《【書籍化】碧玉の男裝香療師は、ふしぎな癒やしで宮廷醫になりました。(web版)》4-2
月英は、土床に敷いた筵《むしろ》からを起こすと両腕を低い天井に向け、一杯一杯にばした。
「さて、支度しよ」
いつもの竹籠を布で包み背負うと、月英は家を出た。
相変わらず月英は、下民區の家から萬華宮へ通っていた。職場へと向かう通勤路は、月英の格好の刈り場でもあり、貴重な時間だった。
「ちょうどいいや。あ、こっちのも――って、うひょぅ! もう咲いてたんだコレ!」
道端にはえていた植を引っこ抜き、腰の袋へと次々にれていく。
フラフラと右へ左へと道をうろついては時折奇聲を上げる月英は、端から見ると完全に不審者である。
すると、あちこちへ視線を巡らせていれば、道端に植ではないものが落ちていた。
「え……ええぇ!? 大丈夫ですかお爺さん!」
道端に落ちていたのは、白い頭の老人だった。まさか加列《カモミール》と一緒に老人も拾う事になるとは。世の中何が起きるか分からないものだ。
慌てて助け起こし老人の顔を覗き込めば、彼は口をへの字にして難しい顔をしていた。著ているからして上級民だ。そんな人がなぜ道端で倒れているのか。
「お爺さん、大丈夫ですか! お爺さん!」
「……そんな耳元で騒ぐな。起きている。し足を引っ掛けただけだ」
「いや、噓が下手」
転んだままずっと五投地する奴が居るものか。
「どこか……胃でも痛いんですか?」
老人はずっと手で鳩尾《みぞおち》を押さえていた。
すると、ようやく老人はまともに月英に目を向けた。そして一瞬驚いたように眉を微させると、月英を上から下まで眺め回す。
「お前、太醫院の醫か」
「ええ、まあ」
確かに月英の著ているは太醫院の醫服だ。宮廷で著替えるわけにもいかず、毎日醫服で通っている。しかし、これがそうだと一目で分かると言う事は――
「まさか、お爺さんも萬華宮の吏なんですか?」
またも老人は眉を微させた。
「お前、私を……いや、何でもない」
老人はまだも月英をじいと眺め回す。
「……その顔半分までの前髪に醫……もしや、噂の変わったを使う奴か?」
「変わったって……香療って言うんですけどね。まあ、多分その噂は僕ですよ」
外朝の吏の間では、一どんな噂になっているのか。取り敢えず特徴として前髪に言及されていることは分かった。目立たぬようにと思っていたが、この前髪でも目立つのか、と月英は複雑な心境になる。
老人は膝に手を乗せゆっくりと腰を上げた。立ち上がると存外に背が高く、月英は見上げなければならなくなる。
「え、大丈夫ですか。もうし休んでないで」
「大したことはない。いつもの胃痛だ。お前の上司の呈太醫からもお墨付きはもらっている」
確かにその足取りは思ったよりしっかりとしており、無事を確認すると並んで月英も歩き出した。
「馬車を使われないんですか? 家族に伝えなくても?」
「家も近いし、家族は……居なくなった。そして馬車は腰にくるから好かん。なにより、そんな急いで宮廷に行きたくない」
「そんな非行年のような……」
「男はいつまででも年だ」
確かに眉間に寄った不機嫌そうな皺と、口の上の短く刈り揃えられた白髭が、老人をやや野的な雰囲気に見せていた。案外非行年というのも似合っている。
気が付くと、老人は下がり目を細めて、じいっと月英を見下ろしていた。
「お前、殿下に任されたらしいな」
「臨時任らしいですね。まあ僕は下民なんで、正規の方法じゃ元よりれませんし」
「下民だと!?」
吃驚の聲を上げた老人に、月英はしまったかな、と口を押さえる。てっきり下民だと、とうに噂で広まっているとばかり思っていた。
「はは……まあ、縁あってこうして働かせて貰ってます」
「融和策についてどう思う」
唐突な話題転換に、月英は一瞬何を聞かれているのか分からなかった。すると、ほけっとしている月英に、再度老人の厳しい視線が向けられる。
「醫でも宮廷に居れば話くらい聞くだろう。融和策だ、融和策」
「え、あ、あぁ……異國融和策ですか。えっと、僕は政治には疎いんですが……」
「そんな事分かっている」
月英は苦笑した。まあ、下民にまともな意見など期待していないのは分かる。
「融和策は是非葉えてしいですね。それをしたらどうなる、とか的なことは分かりませんが、この息が詰まるような世界を変えるきっかけにはなるな、って思いますね」
