《代わり婚約者は生真面目社長に甘くされる》29
晝食はまるでを通らず、出張扱いで私は會社を出た。
あそこに行くならもうしかっちりしたものを著てきたのに……抜き打ちみたいなことをするのはやめてほしい。
どんよりとした気持ちで電車に揺られ、最寄り駅につく。
駅から徒歩十分。空に屆くのではないかと思うほど高いホテルがそびえ立っていた。外観に比例してお値段も結構する。プライベートでは絶対に泊まれない。
スーツ姿の人たちが何人かホテルにっていく。チェックインにはまだ早いが、會議室もあるのでその関係者だろう。ドアマンの視線をじながらその後ろをこそこそとついていった。
フロントまで出來るだけ気配を殺しながら近寄る。
「あの……本條あやめです」
すでに話は行っていたらしく、「お待ちしておりました」と深々と禮をされた後にエレベーターまで案された。
そこまでうやうやしく接しないでもらいたいが、それは私が本條家ゆえにしかたのないことなのだろう。荷を持ってもらうことも苦手だったりする。
エレベーターでスタッフの人と気まずい時間を過ごした後、支配人室のある階で降りる。通常は行けない。普段は隠してあり、鍵によってこの階が出るようになる作りだ。
かえでくんはこういうのが好きだったな、となんとなく思い出す。
「ありがとうございます。ここまでで結構です」
スタッフの人を下がらせると、支配人室前で深呼吸する。――よし。
ノックをした。
「こんにちは。本條あやめです」
「りなさい」
い聲音。私はとっつきにくい雰囲気の彼が苦手だった。子供時代はどのように接していたのだろう。
「失禮いたします」
父親を前にするときとはまた違った張をじながらドアを開ける。
正一郎おじさんがデスクに座ってパソコンを眺めていた。室すると彼は視線をあげる。
「突然だったが、よく來てくれた」
本家當主に呼ばれたら行かざるを得ないでしょう……というのは呑み込んだ。
すでに背中に汗をかきながら次の言葉を待つ。
「つばきは、どうやら海外に行っているらしい」
「……そうなんですか」
初耳のような態度をとる。自己保だ、つばきを庇うつもりはない。
この人を前に、ニュージーランドに行っているようですよなんて口が裂けても言えないし。
「旅行客の滯在日數は90日だ。その気になれば、つばきは二か月後まで戻ってこない」
「……」
私も羊と戯れながら三カ月ぐらいのどかに過ごしてみたいなあ……。
遠い目をしながらおじさんの話を聞く。
「幸いにも他の家のものにはバレていない。『つばき』が婚約していることも知るものはいない」
そんなことだろうとは思っていた。
おそらく、つばきの縁談の話はごくごく一部にしか伝えられていないのだろう。
本家に婿りすればホテル支配人の義理息子という分が手にる。つばきと結婚したい人は実は多くいる。
お見合いをする――ということは、正一郎おじさんのお眼鏡に適った人が選ばれたという事だ。それが、悠馬さんだったということだ。縁談がまとまる前に夫の座を狙っている人たちに邪魔をされる可能もある。だから、つばきの結婚までの話は周りにシークレット狀態だったとしても驚かない。
私だって一応は社長令嬢なので言い寄られることは多々ある。なので、逆玉の輿目當ての男を警戒している正一郎おじさんの気持ちは分からなくもない。
……でも、縁談前ににげられているんだよねえ、娘に……。
「それまで持たせてほしい」
「……可能な限り、そうしましょう」
簡単に言ってくれる……。
私はスパイでもなんでもないただの26歳のだ。あまり期待を寄せられても困る。
「まだつばきではないと見破られてはいないか?」
「ええ、大丈夫です」
もうすでに見破られているけど。
「ずいぶんと鈍な男のようだな」
「――私に関心が薄いようなので」
一瞬いらっとしてしまったが、我慢した。
ここで悠馬さんへの評価がされても彼には薬にも毒にもならない。を出すだけ無駄だ。
「そうか。関心が薄い、か」
直でまずいとじる。今の言葉で、足をすくわれた。
冷汗を出す私を前に、正一郎おじさんは寫真を取り出した。
そこに映っていたのは――服裝からして昨日今日の私と悠馬さんだ。
「な……」
どういうこと?
困する私を前に、淡々と正一郎おじさんは言う。
「急ごしらえの舞臺だ。懸念していないわけではないんだよ、あやめ――」
目が合う。氷のような冷たさを孕む瞳に、呼吸が苦しくなる。
「この寫真は――?」
「記念撮影した記憶はないだろう? こちらで探偵を雇った」
「どうして」
「代わりとしての役割を全うしてもらいたいからだ」
極度の張で、傷痕が痛む。
助けてほしかった。誰に? 分からない。
「だから、つばきの代わりたる君が香月悠馬にを抱いては困るんだよ」
「……分かっています」
「なら、この表は演技ということでいいんだね」
印刷された私は、幸せそうに笑っている。こんな顔をしていたのかと驚くぐらいに。
多分、探偵から寫真を渡されてすぐに私を呼び出そうと思ったのだろう。娘の代わりが婚約相手と仲良くしているのを見て、かないわけにはいかなかったはず。
「――はい。もちろんですよ」
ぎこちなく私は笑う。
どうにか乗り切らなければ。
「ならいい。もうし辛抱してくれたら、君の実家への融資も行おう」
「……ありがとうございます」
平然と人質渉をしてくる……。立場がはっきりしているからこそ、だろう。今の私は風が吹けば吹き飛んでしまうぐらいに弱い。
「今回は何も伝えずこのようなことをした。君も驚いたことだろう」
「……」
今回『は』。
その意味を分からないほど私はバカではない。
「これからも時々、君たちの関係を調査してもらうことにする」
――やっぱり。
「監視をするんですか? そんなに私が信用できませんか」
「これは本條家の未來にも関わってくることだ。保険は必要だろう」
じゃあつばきを逃がさなければよかったのに。
あの子はあの子なりに念な準備と計畫を立てていたのだろうけど。
「やましいことがなければどうということはないだろう?」
「……」
「これからも君の働きに期待しているよ。――『本條つばき』」
「……失禮します」
震える手を隠しながら退室する。
痛む肩を押さえ、寒気のするを引きずって歩く。
はるか遠くの國の羊たちを思う。のんびりと草原で草を食んでいるだろう彼らを想像し、ひどく羨ましい気持ちになった。
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