マノン――それは王國では、伝説の悪の名前として知られている。

けして悪人でなかった。策謀を巡らせ、誰かを陥れたわけではない。彼は常に、されてしていただけだった。

だがおかげで結構な人數の男と、その関係者のを不幸にした事実は否めなかった。

そしてついには、王國一とも呼ばれるスキャンダルを巻き起こし――報いをけて斷罪された。

平民からあやうく王妃まで上り詰めかけたそのドラマティックな生涯は、一代り上がり記、及び沒落記として、庶民には非常に人気の題材であると聞く。

一方で、王國の貴族階級では、マノンの名前はタブー中のタブーだ。何ならマから始まる名前を児につけることすら、相當忌避されていたぐらいである。

マノンはふわふわした桃の髪に、魅的なまなざしだった。きらきらして吸い込まれそうな、非常に印象的な緑の目を持っていたのである。

元々は、田舎の村娘に過ぎなかった。だがの頃から憾なくされる才能を発揮した。その結果、十六の年には、男爵令嬢として社界に出てくることになった。

洗練された男揃いの宮廷でも、マノンのらしさは飛び抜けて目立ったらしい。

その緑の目に見つめられたが最後、誰もが夢中になってをささやかずにいられない――そういうだったと聞く。

だが、マノンには欠點として、事を深く考えない質があった。おまけに倫理観が欠如していた。

天使のような見目のは、自分を気持ち良くしてくれる存在であれば、誰でも本気でした。

一応かろうじて年齢の下限制限はあったようだが、老若は十代から死にかけの老まで、男はどちらでもNGなし、分？　気にしません。見た目？　多様っていいわよね。配偶者？　にそんなもの必要でしょうか――まあそんなじで、本當に徹底した來る者拒まず主義だったらしい。

たとえそこに悪気や悪意がなかろうと、癡のもつれメイカーと言えよう。

彼を巡ってののさや當ては次第に過激さを増していき、ついには「結婚するために今の地位・分を捨てる」と言い出す男まで出てきた。

よろしくないことに、このうちの一人が王子殿下であらせられた。しかも次期王候補として、最も有力視されていたお方だった。

そしてさらにまずいことに、彼は階級國家たる王國の頂點に立つ男のくせに、田舎の元平民との婚姻に対して、かなり本気だった。王妃として迎えられぬならと、駆け落ち計畫まで練るほどに。

関係者はこの灑落にならない大を知ると、まあ當たり前だが激怒した。

そしてさるやんごとなきお方が、一言おっしゃられた。

「いい加減あのピンクに引導を渡す時期では？」

――こうして王國を揺るがせた悪は、華やかな世界から追放されることになった。非常に評判の悪い貴族との、即時強制結婚という形で。

破廉恥の人生の墓場に選ばれたザンカー伯爵は、年アラウンドフィフティーのご老だったらしい。冷徹で殘忍な格をしており、おまけに病が原因で、化けじみた容姿をしていた。人間不信の彼は金と権力に任せて何人かのと結婚したが、いずれも長続きしなかったそうである。

マノンはそんなお手本のような悪徳貴族に無理矢理嫁がされ、散々なぶられた後、誰にも知られずに衰弱死した。

これが表向き、というか庶民に伝わっている悪マノンの語の最期、である。

しかしこれは誰かが面白おかしく広めた噂であり、事実は々異なる。

何しろこの親子以上に年の離れた夫婦、誰にも予想できなかったことであるが、存外うまくいってしまったのである。

“気持ち良いが正義”がマノンの宗教だったことはもう述べたが、世間的に見ればどう考えても“あり得ない”ザンカー伯爵すら、マノンにとっては“せる人”の範囲に余裕で収まっていたらしい。

偏屈老人は、嫌悪や嘲笑等、負のを向けられることには慣れていたし、財産や権力目當てのおべっかにも耐があった。が、ガチ猛アタックには、免疫が皆無であらせられたらしい。

最初こそ新妻いじめにを出そうとしたが、半年後にはすっかり、メロメロのデロデロになっていた。人里離れた場所に夫婦専用の別荘を建て、最低限の使用人だけに世話をさせるほどに。

