《夜明けを何度でもきみと 〜整形外科醫の甘やかな〜》3
棚原からの電話を切った菜胡は、會えない事が確定すると気持ちを切り替えた。
――會えないんなら、その間にやる事済ませて……月曜日楽しみにしよ
黙々と仕事を片付けた。外科からお茶にわれる事もなく、全てやり終えて寮へ著いたのは十八時し前だった。
棚原の事を考えていた。當直醫は來たかしら、申し送りは済んだのかしら。しい人の事を考えるだけでが熱くなる。早く會いたい。きっと疲れているだろうから……そんな風に考えながら階段を上がった。廊下を進み、淺川の部屋からは聲が聞こえない事に安堵した。
――今日は夜勤かな、靜かだな。よかった
淺川の部屋の扉をチラッと見て廊下を曲がった。數歩先の、自分の部屋の前に白を著た男が居た。壁に寄りかかり、腕を組んでいる。
――なに?
「君が……菜胡さん?」
白を著た男は若い醫師だった。寄りかかっていた壁からを離すと、菜胡に向かってきた。
「え、そうですけど……」
廊下の曲がり角、淺川の部屋の前で歩を止めた菜胡は張した。
「よかった、會えないかと思ったよ。遊んでしいって聞いたんだけど」
「……は?」
菜胡に近づく醫師はニヤけた顔で続けた。
「大丈夫、俺に任せて。気持ち良くしてあげる」
気持ち悪い事を言いながら、菜胡のを舐め回すように見てくる、その不快な視線が堪らなくて後退りをした。
――なになに、なんで?!
遊びたいなどと頼んだ覚えもない。何をどうすればそういう事になるのだろう。棚原が居るのに遊びたいと思うわけがないし、誰にもそんな事は言った覚えがない。菜胡は、このままここにいたらダメだと気がついて踵を返す。
「あ、おい、待てよ」
今しがた上がってきたばかりの階段を駆け降りた。こんな時に限って誰とも行き合わない。時々足下がもつれそうになりながら必死で駆け降りた。追いかけてくる若い醫師が何か口走っているが、うまく聞き取れないし、恐ろしくて聞きたくもない。
――紫苑さん、紫苑さん! こわい、何で何で!
寮の階段を駆け降り、院に逃げようと裏口を目指した。あそこならってすぐ食堂があるし、おばちゃん達もきっと居る。もしかしたら棚原だって居るかもしれない。
「待てよ! 時間ねぇんだ、手こずらせるな!」
だが、食堂の窓が見えてきたところで木のか小石かわからないものにつまずいて転んでしまった。普段なら何でもないような、毎日通るところなのに。とにかくあそこにれさえすれば――気持ちはそれだけだった。地面に手を著いて起きあがろうとして膝に痛みをじた。
「――っ!」
見ればりむいていてが滲んでいた。どうしてこんな目に遭わないといけないのか。その理不盡さが怖くて不安で視界も涙で滲む。
「早く済ませよう、來いよ」
ニヤけた顔の若い醫師は菜胡に手をばしてきた。"済ませる"という言葉で、彼の言っている"遊ぶ"が何を意味するのか悟った。その悍ましい意味に寒気もするし、なぜ、という怒りも込み上げる。
「やっ、なんで! 頼んでない!」
菜胡の抵抗も関係なく若い醫師は手をばし、肘のし下を摑んできた。連れて行かれまいと、必死で抗う。
「今さら怖気付くなよ、初めてでもないくせに。可がってやる」
「やだやめて! 離して! 紫苑さん、紫苑さん――!」
居るはずのない人の名を呼んだ。だが、相手の方が力がありを持っていかれる。重を下に落とし、連れて行かれまいと抵抗をし続けた。地面にられ白の裾は土で汚れた。もう恐怖で聲も出ない。ただただかばんをの前で抱えて疼くまるしかできず、それでも何とか裏口に辿り著ければ、と思った時、腕を摑む力が消えた。同時にふわりと嗅ぎ慣れた匂いがした。
「菜胡から手を離せ!!」
棚原の聲がした。かばんを抱え込んでいたを起こせば、背後にはおばちゃん達もいて、菜胡を囲ってくれていた。棚原は鬼の形相をしており、若い醫師の手を叩き落とした。その勢いで若い醫師はわずかに後退し、その隙に棚原がを割りれて菜胡を抱き留めた。
「しっ紫苑さっ」
「菜胡、何をされた、どこか痛いところは」
両手で顔を包み、涙に濡れた頬を指で優しく拭った。それでもなお涙はこぼれ続け、棚原は著ていた白をいで菜胡に被せた。大丈夫だ、と小聲で囁きながら、なだめるようにれた髪をなでつける。のあちこちについている土汚れをたたいて落とし終えると、白から見えている膝のり傷を目視して、若い科醫を睨め付けた。
