その日、外朝にある『先《せん》華《か》門《もん》』は異質な空気で満ちていた。

先華門は宮廷外部の者との謁見《えっけん》や、屬國の特使《とくし》を迎える為に使われる前《ぜん》殿《でん》である。いつもなら特使が來ようとこれ程気を張るような事はないのだが、その日だけは違った。前殿に集められたのは朝廷吏と皇帝、そして《《その男》》だけ。

その男とは、異國へ渡って帰ってきた者であった。

男は、先華門の地面に額《ひたい》をりつけるようにして皇帝と対面していた。父親である皇帝の側で燕明もその景を見ていた。

『――さて、お前は西國へ渡ったと聞くが……』

皇帝の聲は地鳴りのように低く、殿の柱を震わせるほどの太さだった。集まっていた者達は柱の一部になったかの様に、息を殺し直立不になる。その矛先が間違っても自分に向かぬようにと無機に徹していた。

『分かっておるな。我が國は出る事も《い》らす事も許しておらぬと』

皇帝である父は苛烈《かれつ》な人だった。

代々続いてきた異國排斥に特に力をれ、人民の行制限だけでなく、萬華國の囲いを理的にもより強固なものにした。今までもかに國を抜ける者やってくる者も居た。しかしそれを取り締まるのは不文律《ふぶんりつ》でしかなく、表立ってやらなければという曖昧な空気があった。しかし父親が皇帝の座についてからは、その不文律は法としてすっかり定著してしまった。明確な規律を全國に布令し厳格な罰則も加えた。

それからは捕まる者が増えた。ただそれはいつも、未遂で終わった者達や出た瞬間に捕らえられた者達ばかりで、異國に行って再び帰ってきた者など居なかった。

今までは――。

それが今、前殿で額《ひたい》を石床にりつけている男によって破られた。

燕明は、眼下に伏す男が何をしてこの場に呼ばれているのか知らなかった。燕明はその時、偶然に父親の仕事を見る為に後宮百華園(ひゃっかえん)から出てきていただけだった。

意味の分からない話を聞くのにも飽き飽きしていた頃、もぞりと男の伏せたの下でなにかがいたのに気付いた。

燕明はトトトと男に近寄った。すれば、男のが驚きに浮き上がった瞬間、腕に抱かれている者が見えた。

『赤子だ……！』

男の腕の中には一歳にならないほどの赤子が抱かれていた。

『の子？』と燕明が聞けば、男は頷いた。

閉じた瞼を縁取る漆黒の睫は、白の顔でとても際だって見えた。下瞼に落ちた睫の影は水墨畫の様に淡く、繊細な絵畫のようだった。

それだけでも驚いたのに、その赤子が目を開けると燕明は更に驚く事となった。

『――っえ』

赤子の瞳は見た事もないをしていた。

生まれてこの方、瞳は黒だと思っていた。自分も父も、勿論周りの達も、この目の前の男も皆、黒だ。しかし男の腕の中の赤子だけは、藍《あい》を水に流したようなき通った――「碧《あお》」だった。

燕明は嘆をらした。

『すごい！　この子の目すごい綺麗な、あ――』

『殿下』

しかし、その嘆は男の靜かな聲によって圧《お》し殺された。

男は伏せた顔の下から燕明を睨んでいた。まるで「それ以上喋ったら殺す」とでもいうような兇暴な威圧。

『――っ!?』

思わず燕明も押し黙る。男は再び赤子を腕の中にしっかりと隠したが、目ざとく皇帝は男の腕の中の者に気付いた。

『ん、赤子か？　その赤子はお前の子か』

『國を出ている間に妻が産んだ子です。先日、その妻も亡くなり私がこうして一人で育てているのでございます』

『ほう……して、燕明。先程聲を上げたが、その赤子の目がどうしたのだ？』

燕明は向けられた矛先に、肩を跳ねさせた。

『ぁ……い、いえ。その……綺麗な……その……』

『綺麗な黒玻璃(がらす)のような瞳でございましょう。赤子の瞳というのは、まだこの世の善悪も知らぬ、何にも染まらぬ澄んだもの。殿下は赤子を見る機會がのうございましょうから、驚いたのでございますね』

向けられた男の顔は笑顔だというのに、燕明には殺意を向けられているようにしか思えなかった。

燕明は頷くしかなかった。

『そ、そうです。あまりに綺麗な黒……だったので……つい』

皇帝は『そうか』とだけ言うと、もう赤子にも燕明にも興味をなくしたようだった。

この時燕明は、男がなぜ「碧」を「黒」と言ったのか不思議だった。しかし、それはすぐに判明した。

皇帝の隣に堂々として立っていた蔡京玿が、聲高らかに男に判決を言い渡した。本來ならば大理寺の裁判が行われての判決となるはずが、この時ばかりは違った。い燕明にはその違いは分からなかったが、今思うと、早く男の存在を消そうとするような、そんな思があったのかもしれない。

『――それでは申し渡す。お前は勝手な己がで國の法を破り異國を訪ね、あまつさえその文化を持ち込もうとした。これは大罪である。よって、お前には斬首を言い渡す』

燕明は息を飲んだ。

しかし、男は平然としていた。

『謹んで我が罪を贖《あがな》います。しかし、この子は萬華の民の間に生まれ、萬華で育った子。一片の罪も犯しておりませぬ。どうか、この子の連座《れんざ》だけはお許しください』