そこは老いてもさすがの切れ者系悪徳貴族、悪を貞淑な妻にさせるには、理的遮斷が最も有効と理解できていたのだろう。他に選択肢がなければ、マノンは実に一途な妻だった。

察するに、庶民の間でマノンは死んだ、という説が広まったのも、ザンカー伯爵が流布していたのでは？　と推測される。彼は外界を隔絶することで妻と自分を守り、幸福な理想郷を築いた。

だがここで、年の差夫婦めでたしめでたし――という終わりにもならないのだ。もうしだけ悪の語は続く。

つかの間の平穏から數年後、ご老はまだ二十を過ぎたばかりの妻を殘し、眠るように息を引き取ってしまった。元の不摂生がたたったのか、妻との幸せすぎる生活で力を出し過ぎたのか。

何にせよ、若すぎる未亡人のみが取り殘された。夫の莫大な財産と共に。

だが彼はこれ幸いとばかりに華やかな社の場に戻ってくるかと思いきや、夫が與えた僻地の別荘にこもりきりだった。

一つ。マノンは王國貴族階級では、社會的に殺されたである。これはもし萬が一マノンが社界に復帰しようものなら、次は本當に命を狙いに行く、という意味合いでもあった。ザンカー伯爵はその旨しっかりと、妻に言い聞かせてはいたのだろう。

だがもう一つ。これが悪が大人しかった最たる理由になる。

かに未亡人を口説きに來てそのまましれっとしけこむ、そんな不屆き極まりない夜這い人にきりがなかったのだ。喪中だったにも関わらず。ザンカー伯爵は草葉ので泣いていたに違いない。

さてれ替わり立ち替わり男が通ってくるタイプの引きこもり生活を続けた何ヶ月か後、未亡人はようやく自分のの異変に気がついた。ご懐妊である。

誰の子か？　父親自はもちろん、マノンだってわからなかった。何なら期間的に、ギリギリ亡夫の執念の果な可能すらあった。

さらに半年ほど時が経過し、マノンは無事に出産を終えた。

……おわかりいただけるだろうか。

そう、この悪が産み落とした父親不明の一人娘こそ、わたくし――シャリーアンナなのだ。

わたくしは概念上の父であるザンカー伯爵と同じ黒髪を持ち、そして母からは緑の――翡翠の目を継いだ。

ただ、それ以外は両親のどちらにも似ていない。

ゆるふわ系稀代の悪を母に持つ娘――これほど生まれてくる環境に恵まれないことってあるだろうか。割と生まれた時點で人生詰んでる。

ただ不幸中の幸いだったのは、マノンに理想的な母親でない自覚があり、かつ彼が苦手分野を外注するという選択肢を知っていたことだろうか。

わたくしはすぐ養子に出され、シャリーアンナ＝リュシー＝ラグランジュという名を與えられた。

そして心ついた頃、たまーに會う一見綺麗で優しいお姉さんこそ、自分の真の母親であると悟ったのである。

「ほーんと、全部似なきゃ良かったのに。見た目も、中も本當によくぞこれだけってぐらいいいのにさ、これだけはあたしから持って行っちゃったのよねー」

そうわたくしの目元を指さしてころころ笑った、悪のうっかり発言によって。

そして思考停止したわたくしを、天真爛漫な稀代の悪はおしそうに抱きしめて面會室を出て行き――それが彼を見た最後になった。

數日後、別荘近くの川に落ちたらしい。

死は今も見つかっていない。本當に死んだのかも定かではない。

――だから、翡翠の目はずっと嫌いだったし、見るなと言われる度にそうですよね、と同意しかなかった。

ずっと俯き続けていたのは、誰かがいつか、「これ、マノンと同じ目のじゃない？」と言い出すのが怖かったから。

母はあっけらかんとした人だった。誰に後ろ指を指されようと、きょとんとして、ころころ笑って――どんな悪意を向けられたとしても、「でも、あたしはあなたのこと、好きよ？」とにっこり微笑んで本心から答えられる才能。だから誰からもされたのだろうと、心にもわかる人だった。

わたくしは違う。

四方八方から悪の娘と指さされる人生は、耐えられない。

ラグランジュ家の娘でほっとした。何者でもない自分で良かった。目立たず、騒がず、誰にも注目されず――それで良かった。

それで良かったと、思っていたのに。

あの日、階段から落ちて、人生がひっくり返った。