月桂樹《ローレル》、鼠尾草《セージ》、加列《カモミール》、茉莉花《ジャスミン》、天竺葵《ゼラニウム》――」

「待て待て待て！　呪文かそりゃあ!?」

ツラツラと植の名前を唱え始めた月英を、慌てて男が止めた。

「油ってのはこんなにもあるのか!?」

「これはごく一部。僕じゃ手にらない植の方が多かったから」

「これでごく一部……」

男だけじゃなく他の醫達も、竹籠の中を覗きに集まってくる。

「これが僕の醫。確かに君達みたいに切ったりったりは出來ない。だけど、僕にだって治療はできる。それはだけじゃない。香りは心も癒やせるんだ」

ふわりと部屋に風が吹き込んだ。

先程まで不快を運んでいた風は、今はもう心地良いだけの清々しい風だった。

男達の顔の汗もいつの間にか引いている。呼吸をすれば、の中から冷やされていく。

男と月英は無言で睨み合っていた。

「……醫……じゃあねえな」

月英の顔が強張った。

「だが、確かにこれは治療だ」

俯きかけた月英の顔が跳ね上がる。

「俺達醫は自分らのに誇りを持ってる。日夜新しい治療法や、もっと有効な薬を探して勉強してる。だから、殿下の一聲でってきて、いつも房の隅で花遊びしてるような奴なんか――って気に食わなかったんだがよ。でも実は、お前はお前でちゃんと自分のを磨いてたんだな」

男は笑っていた。

その笑みは、皮でもなければ嘲笑でもなかった。それは月英が太醫院《ここ》に來て初めて向けられた、喜びを表わす純粋な笑顔だった。

薄荷の香りが目に沁みた。

生まれて初めての覚に、月英は上げた顔を隠すように再び俯ける。

「で、お前のこれは何って言うんだ？」

「え……自分の為にしか使った事なかったから、そんなの考えた事もなかったけど」

「俺達の知る醫とは全くの別だからよ、偏《ひとえ》に醫なんて呼んだら混するしな。他の言い方探さねえとよ」

いつの間にか、男や醫達があれはこれはと口々にの名前を発していた。

なくともこのは今は月英にしか使えない。男達には関係のないのはず。なのにまるで自分の事のように、真剣に話し合ってくれていた。

――ああ……。

月英は、房の裏で燕明に言われた言葉を思い出した。

――互いに知らないと歩み寄れない、ってこういう事だったんだ。

彼等はなにも新人だからという理由だけで、自分に突っかかっていたわけじゃなかった。自分達の持つに真摯に向き合っていたからこそ、同じ醫の名を持つ自分が許せなかったのだろう。

月英は懐の本を、醫服の上からそっとでた。

――逃げずに……もうしだけ早く向き合えば良かった。

彼等にも。

自分にも。

「……香療《こうりょうじゅつ》」

ポツリと溢した月英の聲に、男達は一斉に會話を止めた。

「香療ってのは、どうかな？」

「香りで治療する――か。いいじゃねえか！」

「うわわわわ!?」

男が月英の頭を暴にでその名に納得顔をすれば、他の者達も頷き承諾を表わす。

「ま！　共に進していこうや、月英」

月英は顔を上げ笑った。

◆◆◆

「あ、そういえば……名を」

「ああ？　そりゃ名くらい知ってるだろ。……一応……同じ醫なんだからよ」

男は照れくさそうに頬を掻きながらそっぽを向く。そんな男を、周囲の醫達がヤンヤヤンヤと囃し立てている。

「いや……君の名を」

「俺のかよっ!?」

先程までの可らしい態度はどこへやら、男はびと共に海老の如くのけ反った。周囲は笑している。

仕方ない。だってあれだけ自分を嫌っていて、覚えるつもりはないとまで言っていたのに、まさか知っているとは思わないだろう。

思わず月英も周囲につられ笑みがれそうになる。だが、今笑ったら明らかに怒られそうなので、伏せた顔の下でかに笑う事にする。

男はまるで宣戦布告のように、肩を震わせながらビッと月英を指さした。

「豪《ごう》亮《りょう》だよ！　ご・う・りょ・う！　覚えとけよ！」

「ははは、負け犬の遠吠えみたいな臺詞だね」

「キシャアアアア！」

結局怒られた。

月英は周囲の醫達と一緒になって笑った。腹から笑うことがこんなに気持ちいいことだとは知らなかった。