《社長、それは忘れて下さい!?》4-4. Can't move
龍悟に『もう無理して笑わなくてもいい』と言われた日から二週間ほどが経過したが、涼花の気持ちは相変わらず晴れないままだった。
龍悟は涼花が嫌がるような事はしないが、時折じっと見つめたり、しだけれたりといった小さなアプローチを繰り返す。嫌いな上司にされたらセクハラとして訴えるところだが、涼花は龍悟と距離を置きたい一方で、心では嬉しい気持ちもあった。
その背反する気持ちに気付いた時、龍悟に気にしてもらえることで彼の好意がまだ自分に向いている事を確認しているようにじて、自分の淺ましさに自己嫌悪する。けれど優しく微笑まれたり、からかうように髪や指先にれられたりすると、どうしようもなく舞い上がってしまう。
その繰り返しに疲弊して、涼花は仕事でのミスがさらに多くなってきていた。
(……?)
ふと視線をじて顔を上げると、向かい合わせで座る旭が、自分の口元に人差し指をあてながら小さな付箋を手渡してきた。龍悟に気付かれないための『靜かに』という合図に疑問を持ちながら付箋をけ取ると『業務後、エントランス』と書かれていた。
付箋はインデックス代わりに使用することはあるが、書類としての形式をなさず報洩の問題もあるので、原則メモの代わりとしては使用してはいけない事になっている。涼花は目線だけで旭に了承の合図をすると、書類を刻むふりをしてけ取った付箋をさりげなくシュレッダーにり込ませた。
*****
業務後、旭に呼び出された涼花は、そのまま彼が行きつけだという近くのお好み焼き屋に移した。
椅子の背もたれが高く、周囲も賑やかなので、周りに気を遣う必要もない。ブラウスにソースが飛ばないよう細心の注意を払いながら、涼花は旭が用に焼き上げたふわふわのお好み焼きを頬張った。
「旨いでしょ?」
「はい、味しいです」
「よかった。旨いもん食うと、幸せになれるよね」
旭も笑いながらお好み焼きを口に運ぶ。『俺、旨いもんいっぱい食べれてこの職場すごい好きなんだ』と旭が笑うので、涼花もつられて気が抜けたように笑ってしまった。
このお好み焼き屋はグラン・ルーナ社の経営店ではない。都心のビルの高層階に高級鉄板焼きの店はいくつかあるが、お好み焼きもいいなぁ、と思う。呑気な事を考えていると、旭が神妙な顔で本題を切り出してきた。
「涼花、大丈夫?」
「え……と、どういう意味でしょうか?」
「いや、最近ずーっと元気ないから。しかも元気ない理由、言わないし」
旭がを尖らせる。『もっと俺を頼ってくれてもいいのに』と付け足した聲に、涼花はそっと謝した。
旭はいつも龍悟の一挙手一投足を見逃さないよう完璧に書業務をこなしているが、それと同じぐらいに後輩の涼花のことも目にかけてくれていた。その事は前から知っていたしありがたいと思っていたが、ここまで直接的に指摘されたことはなかった。
「申し訳ありません。ご心配をおかけして」
「や、謝らなくていいよ。元気ない時なんて、誰にでもあるし」
旭はしぬるくなったビールを口にしながら笑っていたが、ジョッキから口を離すと『ただ』と前置きをした上で宙を仰いだ。
「原因が社長なら、このまま待ってても解決しないんだろうなーと思って」
「!」
セクハラされた? 怒鳴られた? と旭が悪戯っぽく訊ねてくるので、俯いたまま首を橫に振る。もちろん龍悟がそんなことをする人ではないことなど、涼花も旭も百も承知だ。
涼花は言葉に詰まった。旭は『元気がない』と言う言葉で濁してくれたが、ここ數日の仕事のミスのほとんどは、旭のフォローによってミスにならないよう処理されていた。怒られても仕方がないのに、旭は涼花を責めなかった。
そして彼はやはり鋭い。涼花の悩みどころか、その原因まで的確に見抜いていた。
涼花は一瞬、それでも元気がない原因を誤魔化そうと考えた。けれどここで誤魔化しても、明日からも変わらず続くミスで旭を困らせるだけだろう。もちろん旭に申告すれば帳消しになるという事ではないが、自分の気持ちを騙し続けて龍悟の傍に居続ける事にも限界をじ始めていた。
「藤川さん……私」
こんな事を告げられても、旭は困るだけだろう。自分は書失格だ。書は上司のサポート役として、影からひっそりと上司の仕事を支える任務を全うしなければならない。
