《お久しぶりです。俺と偽裝婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~》15. の病以外は何でも治せる、か(2)
「……最っ、高……」
石材で築かれた浴槽の中、思う存分手足をばす。
お湯に疲労が溶け出して流れていくような解放に、葉月はほうっと溜め息をついた。
湯加減はし熱いが、その分ひやりとをでていく春の夜風が心地いい。
たゆたう水面に浮かぶから視線を上げれば、硫黃の香りのする湯煙越しにしく手れされた庭が見えた。
月に青白く照らされた桜は幻想的で、妙に傷的な気分にさせられる。
──の病以外は何でも治せる、か。
ふとこの溫泉のキャッチコピーを思い出し、今度は違う意味の溜め息がれた。
──確かに病気みたいだよね。微熱がずっと続いてて、ぶり返しちゃったみたいな……。
自分が朔也にどうしようもなく惹かれているのをわかってはいるが、認められない。
この想いは朔也を困らせるだけだ。
彼を助けたいからと旅行についてきたのに、これでは本末転倒になる。
また溜め息が出そうになった瞬間、ガラッ、と背後で扉が開く音がした。
「えっ……!?」
振り向くと、浴室から長のの男が出てくるのが見えた。
──さ、朔也くん!?
葉月は転びそうな勢いで男へ背を向け、手でを隠した。
ドッドッと心臓が早鐘を打つ。
もう一度振り向いて確認しようか迷うが、勇気が出なかった。
──どうして!? 気づかなかったの? 私、洗面所に浴置いてたのに!
──まずい、すっぴん見られちゃう……いやっ、その前に私もだ! どうしよう……!
ひたひたと濡れた足音が近づいてくる。
葉月の後ろ姿が見えているはずなのに、彼の歩みに迷いはなかった。
そして、ちゃぽ、と音を立てて浴槽にってくる。
「──……!!」
聲にならないびを上げてこまる葉月の近くに、男が腰を下ろす。
彼は、どう見ても朔也だった。
眼鏡はなく、晝間はでつけられていた前髪が濡れてすんなりと前に下りている。
それが目元を隠しているせいで表はよくわからないが、葉月を気にしていないことはわかった。
──な、なんで……!?
驚きすぎて聲が出ない。
葉月はちらちらと朔也の顔を見やったが、何度見ても彼は平然と湯に浸かっていた。
──私が見えてないの? あっ、眼鏡外してるから……ってそんなはずないよね!? 私に気づかないふりしてる?
──いや、もしかして、気づいてるけど気にしてないとか。私のは意識するほどのものじゃないとか!? み、魅力がないから! 本命の彼のスタイルがいいから、私のなんか見る価値もないんだ!
無想なようで紳士的な朔也がそんなことをするだろうか。
そう頭の隅では思いつつも、こじらせた自己肯定の低さと混が渦巻いて暴走する。
──そうだよ、意識してるのは私だけ。朔也くんにとって私は産ゲットのための……!
──…………。
──いや……もう考えるのやめよう。
自分の想像で傷つき、膝を抱える。
こちらも気にしていないふりをしよう、と妙な意地を張って浴槽に居座ってみたが、沈黙に追い詰められただけだった。
うつむくと、水面に月や星、照明のが瞬いて、ゆらゆらと揺れている。
──……何してるんだろう、私。一人でパニックになったり、悲しくなったり。
「景、綺麗だね……」
「……うん」
すべてが馬鹿らしくなって話しかける。
返ってきた聲は珍しく不明瞭だった。違和はあったが、言葉の続きを考えていなかったことに焦ってすぐ忘れてしまう。
「あの、初めはどうなるかと思ったけど、今日すごく楽しかったよ。ありがとう……って、楽しいだけじゃ駄目だよね。明日も演技を──ひゃっ!」
ぼすっ、と途中で肩に何かが乗っかってきて葉月は悲鳴を上げた。
反的に振り向き、さらに心臓がみ上がる。
朔也がなぜか、葉月の肩に頭を預けていたからだ。
「さ、朔也くん……!?」
頭が真っ白になり、聲にならない聲で尋ねる。
だが、返ってきたのは小さな呼吸音だけだった。
「……え? 寢てるの?」
呆然とした葉月の一言に、朔也が眉をひそめて何かむにゃむにゃと呟く。
──もしかして、寢ぼけてたから私に気づいてなかっただけ……?
