《【書籍化】碧玉の男裝香療師は、ふしぎな癒やしで宮廷醫になりました。(web版)》5-4
藩季は蔡京玿のを支え、牀《ベッド》に座らせた。冷たい床でずっと足を畳んでいたのだろう、立つのもやっとというじだった。
「そうしてると、本當にただの老人のようなんだがな」
しかしこの立派に頭を白く染めている者が、そんな生易しい相手でないことを、燕明は十分すぎる程に知っている。
「殿下にとっては、このままその老人をお見捨てなった方が、良かったのかもしれませんよ」
ふと片口だけ上げる、その見慣れた笑いが昔より控え目だったのは、燕明に対して々と思うところがあったからなのだろう。
「言っただろう。そんなずるい事はせんと。正々堂々、お前に融和策を認めさて玉座につくさ」
「さて、こんな狀況でどの様に認めさせて頂けるのか。それはそれは楽しみですね」
「こんな狀況でも相変わらずとは、さすがに先帝の右腕は違うな」
燕明の方が、蔡京玿の余裕に見えるその皮った態度に、目の下を引きつらせた。
「だがな、殘念な事に融和策を認めさせるのは俺の役目じゃない」
「ほう、あなた以上に融和策を推す者がいると?」
コツコツとい音が、鉄格子の向こう――地上にびる石段から聞こえる。
「ああ。俺よりも――いや、この國の誰よりも融和策を求めている者がいる」
その音は次第に燕明達の方へと近付いてきていた。
「……一、誰が」
音が燕明達の居る鉄格子の前で止まった。
「求め、そして……必要としている者だ」
言いながら燕明が振り向いた先、そこには月英と劉丹が立っていた。
「お、お前は太醫院の醫と……そっちは確か、禮部の……」
薄暗い石造りの部屋の中で、蔡京玿と劉丹は邂逅した。
蔡京玿は意味が分からないと目を丸くし、劉丹は不服そうな顔で視線を逸らす。
「どういう事でしょうか、殿下? なぜこのような者達がここに」
「この禮部の吏が、今回の騒ぎの張本人だ」
「な――っ!」
驚きに聲を失った蔡京玿が、劉丹に厳しい目を向ける。
「どうして……っ、私に何の恨みがあってこんな事をした!」
激昂に聲を荒げる蔡京玿に、劉丹は背けていた顔をゆっくりと向けた。その瞳には険がが宿っている。
「どう……して、だと?」
劉丹のがクツクツと鳴る。
「そりゃ分かるわけないよな……こうして正面から僕の顔を見ても、全く気付かないくらいだもんなあっ!」
蔡京玿の怒聲に負けない程のがなり聲に、鉄格子がイィィンと音を反芻する。今にも飛び掛かりそうな勢いに、つい月英も劉丹の腰に手をばしていた。
しかし、劉丹は飛び出さなかった。それどころか、鉄格子に背を預けるとずるずると麓にをつき足の間で項垂れた。
「い、言っている事の意味が……よく、分からないんだが」
先程までの怒りはとうに消火してしまったのか、蔡京玿の聲も元に戻る。ただその聲は依然として混に震えてはいるが。
「俺も月英から聞かされなかったら、蔡侍中を犯人と思っていたままだったわ。『まさか蔡侍中がここまでするとは。それ程までに俺を邪魔と思っていたのか』――とな」
「では、私の無実を言っていたのは、もしや月醫……」
「謝するんだな、蔡侍中。俺じゃなく月英に」
◆◆◆
月英が『蔡侍中は犯人じゃない』と言った後――
『待て……蔡侍中じゃないなら一……それに真実とは何の事だ』
月英に向かって「待て」と片手を付き出し、もう一方の片手で燕明はぐしゃりと前髪をす。整えられた絹糸の黒髪が、指の間で何重ものになっている。混する心を表わす見事なれ合だ。
『まず先に謝ります。すみません』
『何をお前が謝る必要が?』
『清水に混ぜられたのは、僕の油でした』
燕明と藩季は異口同音に『は?』と聲をらした。その目は限界まで見開いている。
『――っ待て待て! その言い方だと、お前の意思ではないんだよな! な!?』
