《お久しぶりです。俺と偽裝婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~》3. 偽裝婚約、ってやつです(2)
珍しく定時通りに職場を飛び出した葉月を待っていたのは、濡れたようにる黒のクーペと、そのそばに立った朔也だった。
「お疲れ様です。乗ってください」
スマートに助手席側のドアを開けられ、「え」とも「あ」ともつかない聲が口かられる。
──な、なんで乗るの? そもそも朔也くんはどうして來たの? やっぱり夢……?
疑問は盡きないが、朔也はじっと葉月を見つめてくる。
有無を言わせない態度に、葉月はおそるおそる車に乗り込んだ。
中は思ったよりも広く、見回してもちりひとつ見つからない。
全的に生活がないため、ダッシュボードのドリンクホルダーに日本茶のペットボトルがっているのが妙なじだ。
ほのかに新車の匂いもするし、革張りの大きなシートは高級そうで、座っていいのか戸ってしまった。
「お待たせしました」
遅れて、朔也が運転席に腰を下ろす。
ジャケットのボタンを外し、慣れた仕草でシートベルトをつける姿は、いかにも大人の男らしかった。
背が高いせいか細に見えたが、スーツを著ていてもわかるほどつきがたくましい。
──當たり前だけど、もう昔の朔也くんじゃないんだ。
──あの頃は可かったのに、今はものすごくかっこいい。寫真で見たより數萬倍も……!
「……怖がってます?」
見とれていたら急にこちらを向かれ、葉月はびくっと肩を跳ねさせた。
「う、ううん、びっくりしてただけ。久しぶりに朔也くんと會えたから……來てくれてありがとう、嬉しいよ」
葉月が笑いかけると、「ならいいですけど」と朔也が前を見る。
──あれ、なんか冷たい?
昔から朔也はあまりを表に出さないタイプだったが、より無想になっている気がする。
──喜んじゃまずかったのかな。でも、それならどうしてここに……。
葉月は困しつつ、シャープな線を描く朔也の橫顔を見つめた。
朔也が數秒黙ったあと、もう一度葉月を見る。
視線がかち合い、彼の黒い瞳がしだけ揺らいだ。
だが、乏しい表からは何も読み取れない。
「葉月さん。俺がここに來たのは、あなたに頼みたいことがあるからです」
「私に……?」
「はい」
朔也は頷き、中指で眼鏡のブリッジを上げた。
「俺と婚約してください」
唐突すぎる臺詞に、葉月の思考が止まる。
「え……?」
「必要なんですよ、あなたが。理由は走りながら話します。シートベルト著けてください」
朔也が葉月を振り切るように前を向き、車を発進させる。
高級車らしい靜かでなめらかな乗り心地だったが、葉月はそれを楽しむどころではなかった。
──こ、婚約……!? 朔也くんが、私と!?
──もしかして約束を思い出してくれたの? 私を迎えに來てくれたんだ……!
心臓が激しく震え、驚きと喜びで頭がぐちゃぐちゃになる。
そのせいで、朔也のい表にも気づけなかった。
「俺の祖父を覚えてますか?」
「う、うん」
尋ねられ、ぱっと記憶が蘇る。
朔也の祖父。裕福で聡明でしく、気さくなおじいさん。
「ヤクザなんだから関わるな」と母に何度も叱られたが、葉月は彼が好きだった。
「俺があの人の産をけ取るためには、許嫁である葉月さんと結婚しなければいけません。なので、あなたには俺の婚約者のふりをして家族旅行に參加してもらいます。偽裝婚約、ってやつです」
再び言葉の弾を落とされ、葉月は固まった。
「ぎっ、偽裝婚約……?」
「ええ、でも旅行の間だけで構わないので安心してください。そのあとは生前分與で必要な分だけ巻き上げて、俺から別れたことにします」
「朔也くん、それって……」
「話は最後まで聞いてください。まだ重要なことを言ってませんから」
「え、まだ──」
「あなたのお祖父さんは俺の祖父に多額の借金をしています。許嫁と言えば聞こえはいいですが、葉月さんは家同士の借金のカタなわけです。従ってくれないなら、相応の金を払ってもらうことになる」
朔也が運転を続けながら、さらりと告げる。
