《代わり婚約者は生真面目社長に甘くされる》41
『つばき姉さんが帰って來た』
夜十時半。
そろそろ悠馬さんが飛行機に乗ったころだろうかと考えていた時にかかってきた電話は、私に絶を與えた。
「いつ?」
『今らしい。おれのところに電話がかかってきて、今日本にいるって……』
「つばきは、なんて言っていた?」
『すぐには実家に戻らない。……あやめ姉さんに會うって』
「……」
わざわざ私を指名してきたか。
彼の友人でもなく、親戚でもなく、私。
『これは勘だけど、つばき姉さんは香月さんのことを聞くつもりだ。香月さんは今どこ?』
「出張で、ドイツに行っちゃったばかり」
『噓だろ……』
間が悪い。渦中の本人無しで話が進むのは避けたいが、あの親子はそんなことお構い無しだろうし。
出張中だからといってじゃあ待ちましょうと言ってくれる融通を持ち合わせていたなら、私はここまで苦労することはないのだ。
「……電話、ありがとう。つばきが穏便に帰宅するといいんだけどね」
『あやめ姉さんは大丈夫なのかよ。だって……香月さんのこと……』
私は黙る。
大丈夫だよ、と口にした。
「いずれは來る未來だったから。それが今日だっただけ」
一方的におやすみと告げて、私は息を吐く。
つばきがとうとう……。もうしニュージーランドで遊んでくるかと思っていたんだけど。――あの子が予想できないことをするのはいつもではないか。何をいまさら。
「……どうしよう」
頭を抱える。どうしようもできないけれど、なにか解決の糸口はあるのではないかと探していく。……思いつかない。
リビングにいるウェディングベアに近寄り、抱き上げる。
「私は、悠馬さんと……」
スマホが鳴った。無視してやろうかとも思ったけれど、それが出來たら苦労しない。
ゆっくりと持ち上げディスプレイを見れば、つばきだった。
「……おかえりなさい、つばき」
『ただいまあやめ』
「私、明日も仕事だから手短にお願いするよ」
『そう? じゃ、明日話すわね』
やけに話が早い。もしかしてニュージーランドで人の心でも學んだか。
『予約しとくから謝してよ』
「は?」
電話が切られた。
――予約? 何言ってんのあの子。
しばらくするとレストランの地図が送られてきた。仕事場から三駅。そこそこ高いところ。
私の好みも聞かずに勝手に予約したらしい……。怒るところはそこではないが、もうツッコミどころが多すぎてよく分からなくなっていた。
本當にあの子、帰って來たんだ……。
どっと疲れ果ててベッドにもぐっても深く眠ることが出來ず、寢た気がしないまま朝を迎えた。
〇
翌日。
「つばき嬢がねえ」
給湯室でたまたま伊勢さんと一緒になったので愚癡がてらにつばきの話をしている。
つばきとかえで君のことも小さい頃から知っているので會話がスムーズだ。
これまで家出していたつばきが突然會いたいと言い出した――といった旨しか伝えていないが、それだけでも十分のようだった。
「あやめ嬢は一発毆ったほうがいいんじゃない? おかえりついでに」
それはまずいだろう。
あと、あやめ嬢ははずかしいからやめてって言っているのにプライベートの時はまだこの呼び方である。
「おじさんの反応が怖いですよ……」
「泣いても喚いても自分の思い通りにならないことがあるってことを教えてやらなかったのが悪い」
「まあ……」
伊勢さんはお菓子を分けてくれた。
「案外、あやめ嬢がガツンと言ってやればショックをけるかもね。それにしたってどうしてつばき嬢は帰國して早々あやめさんに會いたがるんだろう」
「なんででしょうね……」
「ぜったいろくなことではないから気を付けなさい」
「それはもう、仰る通りですね……」
小さい時からつばきが私を巻き込んでろくな目に遭ったことが無い。私がある程度まで寛容だったのがいけないのだろうか。同い年だけど育て方を間違えたという反省をしてしまう。
給湯室に人か來る気配がして、私たちは本來の仕事に戻る。
「ところで本條さん、未だに有給の申請が來ていないのだけど?」
「ひぇ、すいません。出します」
有休どころではないとはいえ。
やっぱり溫泉行きたいなあ。どこでもドアで、悠馬さんと合流して溫泉にいけたらどんなに素敵な事だろう。などというミラクルクエスチョンを頭に浮かべながら、私は業務に戻っていく。
平常心を心掛けてもつばきと會うまでの時間をカウントダウンしてしまう。
これあれだ、悠馬さんと初めて食事に行くときの心境に似ている。どうかいつまでも仕事の時間が終わりませんようにと祈っていた。悠馬さんとの間柄がこんなにも変わっただなんて當時の私が知ったら驚くだろうな、などと現実逃避をする。
だけど、無にも退勤時間になった。ため息じりにタイムカードを押す。
――さあ。ある程度の覚悟を決めなくては。
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