『そ、そうですよね! 月英殿自らの意思で、燕明様を害するのを知ってて犯人に渡した、とかではないんですよね!?』
燕明は半泣き狀態で瞳を潤ませ、いつもなら間髪れずにその姿を揶揄う藩季でさえも、揺で両手をあわあわとさせる。さすがに好いたにかに害されたとあっては、泣きたくもなるだろう。考えただけで不憫すぎる展開に、藩季も本気で燕明の擁護に回っていた。
てんやわんやの二人を月英が『そうですよ』と軽く肯定すれば、二人は安堵に息をついた。
『良かった……本気で泣きそうだった』とぼそりと燕明が獨り言をらす。その言葉は側に居た藩季にだけ聞こえ、同じく小聲で『気持ち悪』と呟いては燕明に睨まれていた。
燕明は再度頭を引っ掻き回すと、強めの聲で『で!』と切り替えた。
『蔡侍中が犯人じゃないなら誰が犯人なんだ? それにどうしてお前がそれを知っている』
『偶然ですけどね――』と前置きして、月英は語り始めた。
呈太醫から渡された燕明の著の香りから、使われたのが自分の油――「葉無花果」であると知った事。その油には「毒」という他より強烈な毒がある事。
そしてその香りを當日、月英は燕明でも水鏡でもなく、全く別の人から香っているのに気付いた事。
『じゃあ、その者が犯人という事ですか!』
『その者は一誰だ、月英!』
月英は開きかけた口を一度結んだ。
言ってしまえば彼が罰せられる。しかしだからといって、無実の者が裁かれるのを見過ごす事も出來なかった。
結果、月英はその後の判斷を燕明に委ねることにした。
『禮部の劉丹という吏で……恐らく彼は、蔡侍中の息子です』
本日何度目だろうか。最早二人は驚きすぎて聲さえも出てこない。
『――っそんな馬鹿な! 蔡侍中が結婚していたなど、ましてや子が居たなど聞いた事もない! 蔡家からも、子が吏になるなどの報せは來てない!』
『いえ確かに蔡侍中には家族が居ました。以前僕は彼にその事を聞いたんですが、彼は「家族は居なくなった」と答えました』
『居なくなった――ですと、確かに「居た」事にはなりますね』
月英が頷く。
『でもそれがどうして、その劉丹が蔡侍中の息子になるんだ? 妻だけだったかもしれないのに』
『単純に、僕が「劉丹殿が犯人」っていう答えから導き出した道筋でしかありませんが、一理あると思いますよ。蔡侍中と劉丹殿の笑った顔に面影がありましたし、劉丹殿の蔡侍中を妙に気にした言もありましたからね』
『待て……蔡侍中が笑う? 噓だろ』
『あの方の笑みに、「皮」以外の種類があったんですね』
『どこを気にしてるんですか。全く……』
城門で蔡侍中と話しているのを見られた後、妙に蔡京玿との関係を気にしていた。あの時は何も思わなかったが、こうして考えると蔡京玿との関係を聞いてきたのも、葉無花果の油を見たいとせがんだのも、醫である自分に近付いたのだって、もしや最初から……と思わざるを得ない。
『それで、蔡侍中と古くからの付き合いという孫二尚書に、蔡侍中に子はいたのか聞きに行きました』
『それで……』
ごくりと燕明のが上下する。
『二十數年前に、との間に――そして、劉丹殿の母も祥府の有名なだったと』
『もしそれが真実だとして、理由が分かりませんよ。自分の父を陥れるなどと』
月英は劉丹が父である蔡京玿に抱いているは伏せた。それは彼の口から語られるべき事だろうと思ったから。
燕明が髪を結っていた紐を解くと、藩季が手早く結い直した。
『さて、それじゃあ確証を得に行かないとな』
こうして月英達は花街を訪ねることとなった。
◆◆◆
「蔡侍中、子の名は「丹《たん》」で間違いないか」
蔡京玿は名を聞いた瞬間、瞠目して顔に両手を這わせた。
「……本當にそこの吏が……そうか、劉、丹……そうか……」
「丹という名などこの國には山程居るからな。姿も二十年以上も経てば気付かなくて無理はない」
蔡京玿は覆った手の下で、昂ぶるを抑えつけるように、深く大きく息を吸っては吐いていた。