葉月は一気に力が抜けた。
その途端に肩から朔也の頭が転がり落ちそうになったので、慌ててを抱き留めて支える。
すると、視界に彼の顔が大きく飛び込んできた。
──うわっ! 近い……!
また出そうになった悲鳴を寸前で呑み込む。
朔也は構わず眠っているらしく、れた長い前髪の奧から安らかな寢顔が覗いていた。
近くで見るとより一層迫力のある貌と漂う石鹸の香りに、けなくなってしまう。
艶めかしく濡れた黒髪。男らしく筋張った首筋や肩。
のきめは細かく、睫は長くて濃い。
よくよく見たら、目の下に薄く青い隈があった。
──あ……そっか。疲れて當然だよね……。
今日の朔也は朝早くから車の運転をし、晝も夕方もずっと葉月の相手をしてくれていた。
夕食のあとは、おそらく深夜まで仕事をしていたのだろう。
そこまで朔也が頑張っているのだと思うと、つい彼を支えてあげたくなってしまう。
──寢かせておいてあげよう。ちょっとくらいならいいよね? うん、ちょっとだけなら。
──……い、いや、駄目だ! お風呂にりながら寢ちゃうのってかなり危険だったはず……!
「お、起きて! 朔也くん」
「んん……」
軽く腕を叩いてみるが、朔也は面倒くさそうに唸るだけだった。
「じゃあ、えっと……一緒にお風呂から出よう。立てる?」
「……んん」
肩を貸して促し、なるべくゆっくり浴槽から出る。
湯から朔也のが現れてドキッとしたが、視線をそらして耐えた。
半分眠っているらしくゆらゆらしている彼を引きずり、浴室へ連れていく。
──重い……そうだよね、朔也くん背高いし、さっきちらっと見ちゃったけど全がっしりしてたし……。
──だ、駄目、思い出しちゃ駄目だ! こんなときに不純なことを!
葉月はどうにか洗面所にたどり著き、床へバスタオルを敷いて朔也を寢かせた。
たくましいに別のバスタオルをかけ、頭には濡れたフェイスタオルを置く。
朔也の呼吸は落ち著いていて、もほんのり赤らんでいる程度だった。
危険はなさそうだが、放っておくわけにはいかない。
「お水持ってくるね」
葉月もにバスタオルを巻き、急いで和室へ向かった。
朔也が飲んでいたミネラルウォーターのペットボトルが座卓に置かれていたので持ち帰り、彼のもとにしゃがむ。
「飲める……かな……」
橫になって安心したのか、朔也はすやすやと眠っていた。
すぐに水分を摂らないとまずいと思うのだが、どうしたらいいだろう。
──く、口移し……?
再び不純な考えが頭をよぎり、かっと頬が熱くなる。
──駄目だよ、そんなの! 朔也くん彼いるし、意識ない相手にキスなんて……それに、この勢だとむせちゃう!
──とりあえずちゃんと飲めるように勢を整えて、それから本人を起こして……!
揺のあまり順番が逆だと気づかないまま、葉月は朔也に覆い被さった。
彼の首の後ろと背中に手を回し、上を起こさせようとする。
──あっ、やっぱり重いな……変に力れたらどこか痛めそう。こ、こっちかな? こっちにを寄せれば……!
「……葉月さん?」
聲に顔を上げると、驚きに大きく見開かれた目が葉月を捉えていた。
「朔也くん! よかった、起きられたんだね。大丈夫? 頭クラクラしてない? お水は飲めそう?」
矢継ぎ早に質問する葉月とは対照的に、朔也は固まっている。
彼の視線がゆっくりと下りていったところで、葉月もようやく気づいた。
二人ともほぼで、しかも葉月が朔也に抱きついていることに。
「あっ! そ、その、違うの。これは事故で……!」
朔也から離れて弁解しようとするが、我ながら襲った言い訳のようにしか聞こえない。
──まずいまずいまずい、どうしよう!
