龍悟がスピーチを終えて控室に戻ると、旭が『社長は四十點』と教えてくれた。一何の點數かと思ったが咄嗟の演技力の點數らしい。

涼花が満點に五點足りなかったのは、イントロダクションの作り笑いが真顔すぎて一瞬ヒヤリとした分の減點だそうだ。けれどその後、一転して満面の笑顔を見せるというギャップ技を披したので、旭の採點では高得點となったようだ。

「社長はそんなに酷いんですか？」

「そりゃもう、肝が冷える程だよ」

「お前たちにはスピーチを頑張った上司を労う優しさがないのか？」

龍悟が不満そうにを尖らせる。

涼花と旭も、壁際に控えて龍悟のスピーチはちゃんと聞いていた。しかし龍悟が艶と気品のある聲音に巧みな表現を乗せ、絶妙な間合いとしなやかなジェスチャーを駆使し、ユーモアのある冗談をえて華麗な挨拶をさらりとこなすのはいつもの事だ。真似をしようとして出來るものではないが、龍悟からは『頑張った』という程の気合いも疲労もじない。

「社長、お疲れ様でした」

子供のような口振りで拗ねるので素直に労うと、龍悟が満足したように涼花に微笑んだ。

それはさておき、と旭が話を區切り、回収した明の小瓶をポケットから取り出す。用意された水差しの隣にその小瓶を置くと、龍悟が訝しげに小瓶を睨んだ。

「ん？　これ子が使う、爪に塗るやつだろ？」

「やっぱりそうなの？　けどこれ、ついてないけど？」

宇宙のり立ちから微生の構造まで何でも知っていそうな龍悟にも、苦手分野があるらしい。同じく釈然としない様子の旭と同時に視線を向けられ、涼花は『なるほど』と納得した。涼花も仕事の関係上あまり凝ったネイルはしていないが、幸いなことに親友がネイルサロンの経営者だ。々と教えてもらっているので、人並み程度には知識がある。

「明のものもあるんですよ。ベースコートやトップコートといって、を著ける前の下地や、を著けた後の保護とか補強に使うんです」

涼花は置かれた小瓶を手に取ると、蓋を反時計回りにかしてみた。キュ、キュ、と音を立てながら蓋が回転すると、中で刷もくるくると回る。

神妙な顔で涼花の行を見守る龍悟と旭の目の前で蓋を引き抜いてみる。だがは予想していたほど粘度がなく、薄めたように水っぽい。

「やはりネイル剤ではないようですね。匂いも違います」

「こら、不用意に嗅ぐんじゃない」

重力に従って水滴がほとんど落ちた刷に鼻を近づけてみるが、ネイル剤特有の強い匂いはせず、ほとんど無臭に近い。龍悟に制止されて慌てて顔を離すと、小瓶の蓋を閉めてテーブルの上に戻した。

「なるほどな。だったとは想像してなかった」

「てっきり錠剤か末剤だとばかり思っていましたからね」

龍悟が椅子の背もたれに背中を預けて、深い息を吐いた。旭も肩を竦めて両手を挙げると同意を示す。もちろん涼花も同だ。『薬』と聞いた時點で、錠剤か末剤かカプセル剤のいずれかだと、勝手に思い込んでいた。

涼花が調不良になり龍悟に看護された夜、旭が料亭に殘って飲食を回収し、分調査まで行っていたことはかなり後になってから聞かされた。

旭が言うには、固形は回収出來たがや食までは手が回らず、結果疑わしい分はほとんど検出されなかったらしい。店の従業員に話し、宴席やトイレのゴミ箱も検めさせてもらったが、怪しい薬包も見つからなかった。だから回収できなかったビールの中に、薬剤が溶け出してしまったというのが龍悟と旭の予測だった。

だからボディーチェック時の旭のポケットには、様々な末や錠剤がっていた。怪しい薬剤が見つかったら、杉原の目を盜んですぐにすり替える予定だったのだ。

無論ポケットがパンパンになるとあまりにも怪しいので、一般にありふれている薬に似たものを厳選して用意した。杉原が製薬會社の名前がったフィルムやケースをそのまま使用しているとは考えにくかったので、こちらもそれに合わせて、何も記されていない明や半明の袋に、何の効果もない小麥の玉やを詰めていた。

萬が一用意したものと個數が合わなかったり、明らかにや形が異なるものを検出した場合を想定して、寶探しゲームの『寶』はアメやチョコレートに設定した。白以外の薬剤が杉原の所持品から出てきたら『類似品に該當するので一旦預かる』という設定を作り、一度控室に戻ってからポケットに仕込み損ねたや形狀のものとすり替えられるように、念に保険をかけていたのだ。

あとはこれらを掻い潛った杉原が『持病の薬なので絶対に手放せない』と言い出さないことを天に祈ってボディーチェックに挑んだが、予想は大幅に外れ、予想より容易く獲は旭の手中に落ちた。

龍悟が小瓶を摘み上げ、中のの存在を確かめるようにふるふると振る。水より粘度が高くネイル剤より薄いは、小瓶の中で波を立てて揺らめいた。

「なるほどな。人目を盜んで刷でグラスや食に塗れば、周りにも気付かれにくい。萬が一目についても、ただの水滴だと思うか」

龍悟が心底呆れたような、けれど反面、心したような聲をらす。その言葉には涼花も唸るしかない。

「このようなものが塗られてるなんて、全く気付きませんでした」

恐らくこの薬は、箸かビールのグラスに塗られていたのだろう。だが海鮮料理を味わう箸に水滴がついていても、結したビールグラスに水滴がついていても、それを疑問には思わない。おまけに変な味がするわけでもないのだ。

