《夜明けを何度でもきみと 〜整形外科醫の甘やかな〜》6
病院の非常口を出た敷地の奧にある、古めかしい建が寮で、そこの三階と四階が寮になっていた。バストイレとキッチンは共用で、食事は院の職員食堂に申請すれば患者と同じものだが用意してもらえる。寮にあるキッチンを使っても良いのだが、菜胡はそういうわけで淺川の生活リズムを気にしてしまっているから、満足に調理できない。調理中にあの聲が聞こえてきたら食減退だし気まずい。ニンニクの香りなど立てようものならたちまち淺川が怒鳴り込んできそうだ。だから、菜胡は食堂で食べることを選んでいた。日曜は気分転換のつもりで自分で調理もするが、淺川に會わないよう短時間で作れるものばかりを選んでいた。
週が明けた月曜の朝。三月最後の週だ。七時半し前。食堂へ足を踏みれた。
「おはようございます」
廚房の奧から複數の「おはよう」が返ってくる。患者の朝食を出し終えた廚房には一時の休憩でもあるのか賑やかに話し聲も聞こえる。
廚房と飲食スペースの間のカウンターには注文しているスタッフの名札が乗ったトレイが並び、その中から『石竹』と書かれたトレイを持ち上げる。『淺川』のトレイも用意されていた。
――淺川さんも來るんだ……日勤か。
獻立は院患者と同じメニューで、この朝は、ロールパン、コンソメスープにチーズりオムレツ、サラダ、フルーツヨーグルト。トレイを手にとって給湯でほうじ茶をカップに注いだら、いつもの窓際の明るい席に著いた。
「いただきます」
窓の外に目をやれば、病棟の早番スタッフが続々と出勤してくる。口々に挨拶をわす聲、廚房からは洗いをする音が聞こえ、いつもの朝の風景だとホッとした。また一週間が始まるのだと気を引き締め、食事をしていれば、不快な聲が耳に屆いた。
「菜胡ぉ〜、おはよう〜」
淺川だ。トレイを手にし、お茶を注いで菜胡の正面に座ってきた。
「おはようございます、今日は日勤ですか?」
「んーん、準夜勤なんだけど朝はきちんと食べようと思ってぇ」
準夜勤とは夕方十六時から二十四時半までのシフトの事だ。夜勤はやっただけ手當がもらえる。外來勤務だとそれがない。
――準夜勤ならキッチン使えるし、聲が聞こえる前に眠ってしまえる……!
そんな菜胡の心を知ってか知らずか、スープを口に運んでいた淺川が聲をひそめて言った。
「ねえ、昨日ごめんねぇ? 聞こえてたぁ?」
「大丈夫ですよ」
オムレツを頬張る。
大丈夫か大丈夫じゃ無いかと言ったら後者だ。あのあとシャワーを浴びるタイミングを逃したし、トイレも我慢してしまった。シャワーは日付が変わる頃にささっと浴びることができたものの、順番待ちをされていて焦った。とにかくの汚れを落とすだけで、湯船に浸かるなどは到底できなかった。ただ、部屋探しが面倒で寮に住んでいた菜胡だけれど、やっぱり寮を出ていこうと考えるとてもよいきっかけになったという意味では、"大丈夫"だ。
「菜胡も連れ込んでるんでしょお? 黙っといてあげる」
聲をひそめる。
「いやいや、してませんよ、いませんし。それに寮ですよ、扉は薄いしダメでしょう」
「ふう〜ん。お堅いのね。……菜胡ってぇ、好きな人とかいないのぉ?」
じっとこちらをみる淺川の目は笑っているようで笑っていない。口元が意地悪に歪んで見えた。
「いませんよ?」
「ほんとぉ? 作ればいいのにぃ。いたら毎日楽しいよぉ? 新しく整形の先生來るじゃん、狙っちゃえばぁ」
菜胡にだってそれくらいわかる。確かに毎日が楽しかったし、明日も頑張る勵みになった。だからたまに寂しくなってがしたいと思うのだ。でも、が未だ消えない。
だけどこれを淺川に話すと彼の都合の良い誰かを紹介されてしまう可能が高い。人を好きになるのは誰かに薦められてするものじゃないと思っていて、知り合いから縁を繋いでもらう紹介はいいが、そこからに発展するかどうか、そこまで期待されていると思うと気が重くなる。は自分のペースでしたい。だから絶対に、淺川には悟らせない。
先月、樫井が診察中の休憩時に言った。
『もう一人先生がしいなあって思ってさ。友人に頼んだんだよ』
『先生ずっと一人だもんね、もう一人居てくれたら楽よね』
『そうなんだよ、そしたら木曜は休診にしなくて済むし、病棟と外來を分けてもいいしさ』
淺川が言っているのはこの事だろうと解った。
「無理ですよ、おじいちゃん先生かもしれないじゃないですか」
「つまんない子〜! 夢壊さないでぇ? そんなんじゃいつまでも処だよぉ?」
大きくため息ついて、盛大に人のを言う淺川。それまで聲を顰めていたのに、ここにきて急に聲を大きくするのは何なんだろう。人がない朝だし廚房とは離れているからいいものの、こういうデリカシーのない下品なところは苦手だ。
「ほんっとほっといてください。お先に失禮します」
食べ終わったトレイを持って席を立つ。何か小さく言っていたような気もするが、いつもああやって処だと決めつける。……事実、そうなのだが。だから何なのだ。未経験なのが悪いんだろうか。自分は生活を謳歌している事のマウントだろうか。
菜胡は、"初めて"を捧げても良いと思える人に出會える時を待っていた。――そう、ただ待っているだけなのだ。出會いが増えればそれだけへ発展する率が上がるのはわかる。だが好きな人を作るべく合コンに行くことは面倒臭いし、もしそこで初カレのように……と思うと気が乗らなく、引越して生活環境を変えることもしない。だから一向にその時は訪れず、四年が経っていた。
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