《夜明けを何度でもきみと 〜整形外科醫の甘やかな〜》3
仕事を終え寮へ戻ってきたら、部屋の前に知らない醫師が居た。名前を聞かれたため答えれば、笑顔で「遊んでしいって聞いた」と言ってきた。耳を疑った。棚原と付き合っておりそんな事頼むはずがないし、付き合っていなかったとしても頼むわけがない。ここにいてはだめだと、踵を返した。どこか逃げ込める場所、と走りながら考え、食堂を思い出した。
――おばちゃんのところ……!
走った。けれど足が重たくてなかなか前に進めない。モタモタしている間に、醫師はどんどんと距離をめ近づいてくる。心の中で必死に棚原の名を呼んだ。
平時では躓かないような段差に足を取られてしまった。あとしでおばちゃんのいる食堂なのに、と思いつつ、ばされる腕に恐怖を覚えた。強く腕を摑まれ、連れて行かれそうになるところを必死で抗った。
「やだ! 離して!!」
――紫苑さん! 紫苑さん!
上がる息、じっとりと汗ばんだ額。目に映る室の様子から、棚原のマンションに居るのだとわかった。棚原の匂いがして、暖かく力強い腕に包まれていた。
「どうした、夢を見た? 大丈夫だよ、菜胡、大丈夫だ」
聞き慣れた優しい聲が耳に屆いた。菜胡を覗きこむ包む全てが優しく、ホッとした。
週が明けて月曜、菜胡はまだ微熱を発していた。うなされる事は無くなったが、外へ出たがらなかった。
「行ってくるね。コンシェルジュには誰も通すなって言ってあるし、もし何かあったら、菜胡の事も話してあるから困ったら相談して、だから大丈夫」
玄関でこくりと頷く。
「すみません……外來、大変になるよね」
「大原さんの人脈で何とかなる。菜胡はゆっくり過ごして、時間が空いたら電話するから。また笑顔でおかえりって言って? 俺それを楽しみに帰ってくる」
「ん。行ってらっしゃい、紫苑さん」
病院へついて、車から攜帯で菜胡に電話をかけた。話をしながら醫局へると、陶山と目があった。近づいてきて、耳打ちしてきた。
「淺川が昨日付で解雇になった」
即日で解雇とは。
「正しくは本人が辭表を提出して昨日のうちに故郷へ帰ったそうだ」
隨分と思い切りがいいのだな。
棚原は、淺川という人のことを、あまり知らない。病棟で関わるだけだから、即日で辭表を書くほど潔い人だとは思わなかった。
正直、菜胡をあんな目に遭わせた彼には文句の一つも言ってやりたかった。簡単に赦してなどやるものか。そう思っていたのに、目の前から姿を消されてはもうどうしようもできない。
「そうですか……わかりました。彼のほうは?」
「大學病院へ戻した、あちらで鍛え直してもらう。當直のバイトも當然、解雇だよ。簡単に決めてたわけじゃないけど、次からはもっとよく人を見ないとだめだし、考えないとだめだ……。今回のことは彼を起用した僕にも責任がある。君たちには本當に申し訳ないことを――」
頭を下げようとする陶山を制する。
「やめてください、陶山先生」
菜胡は無事だった。心に傷は負ったかもしれないが、謝られても傷は消えない。
「彼は……落ち著いたか?」
「夕べはうなされて。今朝は発熱もしていたので休ませましたが」
二人揃って醫局へる。それぞれ荷をロッカーへしまって鍵をかけた。
「そうか……まあ君が居るなら安心だが、心許ないなら俺が診るけど?」
「ご冗談を」
「ははっ、安心してくれ、邪魔はしないと誓う。だが、本當に何かの時は頼ってくれ」
「ありがとう、陶山先生」
菜胡を自分にくれ、と言ってきた時の、好戦的な陶山はもういなかった。あの時の彼もまた、淺川に影響されていたのだろう。
* * *
棚原は九時よりし早くに整形外科外來へ向かった。廊下には數人に患者が既におり、足早に彼らの間をって診察室にれば、樫井が既にそこに居た。醫局に姿がなかったわけだ。
樫井は大原から土曜の話を聞かされていたらしく表が堅かった。
