《天の仙人様》第208話
頬を叩かれたような、そんな衝撃が走る。ばしんとして、震えているわけである。それほどの衝撃の後には、何もないかと思うほどの靜寂が待っている。ぴたりと止んでいるのであった。顔を前へと向ければ、目の前にはお師匠様が睨んでいるかと思う視線でこちらを見ているのである。ただ、これは怒っているわけではないだろう。普段からこんな目つきでいる。だから、そこまでは怯える必要はないのだが、であれば、今まさに俺にぶつかってきたかのようなあの衝撃は何だったのかという話も出る。
呆れているかのようだ。ふうと息を吐き出した。それだけで全てがわかってしまうような気がする。それほどのが込められているのだ。そのたった一回の息に。背筋が凍るような空気である。
周囲はボロボロと崩れ落ちていくようであった。夢を夢として形どることが出來ていないのである。なにせ、この夢の主が死んでしまったのだから。今まさに俺の隣に転がっている。が真っ二つに裂けた狀態で。彼が何を目的として俺を引き込んだのかはわかりはしなかったが、なくとも、俺を不快にさせるだけの景を見せることには功している。それが目的であれば、大功であろう。當の本人がこうして死んでいるので、答えはわからないが。
夢の中で死んだからといって現実で死ぬことはない。この男は目を覚ましていることだろう。現実に意識があれば、當然夢は消える。今まさに消えゆく夢の中で俺たち二人はいるのだ。早くここから出するべきなのだろうが、お師匠様はそんな素振りを見せることがない。もしかしたら、消滅した夢の世界に閉じ込められる可能があるというのにである。だが、これほどまでに慌てていないというのは、そうはならないということを示しているのかもしれない。どちらであろうか。わかりはしない。夢に閉じ込められるかもしれないなんて、今まで経験したことがないのだから。
「お師匠様、今すぐにでもここから出たほうが良いのではないでしょうか。ここに殘っていても、事態が好転するとは思えないのですが。今もこうして、ボロボロと世界が崩壊しつつあります」
「……ああ、わかっている。しかし、殘念だ。ここに殘るかすかな気を辿ろうと思ったのだが、そうはいかないらしい。貴様に手を出してきたのだから、しは手がかりでも摑めるかと思ったのだが。そう簡単には隙を見せたりはしないということなのだろうな。殘念なことに、こいつの殺害は無意味に終わってしまった。まあ、貴様を助け出すことには功しているから、無駄ではなかっただろうがな」
しばかりの憎らし気な気持ちを出すかのように、が裂けている男の半を蹴り飛ばす。ぶしゃりという音と共に、壁に叩きつけられた。抜け殻なのである。わずかなおしさも、もじたりはしない。何のも湧きはしない。そこにいるのは、人の死ではないのだ。ただ皮した後の殻のようであり、それに対して、何かしらのを見出すことは不可能であった。
お師匠様は、八つ當たりが終わったようで、パンと手を叩くと、なじみのある場所へと移している。俺の部屋であった。そこに、ベッドの上に座った狀態でいるのだ。先ほどまで寢ていたのだからベッドの上にいるのは當然だろうが、寢ているわけでなく、座っている狀態だったというところが、しばかり気味が悪くじてしまった。それに、追い打ちをかけるようで疲れが取れたような気はしない。俺は今もまだ疲労が殘っているのだ。仙人であるというのに。これがどういうことなのか、俺には一切わかるはずもない。
お師匠様にそのことを伝えてみると、面倒くさそうに俺のことを見ているのであった。説明するのも億劫だと言わんばかりである。だがしかし、俺のこの不安を取り除くことが出來るのは、お師匠様しかいないだろう。経験不足である俺たちがどれだけ考えようとも、答えは見いだせないのだから。
お師匠様の話によると、俺の疲労は何者かの呪によるものであるらしい。彼らの目的は俺を眠りに付けること。疲労からくる眠気を無理やりに引き起こしているのだそうだ。そして、夢の中に引きずり込んだら、永遠の世界の中に閉じ込めるという計畫であるらしい。聞いているだけで恐ろしい話である。実際に俺は、お師匠様がいなければ、男を倒すことも殺すこともできずに、あの夢の中で戦い続けていたのだろうから。
