《夜明けを何度でもきみと 〜整形外科醫の甘やかな〜》第六章 夜明けを何度でもきみと 1
患者の容態が安定した。當直醫が來たら容態を申し送りをすれば帰れる。當直醫が來るまではもうし先だから、それまで休憩も兼ねて翌週のお晝の注文と、可能なら何か食べたいと思って食堂へやってきた。
菜胡は帰っただろうか。電話を掛けてみようか。寮の部屋へ行ってもいいが……淺川の部屋の前を通らなければならず、出くわしたら面倒だから來ないでと言われている。攜帯番號は教えてあっていつでも連絡は取れるものの、菜胡はあまり連絡をしてこない。菜胡を思いつつ食堂へれば、そこには陶山がいた。飄々とした態度で早めの夕食を取っていて、軽く會釈しあってから、廚房のおばちゃんに話しかけた。
「あら、棚原先生、お夕飯食べる?」
「うん、何かある? それと來週のお晝なんだけど〜」
「はいはい――あら、菜胡ちゃ……あっ転んだ?」
お晝の注文用紙をめくりながら、ふいに窓の方を見たおばちゃんの言葉に、棚原も窓の方へ顔を向けた。白を著た若い男が駆けてきて、下の方を見て何か言っている。腕をばして誰かを摑んだ。棚原は駆け出した。
棚原が駆け出した先を見て陶山が聲を上げた。
「菜胡ちゃん!? ちょっ、あいつ!」
陶山は窓から転ぶ菜胡を、その転んだ彼を若い醫師が追いかけてきて腕を強引に摑み引っ張っているのを目の當たりにした。助けに、と立ち上がったとき、棚原が既に外に出ており、菜胡と若い醫師の間に割ってった。
「菜胡!」
菜胡の腕を摑む手をはたき落とした。そのを腕の中におさめ、膝のすり傷がある事を確認した。自の腰の辺りをぎゅっと摑んでくる菜胡のは震えていた。
「菜胡、もう大丈夫だ」
そこからはおばちゃんと陶山も加勢し、騒ぎを聞きつけた守衛や他のスタッフ達も遠巻きに集まって來た。若い醫師はなりふり構わず不愉快な事を口走り棚原の怒りを買った。
菜胡がそんな事を願うはずがないことは棚原が一番よく知っている。だからダミーの指を指摘されて、思わず菜胡との婚約の証だと言った。遠巻きの連中にも聞かれるかも、と一瞬思ったが、雙方の名譽のためなら厭わない。
若い醫師は膝から崩れ落ち、すぐさま謝罪してきた。だがこんなことは到底赦せるものではなく、院長はじめ病院の上長達に報告する事も含めて、陶山にも協力を頼んだ。若い醫師は科で陶山の部下だったからだ。
菜胡には自が著ていた白を被せた。外科のナースに菜胡を一旦預け、帰る支度のため病棟へ上がり帰る旨を夜勤者に伝えた。淺川がいるかも、と思ったが姿は無かった。彼を捜す時間はなく、患者を前に私を挾むわけにもいかない。ステーションへ戻り心電図モニターを見つめていれば看護部長がやってきた。容態の安定した患者の事を話しつつ、當直は科の陶山に変更になった事を伝えた。
「聞いたわ。彼は?」
「僕が連れて帰ります、寮になんて置いておけない」
「そうね……淺川は」
「見當たりません、夜勤なんでしょうか? でも……今は彼と冷靜に話せる気がしません」
「あの子に関しては他の醫師からも苦めいた報告は來ていたの。看護部としても処分は検討します」
それから醫局に寄って荷を摑み取ると駐車場へ走った。車を裏口前に停めて食堂へ戻った。
菜胡は外科のナースに付き添ってもらっていた。顔が悪い。膝のガーゼと薄汚れた白が痛々しい。付き添ってくれていた彼達に帰る事を告げ、陶山には特に診てしい患者について申し送りをしてようやく帰路につけた。
「菜胡おまたせ。さ、帰ろ」
ん、と小さく返事をした菜胡がごく自然に、棚原の首に腕を回した。膝の裏と背中に腕を通して、菜胡を橫抱きにし車に運んだ。
* * *
マンション地下の駐車場から部屋までも、菜胡を抱き上げて運んだ。ソファへそっと降ろし、何か飲むものを、と離れようとした棚原の服の一部を、菜胡が摑んて離さなかった。
「待って、もうしだけ……ぎゅってして」
一人になる事の不安と、出來事を思い出して恐怖が離れないのだろう。怖さと心細さがり混じった狀態の菜胡を引き剝がすわけにもいかず、膝の上に乗せて抱きしめてやった。泣くわけでもなく、ただただを預けてくる菜胡の頭に手を當ててやる。空いた片手で攜帯をいじり、スマートスピーカーに靜かなジャズを流してもらう。なるべく落ち著くような曲を選んだ。ピアノの旋律が室に響き渡り、その音楽に合わせて、菜胡の背をトントンとさすり続けてどれくらいの時間が経っただろうか。
