《完璧曹司が、なぜか私にだけ意地悪をしてきます》君への気持ち
新緑の季節は過ぎ去り、東京は灼熱の夏を迎えた。花園は三ツ矢の運転する車から降り、父をはじめとした役員達が待っている部屋に急いだ。
今日は気合をれて、真夏だがダブルのスーツを著て來た。アタッシュケースの中には、ここ數か月のすべてが詰まっている企畫書。
(いろんな人の助けを借りて、出來た……)
ほうぼうの百貨店を回り、さまざまなデータを査し、それぞれの専門分野の人材に協力を仰ぎ。アイディアも、決して花園一人で出したわけではない。青山先生から郁にまで――いろんな人に話をし、聞いてもらい、そして意見を言ってもらった。
(いろんな人がいるけど、皆俺の話を、真剣に聞いてくれた)
花園家という場所が、こんなに殺伐としているのだ。その外に広がる大人の社會は、きっともっと厳しい場所なのだろうと思っていた。だけど、違った。
兄よりも父よりも、外で出會った人々は、優しかったのだ。もちろんいろんな人がいる。けれど、花園が真剣に企畫をもっていけば、協力しようとしてくれる人の方が多かった。
(とくに郁は……こんな俺に、優しくしてくれた)
郁とこの間公園でした約束が、思い出される。すべてにケリがついたあと、彼は花園の話を聞くと言ってくれたのだ。
(よかった――。こんな事になるなんて、最初は思ってもいなかったな)
そう思うと、なんだか夢のような気がする。
花園が初めて郁を意識したのは、この一斤屋本店に配屬されてから數日目。彼が後輩の加奈のミスをフォローしていた時だった。外商カードを持つお得意様に間違った品を包んで帰してしまった加奈に、さすがの主任もの気が引いていた。
震える加奈に、郁は一言も責める言葉を言わず、さっと外商係と連攜を取り、加奈と共にお客様の自宅へ伺い謝りに行った。それはそれは見事な謝罪だったと加奈は言っていた。
外商のお客様は、百貨店の売り上げの生命線と言っていい。毎年巨大な額を使い続けてくれる特別なお得意様だ。外商係にはノルマがあり、一人でもお得意様を失えば、その社員個人にも一斤本店そのものにもダメージがある。
なので、外商係にきつく叱責されて帰ってきた加奈は、郁にも泣かんばかりに平謝りをしていた。しかし郁はそれを止めて、優しく言ったのだ。
『もう謝らないで。三浦さんが申し訳ないって思っているの、最初からわかってたもの』と。それを聞いた加奈は、ほっとしての力が抜けて、涙ぐんでいた。彼はそんな加奈の肩をとんとん、と軽く叩いて勵ましていた。
その時花園は、なぜか猛烈に三浦加奈を羨ましく思ったのだった。
(いいな――あんな先輩にめんどうを見て、育ててもらえる彼は)
加奈を見つめる郁のまなざしは、とても優しいものだった。自分が遠い昔に失った溫かなものがそこにあるような気がして、花園は飢えにも似た気持ちを覚えた。
ただ兄に勝ちたい。その苛烈な一心でこの場所にやってきた花園のの中に、まったく思いがけない気持ちが沸き起こったのだ。
そしてその日以來、郁から目が離せなくなった。
中野郁。28歳。目立つ人ではない。艶やかな黒髪を毎日きっちりまとめて、ベージュのストッキングに、黒のパンプス。お晝は手作りのお弁當。
仕事ぶりを観察していると、彼は後輩だけではなく、どんな同僚のミスでもうまく助け、傷つけないようにさりげなくフォローしている事がわかった。お客様にも誠実に対応し、に著けたセンスも確かだ。だから、一見そうとは見えなくとも、彼を中心に紳士服店は回っていた。
(人は、見た目じゃないんだな)
新しく5階に配屬された自分も、彼が『面倒を見る』対象にっているのだろうか。そう思うと、嬉しいようなくすぐったいような気持ちになる。事務的な事でも郁と話すたびに、花園のはうるさく鼓を打った。
(俺の事も――気にかけて、しい。三浦さんみたいに……いや、それ以上に)
真面目で地味で、でも実は誰よりも有能で優しい彼の事を、もっと知りたい。そう思った。けれど、いつもに対しては強気だった自分が、郁には口説き文句の一つも出てこない。ただただ一緒に仕事をするばかり。もどかしい思いがどんどん募っていく。
(どこに住んでいるんだろう。休日は、何をして過ごしているんだろう――)