では、なぜ俺なのかという話なのだが、一番弱い仙人だからだというらしい。ハルとルーシィ、そしてアキの三人はまだ仙人としては知られておらず、知られている中で最も弱いのが俺なのだということである。弱い相手から狙うというのは當然である。だから、俺が狙われているのだとか。
誰に、ということは當然の疑問として挙がるわけだが、それはわかりはしない。お師匠様たちの勢力と敵対している勢力のどれかなのだそうだが、心當たりが多すぎて、どれなのかがわからないということらしい。どうして、そこまで敵を増やすことが出來るのかと思わないでもないが、仙人というのは完全に中立の存在でなくてはならないために、あらゆる爭いを傍観してきたらしい。そのために、敵になることはないが、味方になることはない勢力として存在する仙人たちに対する、負のが積もり積もって、敵対しているのだとか。永世中立というのはそれだけ難しいということであろう。
「仙人は他の勢力とは違って、壽命で死ぬことはないからな。永遠に強くなり続ける。手が付けられなくなるような実力者であふれるようになるわけだ。その中で、まだまだ貴様は未者。だから、これから先危険な存在になる前に、自分たちが手を付けられないほどの力を持つ前に、無力化しておきたいという考えがあるのだろう。これからは、しばらく夢の中に引きずりこまれることがあるかもしれないが、その時は冷靜になって出してほしい。全ての狀況であってもすぐに助けに行けるというわけではないからな。今回はたまたまでしかない。何度もこういう狀況があるとは思わないほうが良いだろう」
お師匠様のその真剣な目つきを前にして、否定的なことは考えられない。俺はしっかりと頷くのである。それだけ、お師匠様からの信頼を得ているということだろう。でなければ、自分一人で対処しろとは言われない。今回は、説明もなにもされていない中で、巻き込まれるように襲われたのだから、助けてくれただけなのだろう。本來ならば、俺一人で対処できると思ってくれているのである。その期待には応えたいというのが弟子の考えというものであった。
それに、考えてみれば俺自が標的というのは非常にやりやすいというのもまた事実なのである。これで、変にハルであったりが巻き込まれることになってしまえば、俺は何もできずにいるのだ。他人の夢の中に侵することが出來ないのだから。そうなってしまえば、彼たちを助けることは出來ずに、他の仙人たちの助けを待たなくてはならない。自分のする人を、自分の手で救い出すことが出來ないのだ。どれほどの屈辱的なことだろうか。許されることではない。自分自をそう簡単に許せるようなものではないだろう。それほどに大きな話なのである。
お師匠様が姿を消して、俺と寢ているアオのみとなる。この狀態で眠ることは出來ない。先ほど、危険な目にあったばかりでそう簡単にまぶたを閉じて、眠りにつこうなどとは思えないわけである。朝日が昇るまで、俺の瞳はしっかりと開けられていたわけであった。
とはいえ、ベッドの上でじっとしているのもむずいので、部屋の外へ出ると、トイレから出てきたアキに會う。まだ、使用人たちもき出していない、靜かな屋敷の中でばったりと會ったのだ。
きらりと朝日の中で彼は輝いているようであった。を反しているのか、髪も羽も、をまぶし、その中で輝いているわけである。わずかに寢ぼけているかのような眼は細く開かれており、その鋭さが俺の心に突き刺さってくるかのようなしさとなって存在している。かすかにだらしなさげに著崩れている著から、見えているの見ただけでわかるらかさというもの。さあとなだらかにしてなめらかに溶けているようである。空気に溶けてしまうほどに薄くぼやけているように見えるのだ。惚けてしまうほどにしいのである。ただ、それで見とれてしまうばかりではダメなのである。
「アキ、たとえ、なにがあろうとも俺はお前を守ることを誓うよ。どれほど危険な目にあっていようともそれを助けることが困難であろうとも、俺はお前を全力で助けに向かうからな。そのためにも、俺はさらに強くなるよ」
「アラン…………」