「――姓は、與えてやれなかった。蔡家の姓を與えれば、その子に苦しみを負わせてしまう」
そこには名家ならではの柵《しがらみ》でもあるのだろう。月英には想像も出來ないことだが。
「ハッ、単に自分の子としたくなかったんだろう? 名家の上級吏様は、なんかって思ってたんだろう? だから金だけ渡して、とっとと厄介払いしたかったんだろ!?」
俯いていた劉丹が聲緒を張り上げた。その口ぶりは、もはや上級吏に対するものではない。
「待て、そんな事はないっ!」
「信じられるかよ! あんた言ったよなあ!? 妾も子も居ないって! 俺達の存在を無かったものとして、否定したよなあ!」
「ち、違う!? それは単に――!」
「あの時――清水を貰いに行った時、初めて真正面から顔を合せたよな。それで、もしかして僕の顔を見て気付いてくれるかなって……そうしたら……僕達母子を捨てた事も、許せるかなって……っ」
劉丹の聲は次第に怒聲から、り気を帯びた悲嘆に変わっていった。
蔡京玿が腰を浮かせ何度も違うと言おうとも、劉丹は眉間に狹め、目を細め、聞きたくないとでも言うように頭を振った。
燕明も藩季も、そして月英も皆が口を噤んで、ただ二人の激聲を聞いていた。
「母さんは最期まであんたの名前を呼びながら、痩せ細って衰えて死んでいったよ!」
「柳麗《りゅうれい》が……っ、死んだ、だと!?」
「そうだよ! 自分の過ちがこの世からなくなって嬉しいんだろうなあ!?」
「――っそんな事があるわけ無かろう!」
蔡京玿のその一《いち》檄《げき》で、二人の応酬は止まった。
それはまさしく朝廷吏の長であるに相応しい、重々しくも威風に満ちた一聲だった。
「私が……柳麗を……そんな事……っ」
顔を覆った指の隙間から滴がれ、腕を伝い、肘の先から床に落ちた。
「していなければ……その者との子に、名など付けぬよ……」
そのあまりにも真に迫った聲音と滴は、劉丹の頑なな心をかすには十分だった。
滴り落ちるそれは、年季のった腕をゆっくり伝っては、石床に黒點を描く。最初の一滴が描いた筋道をなぞるように、ゆっくりと、彼の思い出がしずつ溢れるように、一つ一つり落ちていった。
「……じゃあ僕の名は、もしかして……」
「私が付けたものだ……私の姓を與えてやれぬから、せめてもと」
「――っそんな……! じゃあ僕は勝手に勘違いして……殿下まで巻き込んで……月英ちゃんにも迷を……」
劉丹の悔悟に満ちた目が、燕明と、隣に立つ月英を見つめた。
「このくらい、迷にもなりませんよ」
「だって……月英ちゃん。僕は君の大切なを使って……」
「だからこそ、この件は分かったんですがね」
そこが今回の不幸中の幸いといったところだろう。
「僕に言わせれば、二人共口下手過ぎます。そういう僕もつい最近までは、黙ったまま勝手に自分の中で自己完結させて、全てを諦めてた人間ですけど」
劉丹と蔡京玿が同時に「月英ちゃんが?」「お前がか?」と、訝しげな聲を上げる。その目の眇め方はやはりどこか似ていて、親子というものをしばかり羨ましくじる。
「ある人に言われたんです。『互いを知らなければ歩み寄れない。互いに言葉をわさないと分からない』――って」
燕明の口がもごっといた。
「その人にとっては當たり前の事だったのかも知れないけど、僕にとっては目から鱗でした。その言葉で自分の本當の気持ちに気付けたから、こうして今の醫としての僕があるんです」
あの日がなければ、きっと自分は今でも一人ぼっちで、燕明の不眠癥だけを治療していただろう。『自分は醫じゃない。偽なんだ』と、自分で自分を蔑みながら、豪亮達からの冷たい視線も、疎外するような仕打ちにも耐えていただろう。
所詮こんなもの――と自分を諦めて。
しかし、そうはならなかった。