鼓が激しく高鳴り、手足が冷たくなる。
朔也を助けようとしたのはもちろん善意だったが、邪な思いを抱いてしまったのも事実だ。
そこを突っ込まれたら、と頭が真っ白になる。
「ごめん!」
葉月は持っていたペットボトルを朔也に押しつけ、洗面所から逃げようとした。
だが、その途端に濡れた床で足がる。
「えっ……?」
口から無防備な聲がれ、がぐらりと傾いた。
視界へ迫る壁に目をきつく閉じた瞬間、後ろから腕を引っ張られる。
「わぁっ!」
溫かくてらかい何かに餅をつき、葉月は倒れ込んだ。
その何かが、慌てた様子で葉月に覆い被さってくる。
「大丈夫ですか、どっか打ってないですか」
瞼を開けると、朔也が心配そうに顔を覗き込んできていた。
「朔也くん……! ありがとう、助けてくれたの……!?」
「打ってないですか」
「あ、う、うん、大丈夫だよ」
「それならよかった」
ほっと表を緩める朔也に、そんな場合ではないのにがきゅんとする。
「上に倒れちゃってごめん。朔也くんは大丈夫?」
「ええ。あなたが無事ならそれでいい。腕引っ張っちゃいましたけど、そっちは平気ですか」
「うん、全然──」
反的に腕へ視線を下ろしたところで、視界にが飛び込んできた。
「──……!」
ドッ、と心臓が破裂しそうなくらい大きく脈打つ。
二人のを隠したはずのバスタオルは近くの床に落ちていた。
風呂の湯でごまかされることもなく、互いの一糸もまとわぬ姿が見えてしまっている。
しかも、朔也が葉月を押し倒している勢で。
「あっ」
朔也が短く聲をらした。
お互い見開かれた目で見つめ合い、何も言えなくなる。
熱くなる葉月の頬に、ぽたっ、と朔也の髪から水滴が落ちた。
「……すっ。すみ、ません……」
「う、ううん……」
朔也が珍しく言葉に詰まり、葉月の上からどく。
視線をそらしながらバスタオルを手渡され、葉月もうつむきつつそれでを隠した。
思考は停止し、ただ鼓がバクバクと中に鳴り響いている。
「これも、どうぞ」
浴を差し出され、顔を上げる。
朔也はすでに自分の浴を著て、眼鏡もかけていた。
だが、帯はぐちゃぐちゃな蝶結びだし、気と熱気のせいかレンズが曇っている。おまけに頬は真っ赤だ。
──……こんな顔も、するんだ。
にこみ上げたどうしようもないおしさに、葉月は言葉が出なくなった。
「……葉月さん?」
「あっ、な、何でもないよ! ありがとう、私、部屋に戻るね!」
怪訝そうに呼びかけられ、はっと我に返る。
慌てて浴をけ取り立ち上がろうとすると、突然下半から力が抜けた。
しかし、再び力強い腕が葉月を支えてくれる。
「──……っ、やっぱりどこか怪我してます?」
正面から抱きしめられている衝撃に直していると、朔也が眉を寄せて葉月を見つめてきた。
「火照ってる。のぼせてますね」
大きな掌が葉月の頬にれる。
ずっと気が転して忘れていたが、確かに葉月は長時間溫泉に浸かっていた。
やたらと顔が熱くて脈拍が速かったのは、のぼせたせいもあったのかもしれない。
「……それだけじゃない、と思うけど……」
「とりあえず水飲んでください」
「えっ、でも、これは朔也くんに」
「あなたのほうが必要なはずです」
先ほど自分が渡したペットボトルを強引に持たされ、葉月は水を飲んだ。
──ん? これ、間接キスかも。
──だ、駄目だ、またドキドキしてきた。どうしよう、朔也くんはすごく真剣なのに……!
「葉月さん、俺の首の後ろに腕を回して」
「う、うん」
焦って深く考えられず、言われるがままに手をばす。
すると背中と膝の裏を支えられ、葉月は一気に抱え上げられた。
「きゃっ!?」
「暴れないでください。橫になったほうがいいと思うんですが……床で寢かせたくないから」
葉月が絶句しているうちに、朔也は洗面所を出て、暗い廊下を歩き出した。
落ちるのではと反的に抱きつくが、たくましい腕はびくともしない。
──うそ……私、お姫様抱っこされてる!?
重くないかとか、彼に悪いとか、でも嬉しいとか、思いが次々と浮かんでは消えていく。
浴の薄い布越しに力強い筋をじて、ただでさえ速い心臓の鼓がより激しくなった。
──ドキドキが朔也くんにまで聞こえちゃいそう……。
恥ずかしくて顔が見られず、朔也の首にしがみついたまま固まる。
実は朔也の鼓も同じくらい高鳴っていたのだが、自分のことだけで一杯な葉月にはわからなかった。
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