平然として噓を吐いていた。あの目のは萬華《ばんか》の民《たみ》同士の間からは生まれない。

皇帝は男のその言葉をけ取り、男が赤子を誰かに託す事を許した。

『法を強固とするための人柱となれ、英《ようこうえい》』

そう言って笑った父親の顔と、男が赤子をに掻き抱く姿が忘れられなかった。

皇帝が言った通り、男の処斷は広く民に周知され、以降、萬華國の囲いが綻ぶことはなかった。誰もが皇帝の牙が自分に向けられることを恐れた。それは各部省の長でも、祥府から遠く離れた田舎の老婦人でも一緒だった。

萬華國から完全に萬華國以外が消えた日だった。

◆◆◆

「あそこでもし、俺が赤子の瞳のを馬鹿正直に言っていたら、その赤子の命も亡かっただろうな」

膝の間で組まれた燕明の手が、後悔するかのように甲に爪を立てる。

「なぜ、たった異國に行ったくらいで死なねばならんのだろうな。法といっても、あの父親も赤子も、誰に害をなしたわけでもないというのに」

燕明の隣で、月英がヒュッと息を止める音がした。

「ん、月英？　――っどうした月英!?」

燕明が隣を見れば、月英はを小さくし、カタカタと震えていた。口を覆った両手は指先まで震えており、その白さも相まって完全に病人のそれにしか見えなかった。

「合でも悪いのか!?　寒いのか!?」

慌てた燕明は月英の肩を抱き、腕の中に引き寄せその肩や背をでる。しかしそれでも月英の震えが止まることはなかった。

「……ぃ……」

蚊の鳴くような聲で月英が何かを発した。

「どうした。大丈夫だ、言ってみろ」

「その……亡くなった人の、名を……もう、一度……」

「英という名の男だが……」

何故そんなことを気にするのかと不思議に思いつつ答えれば、月英は再び息を詰まらせた。しかも今度はそこに嗚咽が混じっていた。

「……っぁ……うぁ……っ」

――ああ……今、殘りの約束の意味が分かったよ。

月英の小さな手が燕明の上を握りしめていた。何かに耐えるように握り絞められた手は震え、上を引っ張る力が強くなるほど月英の顔は俯き、そして嗚咽が大きくなっていった。を絞めるように聲を我慢して泣く姿が痛々しかった。

「――ッあ……ぅうぅうッ……ぅあぁ……っ」

姓を言っては駄目だったのは、その姓は罪人の落胤とされるからだ。そしてその罪人――父はもう……この世には……。

信じたくない真実が突如押し寄せる現実に月英の心は掻きされ、我慢など何の意味もなさず、現実を拒絶するような哀咽は口からも鼻からも目からも、全かられ出た。

燕明は靜かに、その噛み締めるような嗚咽が止まるのを待った。腕の中で震える月英をただひたすら抱き締め、その背をさすってやった。こんな時でさえこの小さなが、震える華奢な肩が、いじらしく聲をおし殺し泣く様が「おしい」と思ってしまう自分に、燕明はかに自嘲した。

しは落ち著いたのか、鼻をすするスンスンとした音だけになれば、燕明はそっと月英をから離しその顔を覗き込んだ。頬を強くったのか赤くなっていた。恐らく隠れている目元も、似たようなをしているのだろう。

「もう大丈夫か、月英。一どうしたんだ、急に」

月英は頭を振って何でもないと示す。しかし、何でもないわけがなかった。恬淡として喜怒哀楽をはっきりと表現することのない月英が、聲を上げて泣いたのだ。しかもに縋って。

月英は濡れた頬をそのままに、ただ俯いていた。

「……なあ、涙を拭ってもいいか？」

月英の濡れた頬を燕明の手が優しく包み、そっと顔を上向かせる。月英は抵抗らしい抵抗もしなかった。

ふと燕明の脳裏に藩季の揶揄いの聲が蘇った。

『不男』――思わず燕明の口角が下がる。

しかし燕明は小さく口の中でだけで嘆息し、この際藩季に揶揄われることも甘んじてけれよう、と観念した。――もうこのは仕方のないものだ、と。

「月英、俺が居る。だからどんな事でも話してくれ」

「――本當に……」

そこで漸く月英は口を開いた。

「本當に、どんな事でも話して良いんですか」

――子順父さん、ごめんなさい。

「ああ。どんな事でも俺はお前をけれる。お前が悲しむなら、その悲しみを取り去ってやる。お前が笑うなら、萬の花で國をも満たしてやる。だから……一人で泣くな」

こうやって時の権力者は、寵妃に現《うつつ》を抜かして國を傾けていくのだろうな、とどこか他人事のように燕明は自分の臺詞に自嘲した。

すると月英の手が頬を包んでいた燕明の手に重なり、ゆっくりと燕明のその手を離した。一瞬拒否されたのかと思って燕明の心が冷えた。しかし、直後にとった月英の行によって、燕明の心どころか二人を包んでいた溫かな空気でさえ、全てが凍り付いた。

「……それ……は」

けないことに燕明はその言葉しか咄嗟《とっさ》に出てこなかった。

心臓は早鐘を打つように煩くを叩いているのに、顔からはの気が引いていくのが分かった。安堵と張、悲嘆と喜悅。最早燕明には、自分がどんな顔をして月英を見ているのか分からなかった。

頑なに隠されていた目元が、月英の手によってわになっていた。

「殿下。こんな瞳のをした僕でも、けれてくれますか」

――僕はあなたとの約束を破ってしまいました。

分厚い前髪の下から出てきた瞳のは、黒ではなかった。

「僕の本當の父の名は、英です」

瞠目《どうもく》する燕明を映すその瞳のは、藍《あい》を水に流したようなしい『碧《あお》』だった。