「棚原くん、おはよう。いま大原さんから聞いたところ。大変だったね、菜胡ちゃんの様子はどう?」
「今朝も微熱でした、明日には出勤できるかと」
昨夜はうなされていたことも伝えた。夜中に聲をあげていた姿を思い出した。額には汗が滲んで、息も荒かった。抱きしめて聲をかけてようやく落ち著いたのだ。
「……それより、いつの間に菜胡ちゃんと〜!」
樫井が、本題はこっちだ、といわんばかりに笑顔で言ってきた。
「すみません黙っていて。まあお互いにほぼ一目惚れでした」
照れ臭そうに樫井に話す。
「やっぱりよくないでしょうか、醫師と看護師は」
別にいいのではないか、樫井は言ってくれた。
「僕は反対しないよ。二人なら仕事に差し支えなく理を保てるだろうから。ただ上の方は、もしかしたら菜胡ちゃんを異させるかもしれないな」
「そうですか……同じ部署でっていうのもアレですもんね」
大原は二人にお茶を淹れ、診察開始まであと十分ある事を確認した。
「先生方、診察前にあとしよろしい? 淺川の事なんだけど」
* * *
日曜、大原に淺川は言ってきた。
「大原さん、あたし辭めます……菜胡に合わせる顔がないし、皆さんにご迷もお掛けして、もうここで働けません。明日の院長の沙汰を待たなくてもいいですよね」
「辭表、書くの?」
頷いて、その場で辭表を書いた。部屋の中を見回して、必要最低限なものだけをキャリーバッグに詰め込んでから実家へ電話をかける。
「お母さん? 恭子。これから帰る。ううん、病院辭めるの。うん、詳しい事は帰ったら直接話すから。はい、また連絡するね」
「いいの?」
大原に付き添ってもらって病棟へ顔を出した。看護部長と、騒ぎの報告をけた病棟の師長に向き合って辭表を差し出し頭を下げた。
「ご迷をお掛けして申し訳ありませんでした。突然のわがままをお赦しください。故郷に戻って、一からやり直します」
師長は大原を見る。眉を下げ、小さく首を橫に振った大原を見て引き止めは無理だと悟った。
「あんたがした事は赦されない事。それを忘れてはだめ。けど、あんたの仕事に対する姿勢は私たちもドクターたちも評価していたの。そこも忘れないでいて。ここでの経験はあんたの寶。顔をあげて、地に足を付けて、しっかりやりなさい」
師長に頭を下げたまま言葉を聞く。背を屈める淺川の肩を抱いて來たのはいつも連んでいたナースだった。涙目の彼は淺川の頬を軽くペチペチと叩いた。
「淺川、愚癡溜まったらメールちょうだい。ちゃんと吐かなきゃだめ――気づいてあげられなくてごめん……」
ひと通り挨拶をした淺川は、病棟の非常階段から外に出た。キャリーバッグの取っ手を握る。
「大原さん、ありがとうございました。お世話になりました。こんな形で――」
淺川をふわりと抱きしめる。
「時々連絡くれなきゃだめよ、待ってる。菜胡への手紙は時期を見てきっと渡す。部屋の事と事務手続きは明日以降、事務から連絡が行くと思うから、困ったらあたしに相談して。ける範囲で手助けするから」
「ありがとうございます。お願いします……」
淺川は院長らの判斷を待たずに退職した。一連の騒ぎを起こした事を謝罪する手紙と共に辭表を病棟の師長へ屆け、その足で故郷へ帰っていった。
彼の故郷は四國にあり、地元に帰れば看護學校時代の友人も多くいる。今回は菜胡への嫉妬から足下を崩してしまったが、本來の彼は怖じもせず自信に溢れた気持ちの強い子だ。
病院の敷地を出ていく彼の後ろ姿を見送りながら、一年目、悔しそうな顔で大原の小言を聞いていた表を思い浮かべた。手際が悪くて樫井にダメ出しをされていた淺川、患者から話しかけられて夢中になり過ぎ、大原が手を引いて連れ戻した時の淺川。どの淺川も一生懸命だった。菜胡が憧れたのも、そんな淺川だったのだ。
「がんばんなさいよ……」
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