「量でもかなり強力なんだろうな」

龍悟は『気付かなかった涼花に落ち度はない』とフォローしたつもりだったが、その臺詞に旭が目を輝かせた。

「へえ、そんなに強力なんですか？」

「おい、旭。変なとこだけピックアップするな」

「いやいや、そうは言いますけど、男なら當然興味ありますよ」

「劇薬に興味を持つんじゃない」

「社長、どうです？　試しに飲んでみては」

「おお、いいぞ。お前が今夜俺の部屋に泊まって、俺と添い寢してくれるならな」

「噓です、冗談です、ゴメンナサイ」

とんでもない會話を繰り広げる龍悟と旭に、涼花は自分の存在を極限まで薄めるよう努める。

いつも思うが、このテンションとこのテンポの會話の中にっていける気は微塵もしない。間違ってもこちらに會話を投げないでくれと切に願う。

「まぁ、とにかく……これもラボに回して詳しく分調査してもらおう」

一通り騒いだ後で龍悟がそう結論付けたので、涼花は消していた気配をそっと戻して時計を確認した。スピーチが終わりし休憩の時間を挾んだが、龍悟はこの後のプログラムもこなさなければいけない。

「社長、そろそろ會場に戻りませんと」

「そうだな。……旭、抜けれるか？」

「はい。一度社に戻ります」

ポケットに仕込んでいた薬袋の全てを鞄の中に突っ込みながら、旭が頷いて返答する。薬を模した玉や末は全て無駄になってしまったが、結果を考えれば努力は無駄ではなかったと思う。

旭はすっかり書の顔に戻ると、龍悟の手から小瓶をけ取り、小麥が詰められた鞄を攜えて控室を出て行った。殘された涼花は立ち上がった龍悟の前に立つと、元に指先を寄せる。

今日の龍悟はいつものビジネススーツではなく、三つ揃いのフォーマルスーツをに纏っている。正裝の姿はいつも以上にのラインが際立ち、男と獨特の気を醸し出している。涼花の指先がポケットチーフの位置を正すと、龍悟が満足したように頷いた。

「秋野は大丈夫だったのか？」

だが龍悟が訊ねたのは自分のだしなみではなく、涼花の心労だった。

龍悟は當初、一度嫌な思いをした涼花を杉原の前に立たせることに強く反対した。大事な書を傷つけるような真似はしたくないと説かれたが、最後は『が犯罪に遭うかもしれないのに見過ごせない』という涼花の意思を尊重してくれた。

事実、涼花が付橫に配置されたことで旭のボディーチェックが円に進み、不自然なく目的のものを得ることに功したのだ。

「はい、特に問題はありません。ちゃんと回収できてよかったです」

涼花が頷くと、龍悟も安心したように『そうだな』と呟いた。

時計を確認すると、そろそろ寶探しゲームが始まる時刻になっていた。一度退いていた主催者が再び會場に姿を現すにも丁度良い頃合いだろう。

「私は覚えていないのですが……吐き気がするんでしたよね？」

「秋野は吐かなかったぞ？」

「いえ、そうではなく……」

逆ならば兎も角、書の吐瀉を社長に処理などさせられる訳がない。人の良い龍悟なら気にせず世話を焼くだろうが、涼花は絶対に嫌だ、と首を振りつつ、考えている事とは別の言葉を口にした。

「お客様が口にして萬が一嘔吐でもされたら、新店のイメージが臺無しです」

飲食店経営者の書らしく至極真っ當な意見を述べたつもりだったが、龍悟は一瞬目を丸くしたあと、突然豪快に笑い出した。

「はっはっは！　それもそうだな」

「笑い事ではありません」

當然、龍悟もその可能には気付いていただろう。実際のところ涼花は嘔吐しなかったらしいが、同じ薬を口にして吐いてしまう人がいてもおかしくない。

招待客が調を崩すことは最も避けるべきだが、新店のオープン記念パーティーの真っ最中に騒ぎが起これば、イメージは絶対によろしくない。場合によっては保健所の立ちり調査にまで発展する事案だ。

ようやく笑いが収めた龍悟が、涼花の顔を覗き込むようにを屈める。今日は涼花が高めのヒールを履いているので、並ぶといつもより顔が近い。龍悟はその距離をさらに詰めるように顔を近付けると、涼花の耳元に小さな呟きを零した。

「お前に何もなかったなら、俺はそれだけで充分なんだけどな」

そのまま押し付けた頬で涼花のこめかみをでる。まるで大型犬が自分の所有に匂いを移すように。

「おっと、セクハラだな」

だが涼花の頬にれた龍悟は、何かに気付いたようにすぐに離れていく。そして自分の行にしだけ照れたような笑顔を浮かべると、涼花の肩を軽い調子でぽんと叩いた。

「俺の付き添いもいいが、折角だしケーキも食えよ。甘いもの好きだろ？」

龍悟が優しい言葉を殘して歩き出すので、涼花も慌てて後を追う。

急なスキンシップに驚いたせいで心臓がばくばくと音を立てている。小さなれ合いが嬉しい――けれど今は仕事中だ。

揺を悟られないよう姿勢とを正すと、いつものように先を歩く龍悟の背中を追って、涼花も控室を後にした。