そしてある日、帰り道郁を観察していた花園は知る。彼がどうやら、男と一緒に住んでいるという事に。郁が電話で、彼氏らしき人と話していたのだ。他のない話だった。けれど郁が會社では見せない、穏やかで幸せそうな顔をしているのを見て、花園はわかってしまったのだ。
(あっくん……それが、中野さんの、彼氏)
すっかり、その可能が抜け落ちていた。まさか彼にそんな人がいるなんて、思ってもみなかった。花園は勝手に、裏切られたような気持ちになった。
(彼氏、いたんだ。中野さんには、三浦さんよりも俺よりも特別な……人が)
ショックだった。いきなり腹に手酷い一発を喰らったようなじだった。彼は毎日彼氏の『あっくん』の待つ家に帰って、一緒にご飯を食べ、抱き合って――。そこまで想像して、花園は吐きそうになった。
(許せない。真面目な顔をして……そんな事、してたのかよ)
本當に彼氏がいるのか。將來の約束をしているのか。その彼氏が、どのくらい好きなのか――。今すぐ彼に聞きたい。そして、すべて否定してほしい。
(でももし、本當ですって言われたら……)
そう思うと、花園は目の前が真っ暗になるような気がした。寒い雪の日に熾した大事な焚火を、いきなり壊され奪われたような気持ちだった。
そして次の日から、花園は郁に対して態度を変えるようになった。
どうしても、彼に意地悪を言ってしまうのだ。完璧な彼の顔が崩れて、慌てたり傷ついたりするのを見たくて、わざと重箱の隅をつつくような事を言う。
なさけない。まるでねじくれた子どものする事だ。
郁はなにも、悪い事などしていないのに。28歳のに人がいる事など、當たり前の話なのに。
(俺は……大人として、郁の足元にも及ばない)
わかっているから、意地悪をしてしまう。傷つければ、郁は前より自分のことを見てくれる。たとえマイナスのイメージでも、彼の心に自分が深く刻まれていく。それをじるとき、花園の歪みはじめた飢が、しだけめられるのだ。
郁をめるのは、だから気持ちがよかった。だけどこのままではいけないという気持ちが常にあった。
(早く、やめないと。取返しのつかない事になる前に、なんとか。なんとか――)
そんな時、彼が借金取りに脅されている事がわかった。そこで花園はこれ幸いとばかりに、彼の借金を肩代わりしたのだ。
これで、謝してくれれば。しかしその期待は、淺はかだった。郁は逆に花園を警戒し、拒否する姿勢はもっと強くなった。
(當たり前だよな。今までめてきた人間にいきなり借金を肩代わりされたら――警戒するのが普通だ)
返せるかわからないからけ取りたくない、という彼に、花園は売り言葉に買い言葉でつい、で返せと言っていた。心の底の願が、ふっと口をついて出てしまったのだ。
しかし真面目な郁は、それをしっかりと実行した。
初めて郁を抱いた時は、征服と快楽に頭が真っ白になって、止められなかった。天にも昇る気持ちだった。けれど嫌がっている郁を見て、ぱちん風船がはじけたようにその幸福ははじけて消えた。
大好きなのに。郁の事ばかり考えているのに。當の本人に、意地悪を言うのが止められない。
そんな、ひどいことばかりしてきた自分なのに。
(郁は俺が弱っている時、優しくしてくれた……)
朝まで一緒に居て、花園の言ってほしい事を言って、世話を焼いてくれた。
郁が気強く接してくれたおかげで、花園もしづつ、自分の本當の気持ちを出せるようになってきた。
(ありがとう……って、言わないと)
あらゆる意味で、郁は花園にとって幸運の神だった。最初に自分がした事をちゃんと謝って、お禮を言って、そして……。
『好きだ』という気持ちを伝えたい。
でも、それは花園にとって、怖い事でもあった。
いつもには、求められてばかりだったからだ。自分からこんなに求めた事など、人生で初めてだ。
だから、拒絶されたら自分がどうなってしまうか、わからない。
(でも、この仕事が、そして兄貴から家を取り返すのが――功したら、言うんだ)
郁からこの間託された大事なものが、企畫書の下にしまってある。その存在を思うと、花園は力が沸いてくるような気がした。
(本當に、俺にとって……郁は、俺の恩人だ)
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