「……菜胡、が冷えちゃうから、お風呂っておいで? その白も著替えてさっぱりしよ」
抱きしめていてじる脈も呼吸も落ち著いてきた頃を見計らって浴をすすめた。特に菜胡は白姿のままだ。土は払い落としてあるものの、転んだ現実をありありと思い出してしまう。早くその忌々しい裝いを解いてしまいたかった。
何度も泊まりに來ているため菜胡の必要なものは全て置いてある。著替え類は巾著袋に詰めた狀態で寢室にあるクローゼットに仕舞ってあり、それを持ってきて、手を繋いで風呂まで連れて行った。
「一人でれるな? 心配なら俺も一緒にるけど」
「へいき。このガーゼ、取っちゃっても」
「ああ、上がったら消毒してやるから濡れてもいいよ。ゆっくりあったまっておいで」
菜胡が風呂にっている間、棚原は大原に電話を掛けた。
「夜分に申し訳ありません、棚原です」
『先生聞いたわよ! 菜胡はどうしてるの?』
話から聞こえる大原の聲が大き過ぎて、思わず耳から遠ざける。菜胡は自分の家に連れ帰ってきていること、落ち著いてきたから風呂にらせている事を話した。続けて、何が起きたのかをわかっている限りで伝えた。
『どうして菜胡が――』
それは棚原も知りたいことだった。菜胡は誰かに恨まれるような子ではないからだ。明日日曜の様子次第になるが、と付け加えた上で、月曜は休ませたい事も告げた。
『そうね、そうしてちょうだい……外來のほうは何とでもなるから。こずえちゃんにでも來てもらうわ。心配しないで。それと、明日、あたし淺川のところへ行ってみようと思うのよ』
「彼がやはり関わってるんでしょうか」
『わからない。それを確かめなくちゃ』
「すみません、お休みのところを」
『それから先生と菜胡の関係も聞いたわ』
「大原さんにはちゃんと報告したかったけど――」
『婚約っていうのはどういうことなの』
「あ、それは……」
自分が不信だったこと、避け目的でダミーの指をしていたこと、菜胡に一目惚れして自分からアプローチしたことを話し、婚約の話は、奴に不倫だろうと大きな聲で言われたから咄嗟に吐いた噓だと話した。
「だけど僕は噓にする気は無くて、いずれって思っています。だからダミーの指の片割れは菜胡に渡してあって」
『そういうことだったのね、わかったわ。菜胡が最近良い顔するようになったのは先生のおだったのね』
パタン、と扉の開く音がして、菜胡が風呂から戻ってきた。
「あ、菜胡が出てきました、代わりましょうか」
菜胡に電話を渡す。
「大原さんだよ、心配してくれてる。話せる?」
こくん、と頷いて、棚原から電話をけ取った。
「おっ大原さん――」
電話を耳に當てたまま嗚咽をらす菜胡を、後ろから抱きしめる。
『大変だったわね、いま痛いところはないのね? いつも土曜は一人にしてごめんね』
「どこも痛いことはなくて――」
『また電話ちょうだい? 元気な聲を聞かせて。それじゃあね、電話切るわ。先生に甘えてゆっくり休むのよ』
通話の終わった攜帯をけ取って、ソファの前に座らせた。自は菜胡の後ろのソファに腰掛けて、持ってきたドライヤーで菜胡の髪を乾かしてやる。足の間にちょこんと座る菜胡の、背中の小ささを改めてじて、自分でもここまでに対して溺する日が來るとは、とつくづく思った。
とは総じて噓吐きで計算高くて面倒くさい。見た目に拘り、自の見栄えの為ならびる事しか頭にない生きと思って信用せず拒絶してきたが、菜胡はそんな棚原の心の中にスーッとってきた。
初めて會ったあの日、その匂いに惹かれ本能のままに口付けた。その瞬間に菜胡にをした。離したくない。この腕に閉じ込めて誰の目にもれさせたくない。自分のものにしたい。大事に、したい。自分からにそういうを抱いたのは初めてだった。
「よし、いいだろ」
サラッと乾いた髪を慈しむようにでる。
「ありがとう」
振り向いて棚原の手からドライヤーをけ取り、コードをまとめだした。小さな手で用に長いコードをくるくると巻いていく。それが終わるのを待って、膝の上に抱き上げた。