今では燕明だけでなく、宮廷に勤める者達の多くが、月英の香療を求め房にやって來るし、豪亮達とは互いのを教え合ったりして日々の驚きは盡きない。
そして何より、を張れていた。
月英が嬉しそうにそのを叩けば、藩季は噛み締めるように頷き、燕明は面映ゆそうに口を尖らせた顔をしばかり逸らす。
「もし劉丹殿が最初に蔡侍中に息子だと素直に明かしていれば、蔡侍中がその當時、する人に気持ちをはっきりと伝えていれば、また違った結末になっていたでしょうね」
月英の言葉に二人も思うところがあるのか、俯き口を閉ざしたままだった。
するとそれまで沈黙を保っていた燕明が口を開いた。
「子に害意を向けられた気分はどうだ、蔡侍中? 否定される方の辛さが分かったか」
「否定されるって悲しくないですか? 蔡侍中が存続させたい國って、そういう事だと思いません?」
「だが、私は瞬姜《しゅんきょう》様に仕えたとしてやはり……瞬姜様を否定する様な政策はけれられない」
ある意味一途というか。ここまでくると、それは忠誠よりも執著なのかもしれない。
やれやれ、と月英は溜息と共に頭を左右に振る。
「別に意見が変わったからって、それが過去を否定する事にはならないんじゃないですか。その時々の正義があって、それが間違ってないと信じて、その時はそれがきっと正しかったんだと思います。程度の差こそあれ。けど、時代が変わり人が変われば、考えも変わるのが當然ですよね。それはただの考えの違いでしかなくて、僕は否定にはならないと思うんです」
「本當にお前は不思議な奴だな。なぜただの醫が、そこまで達観できるのか」
それはきっと月英がこの國の誰よりも、存在を否定される辛さを知っているから。
月英は前髪に手を掛けると、その下に隠れていた素顔を曬した。
「僕は、今尚この國で否定される存在ですから」
顕れた碧い雙眸は、だから、誰よりもその辛さが分かる、と言っていた。
その瞳を月明かりの夜のようだ、と蔡京玿は思った。薄暗い石牢の中で靜かにる碧い瞳は、とても神的だった。
「その目、の、は……」
蔡京玿はやっとで言葉を紡ぎ、劉丹は「月英ちゃん」と消えりそうな聲で呟くと、悲しそうに目を細めた。
「僕の名は月英と言います」
「……? まさか、英の子か……っ! ではその瞳のは!?」
「はい。異人のがってます」
その名を口にした蔡京玿本人が顔を顰める。
忘れたくても忘れられぬ名。當時、蔡京玿もその場に居た。英――月英の父親が刑に処されるその場に。
「覚えてますか。僕がこの國は息苦しいと言った事を」
「……っああ」
蔡京玿はきつく瞼を閉じた。その小さいに、どれだけの苦しみが降り掛かってきたのか想像に難くない。ずっと鬱陶しかった前髪の本當の意味を知る。
「蔡侍中に僕が渡した手巾。あれは香療と言うんですが……、実はあれ西國のなんですよ」
ハッとして蔡京玿は懐に手を當てた。その下には、香りが飛んでしまった手巾を、名殘惜しむようにれてあった。
「香療は、父が僕にしてくれた唯一のものなんです」
蔡京玿は何も言うことが出來なかった。
その英の死に、直接ではなくとも関わっていたのだから。先帝の隣で斬首が言い渡されるのを聞いて、それを當然の結果なのだと思っていたのだから。
「知ってると思うが、當時も私は侍中の位に居た。お前の父親の死になからず関わっている。……私を憎んでいるか」
しかし月英は首を橫に振った。
「確かに、父が死んだと聞かされた時は、何で、とも思いました。悔しかった。悲しかった。どうして――と、歯かった。でも嘆いても仕方のない事です。言ったでしょう? その時々の正義があるって」
「お前は……何故そこまで……」
「初めから否定するんじゃなく、一度けれてみたらどうです? それで駄目だったらその時考えれば良いと思いません? 変わることは、間違いでも、失敗でも、過去の否定でもないんですよ」
「……もう、私は変われないと思っていた」
