＊１＊

イザークはを噛んだ。突如訪れた空気の圧力に顔を顰めた。確かティティインカと繋がって、もうしで……のところで、炎の羽に遮られ、覚えていないが。

「なんだ、ここは。空間が歪んでら。で、なんで俺はがある？　歩いてるよな？」

ひょこ、と鶏頭が見えた。マアティ。マアトの分だとネフトは言っていたような。

「ちょっと失禮しますぅ」マアトの手下が持っているものにぎょっとした。でかい鎌。首を簡単に落とせそうな刃渡りの。

「なに、するつもりだ……鳥のガキが！」

マアティはびゅんびゅんと鎌を振り回し、むっと言い返した。

「マアト様は、貴方の心臓イブと、翅で真実マアートを測る儀式モネをするんですぅ。翅のほうが重かったら、貴方の大切なひとの霊魂アクは捨てられちゃいますよぅ？」

「大切なひと……ティティ？　おい、ティティがこの世界にいるってのか！」

マアティはわらわらと寄ってきて、円陣を組んで座り込んだ。作戦會議を始めた様子。頷き合って、円陣を解いた。ずらりと並んで、クスクスクスクスと笑いの大合唱だ。中央に何かを隠している。

「くぉら！　この鶏！　集団で焼き鳥にしてやる！」

「くふっ。自信、ないんですかぁ？　そうですよねぇ。マアトさまの翅は全ての真実マアートより重いのですぅ。罪人アザエルになど負けません～」

――ここまで言われて、黙っていられるか。イザークはふんと言い返した。

「俺がを証明してやる。心臓イブでも、何でも持って行け。俺はどうなってもいい」

「知りませんよぅ？」マアティたちは數人で大きな鎌を振り下ろした。鎌の先は尖っていて、拷問道の輝きをしている。立ちくらみとから何かがすり抜けた。

「きゃー、貴方の心臓イブ、真っ黒～。悪魔、悪魔の心臓～～～～マアトさまぁ～」

マアティたちは、首を獲った民衆の凱旋のように、黒い塊を掲げ、去って行った。マアト神は裁きの神。最期に、イザークとティティのをも裁こうというのだろう。

（上等だ。俺のは負けやしない）

忘れ去られたかのように、瓶が殘されていた。マアティたちが忘れたのか。

蹴飛ばしてやるかと近寄って、イザークは眼を見開いた。瓶の中に小さな霊魂が膝をつき、イザークを見詰めている。が靜かだ。心臓の音がしない。

――心臓があったら、俺の鼓は、止まったかも知れない。

「ティティインカ！　――噓だろう、いや、ティティ……こんな、姿に……」

瓶の中にはティティインカの霊魂が詰まっていた。ティティのコブラの頭が見えた。イザークは震える手で、瓶を手にする。今すぐにでも、割れそうなしい白耀の瓶。

（理由なんかいい。ここに、二人で存在している。これは奇跡か、神さま――）

＊＊＊

「……隨分、小さくなっちまったな。ティティ」

瓶にったままのティティは、亡霊のようにイザークを見詰めていた。けて小さくなった霊魂アクの姿にイザークはそっと語りかけた。

「……そばにいて、やりたかったぜ」

イザークはそっと瓶のティティに泣き笑いで告げた。ティティはけた水のオーラになって、ゆらゆらと揺れている。

「ティ、俺も、貴と同じ。復讐することばかり考えていた。俺を嵌めた人間全員を絶やしにしてやる。クフをも見捨て、ヴァベラの民を悪に導く悪魔になってやると。俺がオベリスクに名前をしたのは、クフのためじゃない。誰かが、弟を裁くだろうと、ラムセスと仕向けたんだ。俺の手は汚さずにいたかった」