「膝、どう?」
「痛みはないです、出もしてません、ほら」
ズボンをまくって膝を見せる。
「ん、大丈夫だな。このまま乾燥させればいいだろ」
まくった裾を直しながら、菜胡がつぶやいた。それはとても小さな聲だ。
「あとで、ゴミ袋もらえますか、白とストッキングを棄てたいんです」
「ん、わかった。白は洗い替えもあるの? 大丈夫?」
「あります、リネン庫に屆いてるはずです。……私、知らないうちに淺川さんを追い詰めてたんでしょうか」
白の汚れは洗えば落ちる。だが、それを著ていた時の記憶は、何度洗って汚れが目立たなくなっても記憶に殘り続ける。ならば、それを思い出すは手放してしまえばいい。幸い、替えはあるというから問題ないはずで、棚原もそれがいいと思った。菜胡の心をすものは砂つぶ一つたりとも遠ざけたい。
菜胡の頭を自分のに押し當てる。
「菜胡はちっとも悪くない。あいつが弱かっただけだ。菜胡のせいじゃない」
その晩、菜胡は棚原に抱きついたまま眠った。夜中に聲が聞こえた気がして目を覚ませば、隣に寢ている菜胡がうなされていた。額には汗が浮かんでいて顔をしかめていた。
――夢を……見ているのか?
「う……やだ、や――」
唸り聲をあげる菜胡の手を握ってやる。額の汗を拭き取ってから、タオルケットごと菜胡を抱き寄せた。しばらくは強張っていた全も、棚原の匂いに気がついたのか呼吸は靜かに整って、強張っていたも解れた。
安心できるはずの部屋の前で待ち伏せされ、その者から微塵も思ってない事を言われたのだ。揺もしたろうし逃げた先で追いつかれた恐怖は相當だったろう。想像するだけでが苦しくなる。格も違う男に迫られた恐ろしさはたった數時間で消えるものではない。もしあの時、食堂に行っていなかったら、菜胡はあいつによってどこかへ連れて行かれていたわけで、そんなのは考えたくもなかった。今こうして腕の中にいる菜胡を抱きしめた。もう菜胡を泣かせない。守る。
翌日曜のこと。朝、起きてきた菜胡の顔がいつもよりポヤッとしている事に気がついた。
「なんだか、頭がポーッとします……」
「熱測ってごらん?」
思っていたより熱があった。心労がたたっての事だろうか。ホットミルクを作ってやり、ベッドへ寢かせた。家には病人に向いてる食べが一切無い事に気がついて、コンシェルジュに相談した。
「一四〇二の棚原です、実は――」
このマンションにはコンシェルジュが常駐しており、荷のけ取りやこういった買いなど住人の暮らしのサポートをしてくれる。しばらくして訪いを告げる音がした。屆けてくれた袋には、みかんゼリー、プリン、インスタントのスープ類、スポーツドリンク、レトルトのお粥、鍋焼きうどん、りんごジュースなどがっていた。その中からプリンを選んだ菜胡は一つをぺろりと平らげて、棚原から渡された解熱剤を飲んだ。
「すみません、せっかくのお休みなのに」
「いいんだ、菜胡と居られるから。し眠ったらいい」
「紫苑さん、みかんゼリー凍らせといてください……あと、ぎゅってして……」
「ふっ、甘えため。ゼリーは凍らせるんだな、わかったよ」
布団から出ている腕を布団の中にれてやり、布団ごと抱きしめた。菜胡はし不満気だったが、発熱している者に無を働くわけにはいかず、おでこへの口づけで我慢してもらう。
「好き……紫苑さん、好き」
「俺も菜胡が好きだよ。し眠りな、また様子見に來るから」
「ん……」
菜胡を寢かせ、部屋の掃除と洗濯を済ませて、晝食を食べた後で大原に電話を掛けた。
「棚原です」
『先生、菜胡はどんな様子?』
「昨夜は何度かうなされていました。今朝は発熱しまして、薬を飲ませましたけど……」
うなされていた事と、今朝の発熱を話した。
「みかんゼリーを凍らせておけって」
『あの子好きなのよ、それ。聞いたことあるわ。熱が出るといつも食べていて、の中から冷えていくのが気持ちいいって』
「はは、それでかー。……淺川の方はいかがでしたか」
聞きたくはないが、聞かなければならない。菜胡をこんな目に遭わせたの話しを。
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