自分のなど要らないし、表に出す必要はない。けれどもう、自分のを上手く隠してコントロールできると思えない。
「私、社長のことが、好き……なんです」
「……」
涼花がぼそぼそと呟くと、旭の時間が止まったのがわかった。お好み焼きを食べるために手にしていた二本の箸が旭の指先から零れ落ち、鉄板の上にカラカラと音を立てて転がる。
「えええぇ……!? 本當にっ!?」
しばし沈黙していた旭が、突然火が付いたように騒ぎ出した。他の客に迷になると焦ったが、慌てて周りを見ても涼花と旭の様子は誰も気に留めていなかった。
「えっと……気付いてなかった、ですか?」
「ぜ、全然気付かなかった……! 噓、まじでー? そ、それは驚くって……」
旭は驚きと興がりじったように、ビールジョッキと涼花の顔の間で何度も視線を往復させた。
いつも飄々としている旭が取りす様子を見ると、自分がすごく場違いな事を言ってしまったと気付かされる。
「いやー、涼花はすごいポーカーフェイスだなー。社長を嫌ってるとは思ってなかったけど、どっちかって言うとアプローチされて困ってるんだと思ってた」
しみじみと己の見解をらした旭に『この人は本當にすごい察力だな』と心した。一番肝心の涼花の気持ちは知らなかったらしいが、後半の意見はほとんど當たっている。涼花は旭の顔を見て苦笑した。
「私、もう社長の傍にはいられないですよね……。だから折を見て退職……」
「待って待って待って! なんでそうなる!? それだけはほんと勘弁して! 俺が困るから!」
涼花が最後まで言い終わらないうちに、旭が話を切って割り込んできた。
確かに涼花が辭めることになれば、一番困るのは旭だろう。龍悟も書が辭めることになれば一時的に大変だろうが、業務量から考えれば旭の方が大変なのは言うまでもない。
だから涼花も退職する時は急に辭めるのではなく、後任が決まって引継ぎをしてからやめるつもりでいた。だは旭は涼花に『退職』という選択を諦めさせようと必死に説得を繰り返した。
「ていうか、別に辭めなくてもいいじゃん。……涼花、社長の気持ちには気付いてるでしょ?」
旭の言いたい事はすぐにわかった。つまり『付き合えば解決』という話だが、涼花にとってはそれが最も難しい選択だった。
「それが、そう簡単な話でもなくて」
ここまで話したのなら、もう全て話してしまった方が旭にちゃんと理解して納得して貰えるような気がした。涼花は迷ったが、結局涼花の質から今まであった出來事まで、かいつまんで旭に話すことにした。
中には出來れば自分の口からは言いたくない容も含まれていたが、涼花は先輩として、そして人として旭を信用していたからか、話し始めると案外するすると言葉が出てきてくれた。
旭は途中目を丸くしたり、むせ込んだり、しの質問をしたりしたが、涼花の話を否定することなく最後まで話を聞いてくれた。そして話し終えて出てきた最初の想は、龍悟のそれにかなり近いものだった。
「なにそれ、ミステリー……」
「あの……、このことは誰にも……」
「言わないよ。っていうか言っても信じないでしょ、普通」
「ですよね」
恐した涼花の顔を見て、旭は妙に納得したように『そっかぁ』と頷いた。
涼花としては現実的にありえない話をしたので引かれてしまうかもしれないと思っていたが、ここ最近の様子やこれまでの経緯から、旭にも何か思うところがあったらしい。涼花の話は思いの外すんなりとけれられた。
「なるほど。そういう事か」
「な、何がですか?」
旭が気の抜けたような聲を出したので、持ち上げかけたビールグラスを置いて、思わず聞き返してしまう。
「いや、先々週の契約の時に、涼花なんで突然笑ったんだろうって思ってて。結果的に契約は上手くいったし、社長がグレてた理由もすぐわかったけど、涼花の心境の変化だけはずーっと謎だったんだよね。そっか、あれは『社長命令』だったのか」
「……」
「ん? じゃあ社長は自分の出した命令に従った涼花に、妬いてたわけだ? 面倒くさいな、あの人」
ストレートに自分の上司を『面倒くさい』呼ばわりした事に『そうですね』とは言えない。でも旭の言いたいこともわかる。
龍悟は仕事をする上で戦略的に自分の心を隠すことはあるが、本來は裏表のない人間だ。親しい人に噓や隠し事はしない人だから、一緒に仕事をしていて信頼できるしその背中についていこうと思える。
