《社長、それは忘れて下さい!?》4-6. Courage approach
予定していた店舗の視察を終え、社長専用車に乗り込んでからしばらくした頃、涼花は隣に座った龍悟がやけに靜かな事に気が付いた。
ふと視線を向けると、背中を背面シートに預けて腕を組んでいるのはいつもと変わらないが、首ががくりと落ちている。
「……社長?」
スケジュールをチェックしていた手を止めて顔を覗き込むと、龍悟は目を閉じて靜かな寢息を立てていた。
(寢てる……)
通りで靜かなはずだ。普段の龍悟なら視察で見てきた狀況をり合わせたり、逆にそれとはあまり関係のない世間話をすることが多い。いつもの會話もなく靜かに眠る龍悟の様子を見た涼花は、運転手の黒木にそっと聲をかけた。
「黒木さん。今日の予定は全て終えましたので、しだけゆっくり走って貰えますか?」
ルームミラー越しに黒木と目が合う。涼花は黒木からは見えない位置で眠っている龍悟をちらりと見ると、再びルームミラーの中に視線を戻した。
「その……社長、寢てるんです」
「おや、珍しいですね」
聲量を抑えて伝えると、同じく聲量を落とした黒木が不思議そうな顔をする。
黒木は涼花よりも龍悟との付き合いが長く、龍悟がグラン・ルーナの社長に就任して以來ずっと社長専用車の専屬運転手を務めている。居眠りをする龍悟の様子は涼花にも珍しいが、黒木にとっても十分珍しいものらしい。
「お疲れのようなので、このままあとし寢かせてあげたいんですが……」
「構いませんよ。今日はご自宅への送迎予定もないでしょう? 私もこれで終わりですから」
「ありがとうございます」
黒木に禮を述べてスケジュールを確認すると、確かに今日の龍悟は自家用車で出勤して、自家用車で帰宅することになっている。
指示があれば書が社長専用車を手配して自宅まで送迎をお願いすることもあるが、朝予定が変わったり業務後に車を使えない事が出來た場合は、龍悟が自ら社長専用車を手配することもある。
その場合は、涼花や旭を通さずスケジュール管理ソフトにも予定は反映されないので、ここに書かれている報が全てという訳でもない。だが黒木が違うと言うならば、龍悟は今日も車を運転して帰宅するのだろう。
「秋野さんは優しいですね」
心したように言われて、涼花はルームミラーの中に小さく苦笑いを浮かべた。黒木は涼花の気遣いを褒めたが、心の中ではそれはどうかと考える。
涼花が本當に優しい人なら、もっと龍悟を大切にできる筈だ。いつまでも龍悟の優しさに甘えていないで、ちゃんと自分の言葉で自分の気持ちを伝えることが出來ると思う。
だから涼花が本當に優しい人になれるかどうかは、自分次第だ。
*****
執務室にると、旭が顔を上げて二人を出迎えた。
「お疲れ様です、社長。涼花もおかえり。道混んでたの?」
「えっと、そうですね……し」
旭に尋ねられ、言葉を濁す。黒木に頼んでスピードを落としてもらったので予定時刻から遅れてしまったが、本當は道はそれほど混んではいなかった。
その事実を龍悟に知られないよう頷く。寢ていた龍悟は道の混み合など知らないので、涼花の言葉は特に突っ込まれることはなかった。
「終わったなら、旭も秋野も今日は帰っていいぞ。明日は遅くなるしな」
龍悟の言葉で、明日はまた會食の予定があることを思い出す。涼花と旭が揃って返事をすると、龍悟も頷いて帰宅の準備を始めた。
「涼花」
旭に呼び止められたので顔を上げると、彼は自分の頬を人差し指の先で叩きながら、涼花に『笑って』と合図してきた。
確かに接待は面倒だが、そんなに仏頂面してたかな? と首を傾げてすぐに、數日前に旭に言われた言葉を思い出す。