「息が詰まるのか? 今のこの國は民や文化を守る為、歴代の皇帝が築き上げた結果だが」
憤りが老人の語尾の強さに現れていた。しかし月英は構わず喋り続ける。
「僕はその歴代皇帝の名前も知りません。まず教養がないですし。そんな程度なのに、皇帝の意思なんて僕達下々には分かりませんよ。どんな結果だろうと、僕達にそれを拒む権利もない。しかも嫌だからって國を出る事も出來ない。そりゃあ息苦しくなると思いません?」
老人は答えなかった。ただ、二人並んで見えてきた萬華宮の城門をくぐる。
「あ、そうだ」
月英は別れる前に、と背負っていた竹籠から油瓶を取り出した。そして手持ちの手巾に油を數滴染み込ませ老人に差し出した。
「松明花《ベルガモット》と加列《カモミール》の油を混ぜ合わせたものです。胃痛に効きますよ」
「べ、べる……かも…………何だそれは」
老人は訝しげに月英と手巾を互に眺める。途中で油名を言う事を諦めた老人に、月英は手の下で忍び笑う。
「噂の妙なですよ」
目を瞬かせて、頭に疑問符を浮かべる強面の老人の姿には、々らしいものがあった。月英はふふと微笑むと、腰の袋から今朝採ったばかりの花を見せた。
「松明花《ベルガモット》は柑橘の一種で鎮痙や抗炎癥作用があって、加列《カモミール》ってのはこの花の事で、鎮痛作用があるんです」
可憐な白い花を一本、老人の手に乗せてやる。
「呈太醫に診て貰っているなら大丈夫でしょうけど、こうして急に痛くなった時には、その香りをしだけ嗅いでみてください。痛みを和らげてくれますから」
老人は恐る恐る手巾に鼻を近づけていた。が、次の瞬間「お!」という顔つきになった。どうやら気にってくれたらしい。
すると、宮廷の方から月英を呼ぶ聲が飛んできた。
「げーつえーいちゃ~ん! 今出勤~?」
聲のする方を振り向けば――いや、振り向かなくてもその獨特な呼び方で分かっていたが――、劉丹《りゅうたん》が手を振りながら駆け寄ってきていた。
「劉丹殿……変な抑揚をつけて呼ばないで下さい」
しかし月英の隣に立つ人を見た瞬間、劉丹の駆け寄る足はピタリと止まった。
「……おはようございます、蔡侍中」
拱手《きょうしゅ》して老人に禮をとる劉丹に、月英は慌てて老人を振り返った。
「え……あ、の……門下省侍中の……」
老人は肯定を目の瞬きで表わした。
途端に月英の脳に、豪亮との會話が高速で蘇る。
蔡侍中――燕明の融和策に反対し、その他の朝廷吏達を黙らせるほどの力を持つ者。
今まで自分が誰と會話していたか知り、月英はどっと背中に汗が滲んだ。その地位を恐れ多くじたわけではない。燕明に不利になるような事を、何か口走ってやしないかと不安に駆られての汗だった。
口を『あ』の形に開いたまま聲を出せないでいれば、蔡京玿はふと目を細めて口角を仄かにつり上げた。目に出來た皺が強面の中に、どことなく人懐こさを滲ませている。
――あれ?
「コレは有り難くけ取っておく。それではな」
蔡京玿は月英が渡した手巾を軽く振って見せると、悠々とした足取りで外朝の方へ立ち去った。
月英は小さくなる背を暫く見送っていた。
◆◆◆
「月英ちゃん、蔡侍中と繋がりあったけ」
あの後、劉丹は太醫院の房まで一緒についてきて、今もこうして太醫院に居座っていた。
「それより劉丹殿、お仕事は良いんですか? 禮部ってそんなに暇なんですか」
「上の方は、もうすぐの宮祀儀禮《ぐうしぎれい》の準備に駆け回ってるみたいだけど。ほら僕って要領良いからさぁ」
なるほど。つまりはサボりというわけか。
「それで朝からここに來るって事は、何か用事があったんでしょう? 今日はどこが悪いんですか。腰ですか。肩ですか。腕ですか。頭ですか」
「うん。最後のはただの馬鹿だよね」
手元の作業を止めずに一応の問診を行う月英に、「今日もキレッキレだね」と笑う劉丹。
「馬鹿に付ける薬はないのでお引き取りくださーい」
「上手い事言う~フー!」
中々の暴言だと自覚はあるが、劉丹にはまるで暖簾に腕押し糠に釘で、彼は両人差し指を月英に向け楽しそうにあははと笑うばかりだった。
最初の頃はハラハラして聞いていた醫達も、今では慣れたものと二人のやり取りを気にも留めない。皆、劉丹の事は心の中で「月英に懸想する男その五」くらいにしか思っていないし、元々月英は皇太子を剝こうとする猛者であり、吏に多の無禮を働いていたとて、最早誰も驚かなくなっていた。
