《社長、それは忘れて下さい!?》1-1. Respected boss
グラン・ルーナ社の代表取締役社長、一ノ宮龍悟は、非の打ち所がない完璧な人だった。総務課に配屬された新卒の頃の涼花は、彼がこんなにも出來すぎた人間だとは想像もしていなかった。
ルーナ・グループは農水産の生産や加工、食品の製造・販売、飲食店およびホテルレストランの経営、輸食品の販売や自社製品の輸出など、飲食と名の付く業界に幅広く參し、そのいずれにおいても年商黒字額を更新し続ける巨大グループだ。
名譽會長の孫である一ノ宮龍悟は、経営戦略を學んでマネジメント能力を磨き上げるために、大學卒業後すぐに一族が経営する會社に社した。そこから系列である四つの會社に二年ずつ所屬し、現在は飲食店やホテルレストランの経営を主とした『グラン・ルーナ社』の社長のポストに就いている。
完璧な経歴を彩るのは、完璧な容姿と人柄だ。一八七センチの高長と均整の取れた軀は、立つ姿にも座る姿にも優雅な風格が漂う。さらに悍な顔立ちと切れ長な目元は、相手にシャープな印象を與える。
格は明るく溫和で、相手の心を酌み取る覚にも長けており、話すと知をじさせる。彼の品格と才気にあふれる立ち振る舞いは、社外や男を問わずすぐに相手を魅了してしまうのだ。
社長である龍悟は常に膨大な仕事量を抱えているが、それをじさせないほどに仕事も早くて丁寧だ。特に記憶力と報処理速度が卓越しており、一度見た名刺に記された報は、名前や肩書だけではなく住所や電話番號まで驚くほど正確に記憶している。
「なんかもう、妖怪みたいでしょ」
チーズがとろりと溶けた熱々のピザをスパークリングワインで流し込むと、溜息じりに呟く。涼花の隣で同じ飲みを口にしているのは、高校からの親友で現在はネイルサロンの経営をしている滝口たきぐちエリカだ。
「で、涼花はその妖怪に選ばれたってわけね」
楽しそうに笑うエリカの言葉に、を尖らせる。
龍悟ほどではないが、涼花も記憶力には自信がある。名刺の件でいえば、名前と社名と肩書なれば、今まで名刺換した人の分は全て記憶している。さすがに住所や電話番號は覚えていないが、並より記憶力に優れているのは事実だった。
「選ばれたっていうか、たまたま異先が社長書だっただけだよ」
「いや~普通に仕事してるだけでいきなり社長の書にはならないでしょ~」
「……あと、お酒に酔わないから」
「それなー」
ピザのチーズをのばしながら、ピッと人差し指を向けられる。ピザを頬張るエリカは、遠い目をしながら
「いいなぁ、日酔いとかなったことないんでしょ。アレほんと辛いんだから」
と呟いた。
その臺詞に涼花はし呆れてしまう。
「そんなになるまで飲まなきゃいいじゃない」
「飲まなきゃやってられない日もあるのよ」
エリカの人生を悟ったような瞳をみつめて、涼花は納得したように『そっかぁ』と呟いた。
そうかもしれない。まだ二十七年しか生きていないけれど、飲まなきゃ、酔わなきゃ、やっていられない日もあるのだろう。
けれど殘念なことに、涼花はどれだけお酒を飲んでも全く酔わない質を生まれ持った。極限まで飲むとどうなるのだろうと試したこともある。だが単にお手洗いの回數が増えるだけで、酔うことは出來なかった。もちろん二日酔いの経験もない。
涼花が龍悟の第二書に選ばれた理由は、このお酒に強い質も関係していたのだ。社長書であれば、當然接待や會食で飲酒の機會もある。その度にいちいち酔っぱらってしまうようでは仕事に影響があるばかりか、社長や第一書の旭にも迷がかかってしまう可能がある。
前任の書が壽退社するし前に、全社員を対象とした各部署長との個別面談が行われた。その際、業務績や勤務態度以外にお酒に強いかどうかも確認された。當時新しい第二書の選出は裏に行われていたため、涼花も後になってからそれが書選出のための面談であることを知った。
「もう一人の書さんって、お酒強いの?」
「藤川さん? うーん、どうかな……。泥酔してるのは見たことないけど」
「じゃあ社長は?」
「社長は後からくるタイプ。沢山飲むと次の日ちょっと機嫌悪くなるかな」
「なるほど、お酒に弱い妖怪なのね」
そう言って二人で笑い合う。ストレートな表現と明るい格のエリカは、昔から涼花の心強い味方だった。
