太醫院から戻って來た藩季は、正殿前で繰り広げられている面白い景に出くわした。

「あの醫とはどういう関係だ」

「どういう……って、太醫院で世話になった醫で……」

し離れた場所で、藩季はその景を眺め続ける。

腕組み威圧する様な口調で尋問する燕明、片や月英は肩をすくめつつも、意味が分からないと抗議の目を向けている。

「抱擁する程、世話になったのか」

「ただ単に極まっただけですよ。友人同士なんですから」

「じゃあお前は！　他の男とも、友人であればあんな接に抱き合うんだな!?」

「んぐふッ！」と思わず藩季は噴き出した。

どんな理由でああも真剣に対峙しているのかと思えば、くだらなすぎる理由だった。こんなにも明明と、嫉妬を表に出す男が居るのだろうか。それがまたこの國の皇帝ともなれば噴き出さすにはおれなかった。

しかし真正面で対峙している月英は首を傾げるだけ。目に「何を言ってるんだ」といった憐がありありと浮かんでいる。その溫度差は見ている方が不憫に思う程。

「まあ……はぁ」

案の定な月英の適當な返事に、藩季はまたも「ふぶっ！」と笑いを噛み殺す。

「～～っお前！　自分の別を忘れてないか!?　お前はその……あ、お、……なんだぞ!?　無闇に男にをらせる奴があるか！」

『』という部分だけ聲を潛める燕明。一応気にはしていたらしい。

「そんな人を魔みたいに」

「だったら劉丹のアレは何だったんだ!?　好きだとか言われて……っ！　誰彼構わず気を振り撒きおって！」

「陛下……気って良い匂いがする事じゃないんですよ？」

「分かっとるわっ！」

気の毒そうに優しい笑みを向ける月英に、伝わらないもどかしさに地団駄を踏む燕明。あまりにも自分の主が不憫になっていく様に――あとそろそろ腹筋の限界に――、藩季は漸く二人の間に割ってった。