「いつまででも人は変われますよ。変わろうとさえすれば。下民だってこんなに変わったんですから」
「高《こう》も……そんな事を言っていたな……」
まだ変われる余地が自分に殘されているなど、思いもしなかった。しかし、やはりまだどこか気持ちに躊躇いがある。その気持ちが長い沈黙となって蔡京玿に表れる。
「はぁ……これだから老人は無駄に頑固で嫌なんだ」
すると燕明のわざとらしい溜息が、蔡京玿の最後の躊躇いを掻き消した。
「四の五の言ってないで、さっさと認めたらどうだ? お前は言ったはずだ――何か役立つ新しいものを見せろ、とな。月英は偶然ながら、この國に舞い込んだ新しい風だ。その存在の大きさは、この狀況に置かれたお前が一番に染みて分かるだろう?」
燕明の言うとおり、月英が居なければ蔡京玿は無実のまま斷罪されていた。それに知らず知らずとはいえ、その『異國の』の恩恵にも預かっている。
「――ったく、答えは自分の中で出てるのに……どうしてこうも老人は意地っ張りなんだ」
ぼやいた燕明の言葉に棘はなかった。
それを分かっているのだろう、蔡京玿も朝議の時の様に燕明に噛み付くことはせず、ふと眉間を緩めただけだった。
そして蔡京玿は唐突に燕明に拱手《きょうしゅ》の格好をとる。
「――殿下、侍中職を辭したいと思います」
「えっ」と、月英と劉丹だけが驚きの聲を発した。一方、燕明と藩季は深くゆっくりと、その蔡京玿の決斷の重さを噛み締めるように頷いた。
「け取ろう」
「私の空いたは、孫二尚書が埋めてくれるでしょ」
しれっと孫二高を拭いに巻き込む蔡京玿は、やはり侮りがたいと燕明は苦笑した。
「何も辭めなくても」と思わず月英が口にすれば、蔡京玿はゆるりと首をふった。
「これが私なりの変わり方だ。私が居たままでは、他の長達が言葉を発し辛いだろうしな」
「格好を付けさせてやれ、月英。これが蔡侍中の筋の通し方だ。先帝への最後の忠誠といったところだろう」
蔡京玿は否定しなかった。だが「ただ一つ」と、視線を劉丹にチラと向け、燕明に言葉を加える。
「今回のこの件については、どうぞ寛大なご処置を……」
「分かっている」
「な、何を――っ!?」
劉丹の顔が跳ね上がった。
「僕は最初から覚悟があってやったんだ! お前なんかに庇われる筋合いは――」
「親が子を庇うのは當然だ。それが筋だろう」
「今更、父親面かよ……っ」
劉丹の悔しそうに歪められた顔から舌打ちが鳴った。しかし蔡京玿はそれをけて嫌な顔をするわけでもなく、ただ真っ直ぐに劉丹を見つめていた。
「……もう會えないものと思っていた。どこかで元気にしていてくれればと。居ないと言ったのは蔡家の事もあるが、私が、獨り殘されたと自覚するのが辛かったのだ。許せとは言わないが、せめてこうして再び會えたのなら父親面くらいさせてくれ」
「――っそんな」
そう呟いた聲に忌避はなかった。ただ迷いのみが聲を震わせていた。どうすれば良いのか迷っているのだろう。憎いと思っていた相手に、抱き締められたような優しさを向けられれば。
だから月英がしだけその背を押した。
「劉丹殿、まだ間に合いますよ」
微笑み「ね」と顔を傾ければ、れていた前髪から碧い目が覗く。
「間に合います。劉丹殿にはまだ、話せる相手がちゃんとそこに居るんですから」
自分には話したい相手がもう居ない。本當の父親も、育ての父親も。
向けられた碧い目を劉丹はじっと見つめた。その、きっと自分よりも遙かに辛い思いをして生きてきたのに、濁らず曇らずただただしいその月英の瞳を。
「……ありがとう」
消えりそうな聲で呟いたそれは、月英に向けてのものなのか、蔡京玿に向けてのものなのか。ただその場に居た者達は皆、満足そうな表で小さく頷きを返していた。
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