エリカとは楽しい時間も、嬉しい出來事も、いつも共有してきた。辛い日も、悲しい時も元気をもらえる気がする。
そう、辛くて悲しい思い出も……
「それで? 今日はなんかあったの?」
「ふっふっふ……よくぞ聞いてくれました!」
思考を振り払った涼花が首を傾げると、エリカが待っていましたと言わんばかりにを張る。指についたピザの打ちをおしぼりで拭き取ると、彼はいそいそとハンドバッグを探り始めた。そして取り出したスマートフォンの畫面上で何度かタップとスライドを繰り返すと、とある畫像を涼花の目の前に押し付けてくる。
「え、何……パーティー?」
「そう! 出會いの場!」
戸いの聲を上げると、エリカににこにこと笑顔を向けられる。
スマートフォンを拝借して畫面をよく確認すると、そこには『カクテルナイトパーティー』と書かれた畫像が映っていた。お灑落な料理やお酒の寫真に、カラフルな文字で『出會い』の文字が躍っている。日時は次の金曜日の夜。場所は都のホテルの最上階にあるバーを貸し切って行われるようだ。
「エリカ。私しばらくは……」
「涼花ねえ……そう言って、もう何年になると思ってるの?」
スマートフォンを返しながら答えると、エリカが頬を膨らませて顔を覗き込んできた。
「の傷は、じゃなきゃ癒せないって言うでしょ」
「うーん。そうなんだけど……」
だから行こう! とうエリカの聲に唸り聲が重なる。涼花はエリカの過去の遍歴のすべてを知っていた。もちろんエリカも、涼花の過去のを知り盡くしている。
涼花が心に負った、簡単には癒えない傷のことも。
(か……)
突如降って湧いた話に、ふと思考を奪われる。
誰にも話したことのない、めたる想い。――涼花は自社の社長であり、自らの上司である龍悟のことを、もう三年も慕い続けていた。その期間は涼花が龍悟の書になってからの年數にほぼ等しい。
社長書に配屬された當初の涼花は、取り扱う報の特質さと量に悪戦苦闘し、何をやっても上手くいかなかった。與えられた仕事を全うしようと思っても、躍起になればなるほど失敗を重ねてしまっていた。
書として半人前以下だった涼花を、龍悟はそっとめてくれた。『焦るな』『出來ることから順番にやればいい』といつも背中を押してくれた。涼花はありふれた他の人々と何ら変わらず、龍悟の笑顔にただ魅了され、気付けば彼のことばかり考えるようになっていた。
だが仕事中にそんな素振りを見せたことは一度もない。彼は言や表の変化から相手の緒を簡単に読み取る。だからただの一ミリもその気配を見せないよう、日頃から十分に気を付けている。
涼花の気持ちが龍悟に知られると、仕事中に気まずいだけではなく旭にも迷がかかってしまう。下手をすると書から元の総務課に戻される可能だってある。だから涼花は自分の想いを必死に覆い隠した。口に出してしまうと全てのが外にれ出してしまう気がして、親友のエリカにさえ上司への想いを吐したことはない。
「あれ、すずちゃんもエリちゃんも人いないの?」
牡蠣のアヒージョを運んできたバルの店長に、不思議そうに話しかけられる。何度も通って顔見知りとなった店長は、忙しくない時間はこうして世間話をしたり、人生相談に乗ってくれたりするのだ。
「そうなんですよ。店長、どこかにいい人落ちてないですかね?」
「エリちゃん。落ちてるような人は、多分いい人じゃないと思うぞ?」
「それはそうですけど~」
「だから落ちてる人から選ぶんじゃなくて、選んだ人を自分で落とすんだよ」
「簡単に言いますねー!」
エリカと店長の會話にくすくすと笑う。気な二人の會話を聞いていると、沈みかけた心がパッと明るくなるようだ。
龍悟への想いを抜きにしても、涼花にはできない理由があった。せっかくの金曜日を一緒に過ごす人なんて、もう何年もいない。
心のどこかではそんな相手がいたら人生がもっと楽しくなるんだろうと思う。しかし辛い思い出と、流した涙と、吐き捨てられた言葉が記憶の奧底にこびりついて離れない。なかなか一歩が、踏み出せない。
だからエリカには申し訳ないが、きっと次の金曜日のイベントにも參加する勇気が持てないままだろう。
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