「今日は別に治療をお願いしに來たわけじゃないんだ」
「だったら、本當に何の用で?」
さすがに、一日ここでサボらせてくれというのは困る。月英が難を表わせば、劉丹はふと薄く笑む。
――ああ、やっぱり。
すると劉丹は、「用事さえ済ませたらすぐに仕事に戻るから安心してよ」と、月英の難を理由を當ててみせる。
「前に約束したでしょ。無花果《いちぢく》の油を見せてくれるって」
そういえばそんな事を言った様な気もするが、わざわざ本當に見に來るとは思わず、々月英は意外に思った。
「好奇心旺盛ですね。ちょっと待って貰って良いですか? この作業だけ終わらせたいんで」
そう言う月英の手元には、四角の玻璃板《がらすいた》が置かれていた。玻璃板には漆喰《しっくい》のようなものが塗られ、その上に緑の葉が綺麗に並んでいる。
「これなに?」
「これは茉莉花《ジャスミン》の油を作ってるところです」
劉丹は「えっ」と驚きの聲を上げた。
「油ってだったよね。これ、どう見ても漆喰に花びら並べただけでしょ」
「白いのは漆喰じゃなくて豚の獣脂ですよ」
「豚脂使うの!? えぇ~なんか臭そうなじがするんだけど」
鼻を摘まんで顔を顰め素直な反応をする劉丹に、思わず月英も笑ってしまう。
「臭くありませんよ。製した油なんで」
豚脂はいつも食膳処《しょくぜんしょ》から分けて貰っている。
以前、調理中に火傷した料理人に薫草《ラベンダー》の油を使って治療したところ、「いつもより早く治って助かった」とめっぽう喜ばれ、それから良くして貰っていた。
豚脂の製方法は案外簡単で、脂を水から煮て、都度灰を取りながらが脂と分離するのを待つ。分離したら巾で何度か漉し、出來上がったを冷やせば製された豚脂の出來上がりだ。もちろん、この冷やす時も食膳処の氷室《ひむろ》を使わせて貰っている。この季節なら常溫でも固まるのだが、なんといっても氷室の方が早く出來上がるから、本當ありがたい。
「その脂を玻璃板に塗って、その上にこうして花びらを重ならないように丁寧に並べます。あとは毎日花びらを新しいのに取り替える作業を數日続ければ、脂に花の香りが移って、練香の完です」
「練香って膏みたいなものでしょ? どうやってそこから油になるの」
「高濃度のお酒と混ぜて、あとは蒸留すれば油が取れるんですよ。冷浸法《れいしんほう》っていう、れっきとした製法です」
このお酒も食膳処提供だ。もう食膳処には足を向けて寢られない。
劉丹は目を爛々とさせ、「へえ」と心の聲をらしていた。
「本當、君と話してるとんな事が知れて楽しいねえ」
「この世は広いですからね。知らない事なんて沢山ですよ」
「確かにね。北の出だから南端の雲《うんよう》州とかは遠すぎて、行った事ないや」
「…………」
月英の言う『世』というのと、劉丹――この萬華國の者達が思う世とでは、大きな隔たりがあった。生まれた時から西國の文化を知り、そのの半分に西國のを流す月英と、自國の人間や文化しか知らない者とでは、違って當たり前ではあるが。
その違いをあえてそれを訂正する気もない。
黙々と月英は茉莉花《ジャスミン》の白い花弁を並べていく。
暫くは劉丹も靜かにその作業を見守っていたが、飽きたのか「ねえ」と聲を掛けてきた。
「なんですか」
「蔡侍中と繋がりなんてあったの」
さっきも同じ様なことを聞かれた気がする。何故そんなに気になるのか。
「偶々《たまたま》ですよ。劉丹殿が名を呼ぶまで、僕は蔡侍中だなんて気付いてなかったんですから」
溜息ついでに答えれば、劉丹は「そう」と言って淺く息を吐いていた。
「……劉丹殿って、蔡侍中とどことなく似てますよね」
「唐突だねえ。僕あんなに強面じゃないんだけど。どこが似てるの?」
確かに纏う雰囲気は対照的だ。だが、ふとした瞬間――目元を緩めた時など似ているなと思った。
「笑った時の目元とかですかね」
「笑ったら大、人間皆同じ目元になると思うけどね」
「確かに。それもそうですね」
蔡京玿を見た後に劉丹を見て、偶々そう思ってしまったのだろう。
「それより無花果《いちぢく》のはまだぁ?」
まるで駄々をこねる子供のように、機に顎をのせむくれっ面を向ける劉丹に、月英は「無花果の葉ですって」と苦笑しつつも、てきぱきと手元の作業を終わらせた。
「これが無花果葉《フィグ》の油ですよ」