イザークは眼を伏せた。ティティに言えなかった、逃げ続けた罪が脳裏に甦った。

＊＊＊

取替子のラムセスとイザーク、クフ。オベリスクの前でよく戯れたものだ。

しかし、周りがそれを許さなかった。親さは両國の為にならない。テネヴェ王である父はラムセスの幽閉を決めた。

『お兄ちゃん、蛇のお兄ちゃんは何処へ行っちゃったの？』

在る夜にクフが訊いてきた。イザークは答えなかった。それが、クフの恐怖心のきっかけとなった。

――クフは、何より、三人の時間をしていた。

「僕から大切なものを奪った。ならば、人間は全員死ねばいいんだ」笑顔で告げた。

（その後は分からない。クフが泣くので、父ともみ合いになって、気付けば剣を――）

そして、裁きが始まった。ラムセスは俺に歴史を変えようと囁いた。

（気付けば俺は國の背信を目論んだ黒王子とされ、追放になる。裁きは、オベリスクに降りかかり――……）

「母は発狂した。それを見たクフは、壊れた。壊れた弟を捨て、ラムセスと共に逃げるしかなかったよ。

俺は弱かったな」

きょろ、と亡霊の目がいた。

「神が俺を裁いたは、封じていた悪魔のをクフの中に目覚めさせたからだ。神はヴァベラの呪われたを二度と復活させてはならなかった。……今話しても遅いか。俺はいよいよ裁かれる。霊魂は殘らない。

〝する者を狂気に導いた罪〟「暴食」、「」、「強」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虛飾」、「傲慢」……

「そこまで判れば充分だ。ヴァベラの民、イホメト。マアティたちが何を忘れたと騒いだかと思えば、牝の霊魂の瓶詰め」

「――神さまの汚れた手でっていいもんじゃねえ！」

ティティの瓶を抱き、牙を剝いたイザークに、マアトの鳥眼が細く、いた。

「不貞不貞しい。悪魔の民。おいで。最期の裁きと行こう。我の翅より汝の漆黒の心臓イブが軽ければ、牝の霊魂アクは永遠に消えることとなろう」

「もし、俺の心臓イブが翅より重かったら？」

マアトは変わらずの冷淡ぶりで、答えた。

「奇跡はない。マアト神の翅は、悪には負けん。か細い期待を勝手に抱け」

言うとマアト神は大きな翼に手を突っ込み、一枚の翅を抓み取った。

無の空間に石像のような巨大な天秤カースがぼうっと現れた。幾度も心臓イブを載せたと見える

け皿は赤く錆び付いている。大きな真鍮の天秤カースは、微だにしない。

「なんだ、ここは」

「裁きの間だ。時間が止まった外にある。見よ。――天秤だ」

ふわり、と大きな羽が天秤の左のけ皿に乗せられた。

「汝の罪とを測る。數億年ぶりにね。だが、奇跡はない。マアティ、心臓を」

「はーい、真っ黒心臓イブ載せまぁす」マアティたちがイザークの心臓イブをそろりと載せた。

「幾度も裁いた。人たちが絶した瞬間を汝も迎える。見慣れた景だ」

天秤カースはゆっくりとき出す。（そん、な……）イザークは眼の前の下がった翅を見詰めた。翅の乗った天秤は明らかに傾いていた。マアト神が首を振った。

「――は測られた。汝らの、歴史に不要。ここまで神に抗ったは見事。所詮悪魔の罪は消えないとの理だった。古代の世界はここで、終わろう。徹底的な裁きを」

イザークに絶が押し寄せた。ティティの聲が脳裏に響く。

〝神さまが、私たちのを否定するの。だから、そっち、行けない……〟

（赦される日は、來ない。するを霊魂アクにまで墮として、尚……ここまでかよ）

絶した自分に苛立ちをじた。腸がぐつぐつ沸騰しまくっている。こんなの、俺じゃない。神に逆らう悪魔のは、こんなに弱いもんじゃないはずだ。

――神に刃向かう悪魔の運命。それが俺だと言うならば、徹底的に抗ってやる。

「してる、ティティインカ」

ぴく、と瓶の中のティティの形の霊魂アクがいた。

――悪魔のを引いた故郷なんざ、ご免だ。しかし、神からを奪うに、これほどの武があるものか！

「真実マアートのはこの手で奪う！　ティティの全てをしてるんだ、俺は――っ！」

抜かれた心臓の部分が熱い。イザークは充した眼で、己の黒い心臓を睨んだ。すべてをけ止めた時を思い出す。ティティの全てをけ止めた瞬間。もっと、重く、貴重な何かを吹き込まれたはずだ。罪の分だけ、イザークの心臓は重いはずだ。