自分の覚悟というものである。それを伝えなくてはならない。今自分のに起きている危機。これを乗り越えなくては彼たちを守ることは夢のその先に屆くことすらも許されないのである。だからこそ、しっかりと今ここで言い切ることで、気持ちを切り替える必要があるのだ。ただ、アキ相手に宣言をしてしまったというところでは間違ったのかもしれない。ぽーっと顔を赤らめて腕を絡ませてくるのだから。瞳を閉じて口を突き出し、ぐいっと近づけてくるのである。おしさをじることはあるが、それ以上に誰かの助けもかすかに求めるのである。その結果が、ルーシィであったのは、いいことか悪い事か。どちらなのかはわからない。
それからというもの、他人の夢の中に引きずり込まれるということはなかった。そもそも、眠気が全くないので、寢ることはしなかった。夜になれば、ひっそりと誰の目にもつかないように、外へと出て、修行に勵むのだ。彼らは自分の舞臺の中に俺を引きずり込んでくるのだから。つまりは、相手が圧倒的に優位な狀況で戦いは始まるということ。これがあるのならば、それを正面から打ち破れるほどの実力を俺がつけなくてはならないというのは至極當然の考えなのである。
修行に最適な場所は聖域であった。あそこは、人が來ない。だから、誰の迷もかけずに修行が出來るのである。一つ一つののきであったり、魔力の流れ、気の巡りを確かめていき、それをより緻にして強大なものへと変化させていく。細く、そして太い力の流れを生み出していくのだ。頑強なものへと変わっていき、ぶれたりはしない。大地と共に存在しているかのような、軸を持つのである。
流れるようなきの中に、自然であるかのように嵐のような荒々しさを紛れ込ませていく。荒く穏やかであるのだ。それを求めている。ゆっくりと、き通るようにして鋭くとがらせていくわけである。
拳は、目の前に存在し、その時にはすでに相手のを突き破っている。構えた時點でもうすでに突き出しているのだ。當たっているのだ。避けることは出來ない。気迫というもので相手を倒すことをする。瞬間の意識の流れの変わり目に、攻撃をしているのだから。呼吸のリズムの裏に行われるようなきなわけだから。目視することも、じ取ることも許されないような、無の一撃。それへと昇華させていくのである。
様子を見るようにして、何人かの樹人がこちらを伺っている。どうやら、夜に見回る擔當の人間がいるらしい。彼らに警戒をされてしまったかもしれない。だが、彼らは俺の顔を確認すると、ぺこりと頭を下げてどこかへといなくなってしまった。何事だったのだろうか。もしかしたら、ここに連れてきてくれた禮をしているのだろうか。それならば、嬉しいことである。俺のしたことは間違ってはいなかったと示してくれているのだから。
意識を切り替えるようにして、拳を突き出し、足を踏み込み、目を閉じて、五をより研ぎ澄ませていく。視覚はあまりにも便利すぎるせいで、他の覚を鈍らせてしまう。だから、あえて目を閉じることによって、他の覚を活化させるのである。この森にいる間は常に目を閉じている。そのまま障害を避けるようにして、をかしていく。細かく、誤差レベルでの修正でもって。
彼らが何の準備をしていたのかはわからないが、そんな日が続いていて一月ほど経っていた。それだけの時間を修行に費やすことが出來たというのはとても喜ばしいことである。それだけの時間を取ることが出來ずに、彼らと戦う羽目になったのではないかと思っていたのだから。想定よりも一段階強くなったのではないだろうかと思わないでもない。
それは突然に來るのだ。毎日のように警戒をしていても、それが無意味であるかのように唐突であった。睡眠薬でも飲まされたのかと思ってしまうほどに、急激に眠気が襲ってくる。仙人となってからここまでの眠気をじるのは初めてだといっても過言ではないだろう。そして、それは敵のいなのだということを知っているからこそ、俺のは張していく。俺の努力が意味のあるとして、相手に通用するのかという不安がある。どれだけ努力しようとも、不安は消えることはない。
ただ、自分自を否定はしない。今までの自分は今の自分を構する上で、必要なものだ。であれば、否定はできないし、するわけがない。俺は堂々と、を張るようにして眠りの奧深くへとわれていくのである。
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