「!」
言葉を失った涼花に微笑むと、旭はPCの電源を落として颯爽とデスクから離れた。言葉そのものは定型文だが、聲のトーンだけがやたらと気な挨拶を殘して。
「それでは、お先に失禮いたします」
「ご苦労さん」
「お疲れ様です」
扉の向こうに消えて行った旭に、それ以上のかける言葉は見つからない。見つかったところでもういなくなってしまったのだけれど。
「あの、社長……」
涼花もスリープモードになっていたPCの電源を落とすと、龍悟の背中にそっと話しかけた。
すぐに『どうした?』と振り向く龍悟の姿に、またしだけ見惚れる。やっぱりこの瞬間が一番好きだと気付くと、涼花の口からは思ったよりも簡単に言葉が出てきた。
「以前、お食事にって下さいましたよね……?」
「……そうだな。でも、気にしなくていいんだぞ。別に無理強いしたい訳じゃない」
「いえ、そうではなく……」
涼花の確認に、龍悟は罰が悪そうに視線を逸らしてしまった。
彼にまた悲しげな顔をさせていることに、申し訳なさを覚える。たが涼花は怯まなかった。拒否されて傷付いているのは涼花じゃない。曖昧な態度のせいで、龍悟は涼花の數倍傷付いているはずなのだ。
「あの、それって例えば今日とか……今週末とかだと、だめでしょうか?」
勇気を振り絞って訊ねると、龍悟が驚きで目を見開いた。あまりに驚いたせいかしばらく直して沈黙してしまう。
そのまましの時間が流れ、涼花が後悔をじ始めた頃になって、龍悟はようやく我に返った。
「だめじゃない。いい……いいんだが……。どうしたんだ、急に」
「あ、あの……ご迷でしたらいいんです」
「ちがう。迷なわけないだろ」
ぎこちない言葉と明らかに戸っている様子を見て引っ込めようとした言葉は、簡単に掬い取られた。龍悟は口元を押さえて何かを考える仕草をしてみせたが、すぐに涼花の目を見て、
「なら今夜でいいか? 日を改めて気が変わったら困る」
と真剣な顔で呟いた。
涼花が小さく頷くと、二人揃ってそのまま執務室を出た。
ついさっき帰ってきたばかりの道を逆戻りするが、先程とは異なりエレベーターが向かうのは地下駐車場だ。移の間も二人は特に會話をしなかったが、そっと顔を窺うと龍悟の表はいつになく嬉しそうだった。
龍悟の車に近付き、エスコートされるまま助手席に乗る。運転席に乗ってエンジンをかけた龍悟が、自分のシートベルトを掛けながらナビゲーションのディスプレイにれる。
食事の場所は龍悟任せる。彼の選ぶ店なら、グラン・ルーナの経営する店でもそうじゃない店でも、間違いなく味しいはずだ。
「……あ」
そう思った涼花の右側から、龍悟の間の抜けたような聲が聞こえてきた。ディスプレイの前に人差し指をかざしたまま、龍悟がし困ったように唸る。
「……どうかされましたか?」
「いや、昨日のうちに仕込んでおいたのこと、忘れてたな……と思って」
龍悟の言葉は涼花が想像していたものとは違った容だった。てっきり『別の約束があった』とか『既に店に予約があった』なのかと思っていた。だから予想外の龍悟の言葉に、涼花のきも止まってしまう。
「明日は會食の予定ですよね? そのお、明後日まで置いておけるんですか?」
「……味は落ちるだろうが。……食えるだろう、多分」
龍悟は自宅に用意しておいた食材の狀況を思い出しながらそう結論付けたが、冷凍じゃないを下処理をした狀態で二日も置いて、鮮度が落ちない訳がない。
「では今日は止めましょう。お食事はまた次の機會に」
「いや、いい。お前の気が変わって、もう行かないなんて言われたら困る」
そんな事は言いません。と言っても、龍悟は信じないだろう。