特大の弾が炸裂し、葉月の頭は真っ白になった。
「逆らわないでください。引退はしましたが、祖父は法の外にいた人ですから」
「……そんな。噓、だよね……?」
「俺が噓をつくためだけに會いに來ると思いますか? 俺はね、金が必要なんです」
靜かに問い返され、言葉が出てこなくなる。
五年前に亡くなった母方の祖父は競馬好きで、いいかげんな格だった。
葉月たちが田舎にいたときは一緒に暮らしていたが、葉月は祖父に正しい名前で呼ばれた記憶がない。
正直なところ、隠れて借金をし、どうでもいい孫娘を擔保にしていてもおかしくはない人だ。
「許嫁のことも借金のことも知らなかったんですね。俺もです。うちのジイさんがつい最近言い出して……でも、借用書は殘ってますよ。見ます?」
葉月は無言で首を橫に振った。
借金の件もショックだが、それ以上の落膽に襲われる。
朔也が會いに來てくれたのは、葉月が期待した甘酸っぱい理由ではない。
葉月を共犯者に仕立て上げ、産を手にれるためだったのだ。
「大丈夫ですよ。しばらく協力してくれれば借金は帳消しにするし、あなたも解放する。協力してくれれば、ですが」
冷淡な聲が葉月をさらに突き落とす。
涙さえ出てこなかった。
朔也に再會できて、プロポーズされて、夢のように嬉しかった。
なのに、実際は。
──……私、今、朔也くんに脅されてるんだ。
の奧が握り潰されたように痛む。
朔也は子どもの頃、葉月のヒーローだった。心優しい正義漢で、いつだって葉月を助けてくれた。
だが、もう違う。それだけの月日が経ってしまったのだ。
「……変わったね、朔也くん……」
葉月が震える聲で呟くと、それまで平然としていた朔也が小さく息を呑んだ。
「昔の話はしないでもらえますか」
朔也が暴に道路の脇へ車を停めてシートベルトを外し、ぐっと葉月へを寄せる。
突然の事態にたじろいだ葉月の後頭部と背中に、大きな手が回った。
「──……!?」
にらかなものを押し當てられたに、目を見開く。
レンズ越しの鋭い視線が、超至近距離で葉月を貫いた。
──え……!?
──こ、これってキス……!?
朔也が顔の角度を変え、またを押しつけてくる。
彼の溫かな吐息や、厚みのあるや肩、シトラスの爽やかな香りを一気にじて、葉月は何も考えられなくなった。
直し、ただ朔也をけれる。
「ぁ……」
を甘く吸われ、らかく歯を立てられると、意思に反してから力が抜けていく。
朔也は葉月の頭をもう一度抱き寄せ、半開きのの側に熱く濡れたを忍び込ませてきた。
ゾクッ、と腰の奧が甘く痺れる。
──……これ、朔也くんの舌……?
遅れて気づくが、その事実はますます葉月を混させるだけだった。
どうしてこんなことになっているのかわからない。
これからどうすればいいのかも、なぜ自分が抵抗できないのかも。
やがて、朔也がゆっくりと顔を離した。
「嫌でしたか」
相変わらずの無表で尋ねられる。
葉月はあまりの衝撃に何も答えられなかった。いつの間にか息がひどく荒い。
朔也は何事もなかったかのように前を向き、運転を再開した。
「いきなり舌れられて嫌じゃないなら、何だってできますよ。あなたにも俺にも利益があるんだから割り切りましょう」
冷たい言葉に、葉月は朔也の行の理由を悟った。
今のキスは葉月を従わせるための手段に過ぎなかった、らしい。
──そんなの、って……。
悲しみと怒りが突き抜けて、呆然としてしまう。
け止めきれなかった。優しかった初の年が冷酷な男に変貌していたことも、自分が彼に利用されていることも。
葉月が絶句したままでいると、車のバックミラーに映った朔也の彫刻めいた顔が苦しげに歪んだ。
──今の、顔。
キス以上の衝撃が葉月の心を揺さぶる。
朔也はなぜか今、ひどく傷ついたのだ。
──……どうして?
──どうして朔也くん、そんな顔するの……?
大切な思い出を踏みにじられ、葉月だって傷ついている。
なのに、その疑問が大きく引っかかった。
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