（もう、逃げねぇ。俺は、俺から逃げねえ！　罪の重さを噛み締めて生きてやる！　その重さ、引きけた！）

「心配、すんな……。原罪？　しっかり背負って生きてやる。ティティ……」

隣に在ったはずの手はもうない。眼に、けた小さな亡霊が映った。

（もう、ティティは生きていない。霊魂アクになってしまった……）

「全部覚えてる。大丈夫だ。俺が、全部、覚えてるから……戻ろうぜ……あの、ハピ河の俺たちの家で今度こそ、夫婦になる。幸せな時間をたくさん作って――」

カタカタカタ。天秤カースが小刻みに震え始めた。マアティたちの聲がする。

「もう、往生際が悪いですぅ」

マアトは無言で天秤カースを睨んでいた。墨のった目をぴくりともかさず。まるで天秤カースを見守っているかのように。軋み音が響いた。天秤カースが再びき始めている。

（神に勝てるとは思わない。でも、この想いは噓じゃない。真実マアートだ。なんだ、真実マアートはここにある。心臓を抉られても、消えやしない。理を探す必要もないじゃないか――）

――ずっと一緒だ、ティティ――……これで、ずっと、死んでも一緒だ。やっと言える。俺と、ティティは永遠に一緒だと。

（そうだ、一緒に還ろう。互いの名を呼び合って、大切に一日を生きよう。二人で）

してる。俺も、ちゃんと言うから。――まだ、遅くないと信じているから。

「有り得ぬ……」マアト神が呟きで、イザークは顔を上げた。

「天秤カースが、釣り合った……聖なる天秤カースが……世界の理を測る、理の天秤カースが……裁きは不要だ……」

息を飲んだマアト神の前で、天秤カースは揺れていたが、やがて靜かに止まった。天秤は神と、イザークの心臓を水平と判斷した。マアト神の爪先が、イザークに向いた。

「よく見るがいいよ。――決して我と釣り合うなど合ってはならない。だが、我が天秤に間違いはない。おまえたちの、想いはこのマアトの裁きと同じだと証明したんだ。罪の重さだ。罪に耐える汝の心の重さを天秤は量り、見抜いた」

マアトの聲は、今までになく優しかった。

「汝はもう罪人アザエルではないよ。汝を業火へブチ込み、世界を一度終わらせるつもりだった。破壊の労力行使は面倒だ。……奇跡をありがとう」

イザークは呆然としていたが、眼の前で奇跡を讃えるマアティたちの歓喜に正気を取り戻した。

「マアティ、瓶を」

マアトはティティのった瓶をけ取り、差し出した。

「諱を奪われた霊魂アクは、自の心も、姿も覚えてはいない。諱の剝離が長ければ、記憶はさらさらと消える。ティティインカ。よい諱を貰ったものだ」

マアト神は片手を翳し、瓶詰めにされたティティの霊魂アクを解放した。ティティの形の霊魂アクはふよふよ飛んで、イザークの掌に辿り著き、座ってぼんやりと揺れている。驚き、滂沱の涙の瞳の中で、マアト神が再び天秤を振り仰いだ。

「太と月を押しのけ、悪の染みついた世界を正すが使命だ。マアト神は真実マアートの神。真実マアートに逆らうは赦されない。あとは、太神と夜の神が世界を照らす。私は次の世界を裁きに行く。イザーク、汝は罪の重さをに変えた。呪いも解ける」

イザークはティティの霊魂アクを大切に両手に包み込み、マアト神の前で頭を下げた。

振り仰いだ天秤は一縷もかない。だが、イザークがまた、背を向ければ、なんなく傾くだろう。

ティティへのは罪を堪えることで、一生をかけて、証明して見せる。

もう、逃げない。マアトが足を止めた。マアトの瞳を間近で見た。イザークは迷いのない口調で告げた。あと一つ。天秤に量らせたい罪がある。

「全てに絶して、悪に墮ちた弟クフを、この手で救いたい――」