ピシャ、という水のはねたような音と共に、鮮が塵一つない綺麗な床に飛び散る。

「――無理、じゃったか……」

それは黎のになってから一度たりとも味わったことのない覚だった。

圧倒的なスピードと共に、繰り出される彼の太刀筋は今まで看破されたことはない。

ゆえに、久しぶりにじた『空振り』の覚だった。

自の刀が他の何も切ることなく、何もない虛空を切る。

が長しきっていない黎のでは、どうしてもカバーしきれない欠點があった。

それは、耐久力。

相手、とりわけプレフュードの攻撃を一度でもたったければ、この小さなはひとたまりもないだろう。

ゆえに、攻撃を外した瞬間に死を覚悟しなければならなかった黎は、一撃で相手を屠るという方法を今まで取ってきた。取らざるを負えなかった。

右肩から腰に掛けてまで鉾によって切られた傷口からじわじわと痛みが広がり、噴水のようにドクドクとの外に出ていく覚を覚えながら、立っていることができなくなって、黎はその場に倒れる。

冷たい床と下がっていく溫をじながら、黎の眼からは涙が流れていた。

「なん……で、よ…………」

黎を切った梅艶は、その場で直し、を震わせていた。カランッ、と持っていた鉾を落とし、その場に座り込む。

そんな娘の姿を見上げた、黎は、自の意志の弱さにけなくなって、涙が止まらない。

「……すま、ぬな」

賭刻黎にとって大切なものは、たった二人の娘だった。

彼たちだけは、この腐りきった世界の中で何があっても、たとえこの命が盡きようとも、守り抜きたかった。

そのために、こので、今まで前だけ見て進んできた。

仲間を切り捨て、多くの敵を切り捨て、大切なものを手放して、やみくもに進んできたはずだった。

（それ、なのに……）

一瞬意識が飛んでいたらしく、気が付くと、梅艶に抱きかかえられていた。「なんで、なの、よ……」という悲痛な言葉と、ポタポタと落ちてくる暖かい涙をじる。

月に照らされて映る梅艶やはりしく、その目から落ちてくる雫は寶石のように輝いていた。

ゆっくりと、まだいてくれる手をかして、その頬をなぞり、手を娘の元まで落とすと、弱弱しく押した。

「早く……貴は、逃げなさい……」

黎がそう言うと、娘は、首を振りながら「嫌だ」と返してくる。自分の口調が変わっている、いや、戻っていることに、黎自気付いていなかった。

「生き、なさい……梅艶……」

自の愚かさをじながら涙を流した黎は、ふと、これと似たような場面があったことを思い出していた。

あれは、梅艶のことを忘れてしまう、全てが消えてなくなってしまったときだ。

あのときも、こうやって娘は倒れた母の下で泣いてくれた。

あのときも、ひたすらに母は謝っていた。

そう、今もあの瞬間と同じ。

自分は死を恐れてはいなかったにも関わらず、このに『後悔』の二文字が重くのしかかったままだった。

「大丈夫だから、私はここにいるから！ ずっと、一緒にいるから！」

「ぁ…………」

（私の心は、この期におよんで……）

まだ、我が儘を言うのか。

聲を出させず、この狀況をむというのか。

弱すぎる、馬鹿すぎる、愚鈍で淺はかで、傲慢で自分勝手で、それでいて、深い。

そんな自分に向かって悪口を並べ立てるが、開いた口からは言葉が出てきてくれなかった。

（私さえ、いなければ……）

１０年前、この姿になることを選ばずに、死を選んでいれば、こんな狀況にはならなかっただろう。

きっと、自分を呪っても呪いきれないくらいのこんな最悪な気分にはならなかっただろう。

手を握る娘は、自分のしたことを後悔している様子だった。そんな彼の顔を見てズキズキと心が痛む。

「最期まで、一緒にいよう……」

降ってきた一見、歪んでいるようにも聞こえる言葉に黎は何も言えなかった。

言う資格がなかった。

自分は大切な娘を守り切ることができなかったのに、今、その言葉を聞いてひどく安堵してしまっているのだから。

遠くで聞こえていた火の音が近づいてきているのがわかる。いずれはこの天守閣までもを燃やし盡くすだろう。

これは、自の甘さが生んだゆえにたどり著いてしまった、最悪の結末だった。

彼がこの結末をんでいたことは知っていた。

賭刻黎は、梅艶が自分の周りにいる忠臣たちを黎に殺させているとわかった時から、自の立場を危うくする彼の行にある裏に気付いていた。

梅艶が死に場所を選んでいたことを。

この狀況は、誰を頼ることも許されず中心にいながらもずっと孤獨だった彼が作り出した、約束などという自のに唯一殘った鎖でつなぎ止め大好きな人と心中する、そんな悲劇的な最期だった。