だから涼花も疑問を持っていた。一番最初に龍悟とを重ねた時は涼花の事を好きではなかったはずだ。今これほどわかりやすく自分の気持ちを表に出す龍悟の様子は、あの時は微塵もじなかった。
「たぶん、最初の『社長命令』の時は私のことを何とも思っていなかったからだと思います」
「へえ、涼花はそう思うんだ?」
「え……違うんですか?」
最初は涼花に対してがなかったのは間違いない。だから隨分前に発令した社長命令とここ最近のわかりやすい表現の間に齟齬が生じているのだろうと思う。
だが旭には違った考えがあるらしく、意外そうに訊ねられた。旭はし間を置いて、自分の言葉を味するように視線を上げた。
「あくまで俺の個人的な意見だけど、社長は涼花が書に配屬された時から、涼花の事を好きだったと思うよ」
「……えぇ?」
思いもよらない旭の臺詞に、つい聲がひっくり返ってしまう。旭は涼花の驚き方に苦笑しながら話を続けた。
「確かに最初は無意識だったんじゃないかな。本気でアプローチしはじめたのは最近かもしれないけど、社長は結構前から、涼花が自分のことを好きになるようにさり気なく仕向けてたと思うよ?」
「で、でも私、社長に『社に人を作ってもいい』とまで言われてるんですよ?」
「社長も社の人間じゃん」
「……」
旭の臺詞に涼花は沈黙した。旭はあの場にいなかったので分からないかもしれないが、あの時の『社に人を作ってもいい』の範囲には龍悟は含まれていなかった。そういうニュアンスだった。
だがそれすら龍悟の無意識の発言なのだとしたら、涼花も何を信じていいのかわからなくなってしまう。
眉間に皺が寄ったことは自分でもじていたが、表筋のきは変えられなかった。涼花の様子を見た旭は、今度は突然不思議な呪文を唱え始めた。
「マジカルナンバートゥエルブ」
「……え? なんですか?」
「新人研修のときにやらなかった? ランダムの數字を覚えるやつ」
「あ……。えっと……やりました。覚えてます」
心理學の用語で、正確にはマジカルナンバーセブン。多の個人差はあるが『意味のないランダムの數字を覚える際、人間は七桁程度しか覚えられない』というものだ。
新人研修の時は『みなさんの記憶はこの程度のものです。ですから大事な報を預かった際は、自分の記憶を過信しないで必ずメモを取る様に徹底しましょう』と話を展開するために、グループワークで十桁の數字を覚えさせられたのだ。
だが涼花は研修のために用意された十桁どころか、攜帯電話の番號を超える十二桁まで覚えることが出來たのだ。
「涼花の記憶力の話、當時ちょっとした噂になってたんだよ。普通は七桁、どんなに多くても九桁までしか覚えられないランダムの數を十二桁まで覚えていられたすごい新社員が現れたって」
そういえば、そんなこともあった。旭に言われて、當時の新人研修の擔當だった上司が面食らった顔や、周囲にいた同期たちに不思議な目で見られて恥ずかしい思いをした事を思い出す。まさかそれが重役の耳にっているとまでは思わなかった。
「社長、嬉しそうに話してたからさ。実は総務まで、涼花がどんな子なのかなーって二人で見に行ってたりして?」
「……噓」
初めて耳にする旭の告白に驚くと、旭がニコニコと笑顔を浮かべた。
「前任書の安西あんざいさんの代わりを全社員を対象に選出するって話になったとき、適任じゃないかっていう候補者は涼花も含めて四人いたんだよ。結果は見ての通りだね」
旭の口振りから察するに、四人の候補者から最終的に涼花を選んだのは龍悟本人という事だろう。もちろん上司と面談した容や勤務態度も判斷の材料にはなっていると思うが、いずれにせよ涼花が知らない話ばかりで驚きを隠せない。
「だからさ。社長は最初から、涼花に興味があったんだよ」
旭がにこりと笑顔を作る。思いがけず自分の異の経緯を知った涼花だったが、それを知れば尚更申し訳ない気持ちばかりがの奧に渦を巻く。
龍悟は想像以上に涼花に興味と関心を寄せ、大事に扱ってくれている。だが涼花はその想いに応える事は出來ない。貰うばかりで返せるものなど何も持っていないのに。
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