棚原の腕の中にいる、頭から白を被せられた菜胡を指差しながら、若い醫師が口元を歪めた。
「棚原先生も頼まれたんですか? あばずれだなあ、三人で?」
「なに……?!」
菜胡をおばちゃん達に託して、棚原は立ち上がる。
「え、遊んでしいって頼まれたんでしょう? そこのに」
気圧された若い醫師はたじろぎながらもしゃべる事をやめない。
「菜胡は俺の大事なだ、そんな事あり得ない」
「は? 何言って……恭子から聞いたんだ。うそ?」
「黙れ」
棚原は若い醫師のぐらを摑んで病院の壁に押し付けた。
「先生だって不倫じゃないすか! 偉そうな事言って!」
「菜胡は婚約者だ、この指はその証だが何か問題があるか」
本來は結婚指だが、この際どうでも良かった。約束の指には違いないのだから。
「そ、そんな……うそ? 騙されて……? でも恭子がっ……」
科醫はずるずると崩れ落ちて項垂れた。
「二度と菜胡に近づくな。恭子と言ったな、淺川か。この事は上に報告させてもらう」
菜胡を抱き上げ、食堂へ戻っていく棚原に代わって、陶山が若い醫師の前に立った。
「お前、何をした? 無抵抗のを襲うなんて……しかも菜胡ちゃんだ、赦さない。今夜の當直は私が代わるから、お前は自宅謹慎だ、一歩も外に出るな」
項垂れてかない醫師は、震える聲で返事をした。
「菜胡、気分は」
食堂の中に運ばれた菜胡は棚原の首に抱きついたまま、頭をふった。おばちゃんが用意してくれた椅子に腰掛けた棚原が菜胡を膝の上に乗せる。その様子を、他のナースや事務員が遠巻きに取り囲む。
「棚原先生、警察呼びますか?!」
守衛が駆け寄る。
「いい、呼ばないでくれ」
「ですが……」
棚原が守衛に言う。
「いいんだ、大丈夫だ。警察の介が必要なら、週が明けて院長に報告してからにしたい。今は彼を早く安心できる場所へ連れて行きたい」
「そうですね、わかりました。さあ皆さん散って散って。あとは棚原先生にお任せしますから」
「はい扉閉めますよ、皆さんお疲れさまでした」
おばちゃんも加勢して、外野を食堂から退室させ、り口扉を閉めてくれた。守衛もスタッフ達と共に去っていき、食堂は靜かになった。
* * *
「先生、菜胡の膝を――」
外科外來のこずえが、トレイに傷の消毒に必要なを用意して持ってきた。廚房で作ってもらった蒸しタオルを使って、こずえが菜胡の顔や手、膝などを拭いてくれ、膝の消毒を棚原が施した。清潔なガーゼを充てがって絆創膏で固定し終える頃、こずえに禮を告げた。
「こずえさん、ありがとうございます……大原さんには」
「あたしが話しておいてあげるから、あんたは帰りなさい。週明け、また元気な顔を見せて。ね?」
消毒を終えた棚原がこずえに言った。
「こずえさん、すみませんが菜胡と居てくれますか? 菜胡、病棟へ顔を出して、帰る支度してくる、しこずえさんと待っていてくれるか」
はい、とうなずいて、おばちゃんが差し出してくれたほうじ茶をけ取る。
棚原は急いで病棟へ上がり帰る事を夜勤者に告げた。醫局から荷を引き上げて裏口に車を橫付けした棚原が食堂へ戻ってきて、菜胡を抱き上げた時、陶山が頭を下げてきた。
「菜胡ちゃん、棚原くん、うちの若いのが大変申し訳ない」
陶山の聲を聞いて、腕の中の、白を頭から被っている菜胡がを強ばらせる。大丈夫だ、と小さく囁く。
「……淺川、なんだろうか」
「恐らく。彼は準夜勤らしい。當直は僕が代わったので狀況が許せば話してみる」
「頼みま……あ、陶山先生、當直? なら話しておきたい患者がいるんだが」
菜胡を抱いたまま、整形外科の患者の事を話して対応をお願いした。ちょうど科的な面での不調だったから、若い科醫より頼りになる。
先ほど上がった時は淺川の姿は見えなかった。病室のどこかに居たのだろうか。だが居なくてちょうどいいとも思った。もし顔を合わせていたら、手を出してしまったかもしれない。菜胡を一方的に傷付けた淺川が赦せなかった。
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