後ろにあった賽《さい》の目に仕切られた扉付き薬棚から、油瓶を持ってきて目の前に置いた。
その棚は、醫達が元々あった薬棚に扉を付け作ってくれた油専用のもの。宮廷に香療が広がるにつれ、油の種類も増え月英の手元で保管するのが難しくなった為、醫達が作ってくれた代だ。扉の一つ一つに油の名が記してある。
『書かなくても匂いで分かるでしょ?』
『分かるのはお前だけ。柑の種類だけで何個あんだよ』
『えっと、柑《オレンジ》に橙《ビターオレンジ》、葉橙《プチグレン》、花橙《ネロリ》に――』
指折り數えていけば、豪亮が「あーあー」と面倒くさそうに手を振って遮る。
『無理無理。取り敢えず書いとけ。書けば俺達でも分かるからよ』
『ほーい』
確かに逐一蓋を開けて匂いを確認せずとも、これならすぐに見て分かる。
『つーか今まで匂いで判別してたのかよ。どうなってんだその鼻?』
『これくらいしか取り柄ないからね』
『十分だっつの』
そんな流れで作られた油棚。
油が日のに弱いと知るや、わざわざ手作りで扉を付けてくれたのには驚いた。しかし、そんな醫達の優しさで出來た棚も、あと一月でお別れだ。
――僕が居なくなっても、この棚があれば皆も使えるだろうし良かった。
自分が居なくとも香療が醫達の手で広がれば、いつかは國中に広まるだろう。
「月英ちゃん、どうしたの?」
「いえ、何でもありません。――で、早速匂いを試してみてください」
油瓶の蓋を開ければ、青々しさの奧に優しい甘さを含んだ香りが立ち上る。
「以前も言いましたけど、これはに付かないよう気をつけて下さいね」
瓶の口を劉丹に向ければ、彼は鼻をスンスンとさせ頬をらかくした。
「ああ、確かにこれは良い香りだね! 甘すぎず、かと言って布みたいに爽やかすぎない。そうだなぁ……表現するなら『誰もいない靜かな森の木で會いましょう』ってじの匂いだね!」
思わぬ劉丹の灑落た表現に、月英は一瞬きょとんとする。
まさか、何も考えず呑気に生きてますを現したような人から、詩的な表現が飛び出すとは思わず、その差異《ギャップ》に腹の底から笑いが込み上げ、次の瞬間には噴き出していた。
「あははははっ! 何ですかそれ、詩人になれますよ」
「え、本當。僕もあの『五詩仙《ごしせん》』に數えられるようになるかな!」
「殘念ながら五詩仙はもう五人居るので無理ですね」
「煽っておいてすぐぶち落とす~。月英ちゃん容赦なさすぎぃ」
口先を尖らせブーブーと抗議する劉丹。
「大何ですか、『會いましょう』って。誰か會いたい人でも居るんですか」
「――いるよ」
月英は冗談で言ったつもりだったが、劉丹からは思わぬ聲音が返ってきた。先程まで冗談めかしていたのが、返ってきたのは真面目な、どこか寂しさを含んだ響きの聲。
「いるよ。もう會えないけどさ」
何と言って良いか分からなかった。
「亡くなった母なんだけどね……ずっと父親を待ってたな。最期は僕と父親の區別もつかなくなって、ずっと一緒に居た僕より、僕達を金で捨てた父親の名を呼んでたよ」
「本當、酷い話だよ」と、その口元は笑っていたが、目に宿るは懐かしさと悲しさが同居していた。
「母はその昔、ここ祥府でも名があがるくらいのだったんだと。気立ても良くてらかくて……。けど、僕が覚えてる母は、干からびた枝のようにくて、いつも寂しそうな顔をしてた。それでも僕にとっての唯一人の親だから……本當父親が憎くて仕方ないよ」
憎いと言いつつもその語気は、憤懣やる方なしというより、悲哀のに染まって聞こえた。
「――僕にも、もう會えない大切な人達がいます」
一瞬、劉丹は目を點にしたが、「そっか」とだけ言うと瞼を閉じ沈黙した。
「ちょっと月英、こっちも手伝ってくれー!」
隣の房から醫が月英を手招きして呼んでいた。
「え、あ、でも……」
劉丹を気にする素振りを見せれば、彼は「行っておいで」と言った。
「もうしだけこの香りを堪能したら、自分で片付けておくよ」
「そうですか? じゃあ、ちょっとすみません」
「うん、大丈夫。文字くらい僕も読めるって。ちゃんと棚に返しておくから」
棚の扉には『無花果葉』と書いてあるし大丈夫だろう。
「それじゃあ劉丹殿、すみませんがよろしくお願いします」
「はーい」
いつも通りのにこやかな笑みで、劉丹は月英を見送った。
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