そう思われてもおかしくないぐらい、今までの龍悟に対する涼花の態度は冷たすぎた。
だが涼花が引っ込めない限り、龍悟は用意した食材を疎かにしてでも涼花と食事に行こうとするだろう。龍悟が食べを末にするのは見過ごせない。
「いいんですか? 飲食店経営社の社長が? そんなもったいないことして?」
しだけ頬を膨らませながら、龍悟に詰め寄る。涼花に怒られた龍悟は言葉に詰まったが、かと言ってせっかく取り付けた食事の約束をキャンセルするという選択肢もないようだ。
龍悟はまたし考え込む様子を見せたが、ふと涼花の耳元に顔を近付けて、驚きの提案を囁いた。
「……うちに來るか?」
すぐにぱっと離れた龍悟は、し張したように涼花の目を見つめた。提案された選択肢はまたも涼花の予想から離れていて、つい揺してしまう。
「……えっ、と」
龍悟の家には、一度行ったことがある。しかしそれは涼花の意思ではなく、龍悟が涼花を助けてくれたときの話だ。
今日は前回のそれとは違う。龍悟の家に行くかどうかの決定権は涼花にある。
龍悟ともうし一緒にいたいと願ったのは涼花の方だったが、この展開は考えていなかった。仕事以外の時間をしだけ共有したいと思っただけなのに、まさか龍悟のプライベート空間へ再びわれるなんて。
躊躇う様子に気付いた龍悟が、畳みかけるように口説き文句を並べ出す。
「貰いだが、良いだぞ。赤はよく締まっててクセもないし、脂の乗りも丁度いい」
「……味しそうですね」
「『ダイアナ』のソースもある。日本橋店のシェフが作り方を教えてくれたんだ」
「それ……もう、お店じゃないですか」
「そうだな。ワインも開けるか」
今夜はこのまま遠慮するつもりだった。だが龍悟は食事で涼花を釣るように、どんどん味しい提案を示してくる。
ダイアナはグラン・ルーナが経営する鉄板焼きの店で、最高級和牛にかけて提供される和風ソースが絶品だ。もちろん龍悟の言う『貰い』のが、その辺のスーパーで買えるような安いではないことも理解している。涼花はお酒に対してがあるわけではないが、きっと最高品質のと共に味わうワインは味しいはずだ。
「お前が嫌がるような事はしない。飲んだら送ってやれないが、タクシー代はちゃんと出すから」
涼花をう龍悟の言葉は、真剣そのものだった。どうする? と訊ねる龍悟の笑顔と想像の中に広がる食の數々に、涼花は頭を悩ませた。
だが涼花の目的は料理そのものではない。あくまでもうしだけ、龍悟の傍にいたいという淡い想いだ。だから本當の気持ちを言えば、食事の場所は店でも家でも変わらない。だから大人しく白旗を振ることに決める。
「大丈夫ですよ。電車で帰れますから」
その言葉を合図に、今夜のディナーの方針は決定した。
走り出した車の助手席に座り、ビルの谷間で藍と橙のグラデーションになった夕空を眺める。
そういえばこの車の助手席に座るのは二回目だ。前回も今日も二人の間に流れる空気は靜かだが、あの時と今では何から何まで変わってしまった気がする。変わったのは全て、涼花の所為だ。
けれど今日の龍悟の橫顔は、あの日の何倍も上機嫌だった。
ドアの窓枠に右肘をかけて頬杖をつき、左手で軽快にハンドルをさばく姿に見惚れてしまう。この瞬間を嬉しくじてしまう。鼓が早くなってしまう。座っているだけなのに、そわそわと落ち著かなくなってしまう。
龍悟の橫顔から視線を外してもう一度窓の外を見つめる。涼花の熱の混じった溜息は夕闇のグラデーションと混ざり合い、遠くの空に溶けて行った。
もしも変わってしまうなら
第二の詩集です。
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