「まあまあ、気持ちが伝わらないからって拗ねないでくださいよ。折角、月英殿が戻って來たんですから、それでいいじゃありませんか」

「拗ねてない」

「顔、ひっどいですよ」

「皇帝の顔は酷くならない」

「萬華國の至寶が珍寶て言われる前に、早く顔を戻してください」

「お前が酷いな」

じろりと白い目を向ける燕明を藩季が宥めていると、月英が「そういえば」と切り出す。

「任って、僕、試験とかけてないんですけど？　もしかしてまた臨時ですか？」

また三月後にサヨナラしなければならないなど勘弁してしい。

「そこは安心しろ。臨時じゃなく歴とした正だ」

「恩蔭《おんいん》制度というものがありましてね。上級吏の子は試験無しでも任出來るのですよ」

燕明が「ま、ずるい裏口だ」とも蓋もない事を言う。

しかし、それでもまだ疑問は殘る。

「いやいや、そもそもそれって上級吏の『子』に限られた制度ですよね？　僕はそもそも父が居ませ、ん……し…………んん？」

何故か藩季がニコニコ顔で両手を広げていた。

どういう意味か分からず月英が対応に困っていると、藩季が衝撃的なことを口走った。

「月英、私が父ですよ～」

「ぶッ!!」

思わず月英は噴き出してしまった。燕明が「が噴き出すな」と言っていたが、無理を言わないでしい。

「え、な、え……父？　んん!?」

「ま、そういう事だ。早い話、お前を藩季の養子にした。そして藩季の名で恩蔭制度を使った。こいつ、ウキウキで戸部や吏部で手続きしてたんだぞ」

裏口の上に邪道だった。

「こう見えても私、実は上級吏なんですよ。ただの阿呆皇太子のお守り役じゃなかったんですよねえ」

燕明が「お前ぇぇ！」とんでいたが、藩季は素知らぬ顔をして、対応に困っている月英を腕の中におさめた。

「安心してください。私があなたの《《最後の》》父親ですよ」

「……っ！」

ふわりと労るように包まれた腕の溫かさに、月英は最初の養父――子順を思い出し目を閉じた。最後だというその言葉の裏側の優しさは、泣きたくなる程にらかだった。

「きっと、その瞳を良くは思わない者もまだ居るでしょう。けれどどうか忘れないで。間違いなく、あなたの居場所はここにあるんですよ。月英殿」

「父さん」と呼ぶにはまだ気恥ずかしくて、月英は藩季のを遠慮がちに握った。

再び宮廷で働くことになり、そしてこんなに溫かな父もできた。これを幸せと言わずして何というのか。

――嗚呼……本當に……萬華宮《ここ》は幸せが宿ってたんだ。

あの日下民區の端から見たの眩しさを思い出し、そのを噛み締めた。

すると、ポンと月英の頭の上に燕明が何かを載せる。

月英が手に取ってみれば、それは月英がずっと離さず持っていた紺表紙の本。あの日――別れの日に燕明に渡した香療の本だった。

しかし一つだけ、手に持つ本は記憶の中の本の姿と違っていた。

「表紙が……」

破れていた部分に、一等品だと分かる雲母混じりの紺紙がり付けられていた。そして、欠けていた題字――『西國』の部分には、新たな字が立派な墨字で記してあった。

「『氏香療之法』……って、これ！」

驚き振り向けば、燕明は優しい顔で頷いた。

「それは、英が命をかけて我が國に伝えてくれただ。それにこうして香療を広げたお前も氏だ。何も間違っちゃいない」

「氏の名を……出しても……？」

罪人であった英。だから月英はその子である事を隠すため、『』の姓をひた隠してきた。しかし燕明はその隠すべき姓を殘して良いと言う。しかも香療の名として。

「當然だ。それにお前も月英だろ。敘位の時も、俺はちゃんとそう呼んだぞ」

「私の養子になったからといって、姓を変える必要はありませんよ。それにこれから先、氏の名は罪人ではなく、香療を伝えた偉大な先駆者として広がるんですし」

「そうそう、お前が香療師の任を果たせば果たすほど、その名は広まってくだろうな。だから……頑張れよ、月英」

月英は『氏』が輝く本をに抱き締め、破顔して燕明を見上げた。

「――っはい！」

碧い瞳はきららかに輝き、頬は薄紅にづき、弾んだ聲と共に小さなを嬉しそうに震わせる姿は、どこからどう見ても「らしい」と言うに相応しかった。

燕明は肺を大きく膨らませると、言葉にならない想いと共に、全てを冬の冷たい風に流した。

「……前髪は、そのままにしていた方が良かったかもな」

「うっかりすると、だとバレてしまいそうですね」

「あ、やっぱり僕はまだ男裝していた方がいいんですね」

さらしを巻くのは最早一種のクセみたいなもので、全く負擔ではなかったが、これからも豪亮達醫にを持たなければならないのか、と複雑な心持ちになる。

その気持ちが顔に表れていたのだろう、燕明は眉を片方だけ落とした微苦笑の末、月英の頭をでた。

「しずつ変えていくから。宮廷《ここ》も、國も、人も。お前が――誰でもが生きやすい場所にするから。だからその日まで……もうしだけ待っていてくれ」

「嫌です」

月英の返答に、燕明と藩季がぎょっとした目を向ける。

「待つだけなんてに合いません。僕だってこの國を変えたいですもん、この香療で」

人は変われると知ったから。

お互いわかり合えると學んだから。

自分から歩み寄れば、それだけ多くの可能が舞い込むことも。

だから、もう願い待つだけではいられなかった。

付け加えた月英の言葉に、二人は顔を見合わせ大口を開けて大笑した。その豪快に笑う様は皇帝だとか上級吏だとかの品位の欠片もない。だが、月英にはその飾らない笑いが好ましかった。気取った王より、飾らない王の方が素敵だ。

ひとしきり笑い終えると、燕明は「はぁ」と目に滲んだ涙を拭った。

「まだまだ、やる事は盡きないな」

「月英殿がありのままの姿で働けるようになったら、その時こそ、國が開かれたと言えるのでしょうね」

その第一歩を今日、この國は踏み出した。

月英の頭を緩くでる燕明を見上げれば、その後ろの大空が目に飛び込んできた。

遮るものがなく見上げる冬の空は高く遠く、けれど手をばせば屆いてしまいそうな程鮮明な青でしかった。ありのままの景の何としい事か。

「しずつ垣を取り払っていくぞ。手伝え、月英！」

「はい！」

風が吹いた。

この國はまだまだ息苦しい。けれど、やっと今日一つの風が空いた。

きっと、もう大丈夫。この國には新しい風が吹き込む。

一つずつしずつ風は數を増やし、いつしかこの息苦しかった囲いは全てなくなるだろう。

「やはりお前は良い香りがするな」

風に舞い上がった香りは、柑《オレンジ》に薫草《ラベンダー》、加列《カモミール》、茉莉花《ジャスミン》、天竺葵《ゼラニウム》――萬の花の香りがした。

大陸東に吹く花香る風は、陸も海も空も駆け巡り全てをその香りで満たす。

萬でも足りぬ花々がこの世を麗す。

その小さなきっかけを與えたのは、たった一人の下民の。姿を偽り、名を偽り、心を偽ってきた。

世界を変えるは、今やっと自分の道を歩き出したばかり。

小さな彼が世界を大きく変える。

彼の通った後には萬の花が咲き誇る。

萬華宮の男裝香療師は、今日も香りで世界を変える――。