そのためにすべてを棄ててしまった彼は、黎が何を言ったところで、死をむだろう。黎がいくら彼を押したところで置いていってはくれないだろう。

しかし黎がんだものは全く正反対の結末のはずだった。

娘のを傷つけてでも、彼の命をつなげること。

たとえ、二度と立ち上がれなくなったとしても、彼が生きてさえいてくれれば、満足だったはずだった。

だが、黎には彼を傷つけることはできなかった。

それはなぜか、ただ大切な娘に対して、非になり切れなかったのか。

違う。

なくとも黎は、彼の四肢を切り裂いてでも彼を止めようとしていた。

これは、ただただ、黎の不徳がしてしまった結果である。

最後の最後、自の刀で梅艶のきを止め、彼だけでもこの場から逃がそうと彼に刃を向けた瞬間、一つや二つではない、膨大な量のが彼の中を駆け巡った。

娘を傷つけるという行為そのものによる嫌悪、彼の心のびに目を瞑る罪悪、梅艶という絶世のを刃で汚すという背徳。

そして――孤獨に死にゆく自への未來への圧倒的な恐怖。

かなくなっていくから、黎は、この戦いで二人が生き殘ることはないと悟っていた。

娘に刀を向けたとき、黎は一瞬先の未來を見るとともに、その後訪れるだろう孤獨な自の最期をも想像してしまった。

そして、恐怖した。

それは娘と同じく、今まで誰を頼らず生きてきた黎が、この姿になって初めてじたドロドロとした吐き気がするほどの嫌なだった。

刀を振るう直前のほんのわずかな間とはいえ、そんなあってはならないに翻弄されて集中を切らせてしまった黎は、刀の軌道を変え、梅艶のから外してしまった。

そして、刀が空を切った瞬間、彼のを『後悔』の二文字が真冬の寒波の様な凍えるような寒さと共に、襲ってきた。

自分はやらなければならない、この姿になって一心に追い求めていたものに対して、最後の最後で、裏切ってしまったのだ。

それは、今までの彼の生き方自を否定したものだった。

かつて守り切れなかった、最も大切な守りたいものを、一時の自のバカげたで火の中に投げれる形になってしまったのだ。

（なのに、どうして、私は……）

娘に抱かれて、何もし遂げられず死にゆくこの瞬間を喜ばしいと思ってしまうのだろうか、大切な人を道連れにしてしまったこの結末を後悔しているのに、心のどこかでんでしまっているのだろうか。

母娘そろって歪んでいる、そう思った。

それでも自信を汚す変なに逆らって、『早く立ち去れ』、『お前だけでも生き殘れ』、と念じて、口を開くが、聲には出なかった。

この瞬間が、あまりにも溫かくて、今までじたことがないくらいに溫かすぎて、涙で前が見えなくなりながらも、全く正反対の言葉が口から出る。

「梅艶と一緒なら、それも、悪くないわ……」

お母様……、とこのときであっても、梅艶はそうつぶやいて、嬉しそうにして笑っていた。

そんな彼を見て、もしも自分が彼を切り、己の命と引き換えに彼の命を助けていたら、娘の意志を一切考えなかった母の思の全てが上手く行っていたら、果たしてこの花は同じように咲いていたのだろうかと考えてしまう。

愚かな母は、この笑顔が曇るくらいならば、この手の溫かさをじたまま、逝くことができるなら、こんな最後も悪くはないのかもしれないと思ってしまった。

もしかしたら、死ぬ直後くらい、自分の過ちなどなく、自分の歩いてきた道を肯定したいだけなのかもしれないと考えて、また、どす黒い何かが心を染めていく。

つくづく、自分は嫌な人間で、二人の人間の一生を得てもなお、つくろっていたのは表面だけでその中は長していない事実に自己嫌悪するしかなかった。

そのとき、黎の小さなにそっと、鮮やかな赤いがれた。

その瞬間、黎は何も考えられなくなる。

彼の中にあった自己を貶める黒い何かも、雲散霧散し、殘ったのは、どこか懐かしい匂いだけだった。

「怖がらないで、私はここでお母様の傍にいられるだけで、幸せですから」

を離した梅艶が何もかもを見かしたような言葉を耳元でそっと囁くと、黎は自を縛り付けていた鎖から解かれたような気がした。が軽くなったような気がした。

（ああ、やっぱり……）

自分は、この子が大好きなんだなとわかる。

當たり前のことだったはずなのに、今この瞬間まで気付かなかった。

探し求めていたものは目の前にあったのに、見えていなかった。

自分は孤獨な死が怖かったんじゃない、ただ、この子と別れるのが辛かったのだ。

『ずっと、梅艶と一緒にいてくれますか？』

それは、いつの日か契った約束。

今では破られてしまったこの約束をしたとき、梅艶の一方的なものだとはみじんも思わなかったはずだ。

自分は途方もなく嬉しかったはずだ。

それこそ、この約束が永遠であってほしいと願ってしまうほどに。

きっと、離れたくないという気持ちはお互いに同じくらい強かったのだ。

それを、この子は知っていただけ。

母である華よりも先に正確にじ取っていた。

ここは確かに悲劇の舞臺かもしれない。

しかし、死にゆく二人の心は同じで、その影もまた一つ。

虛しさも無念さも、悲劇の中で溢れ出てくる吐き気のするようなは、そこにはなく、殘るのは安らぎだけ。

たとえ一般的に『幸せ』と言われているものと、何ら変わりのない、純粋で明なのある最期だった。

「これで、終わりね……」

そうつぶやいた黎はゆっくりと、瞳を閉じ、ぬくもりをじる。迫ってくる死によるあらゆる恐怖はなかった。

「そうっすね、茶番はここまでっすよ」

「…………っ！」

だが、次の瞬間、けたたましい銃聲と共に、この場の全てをぶち壊す、ピエロの聲が響く。

娘のがこわばったのをじて、再び目を開いた黎が見たのは、もう見るはずがないと思っていた最悪の景だった。

「あっ、ああ……」

震える、貫通したから溢れ出てくるが自を抱いている娘の服を濡らしていく。

彼の口から吐き出たが頬につく。その顔からは安らぎは消え、痛みに打ち震えていた。

（なぜ、なんで……こんな、こと……）

黎の手が娘の手から落ちる。

「あっ、ああああああああああああああ！」

目の前が真っ暗になる。

今起こったことの現実が、理解できなくて、理解したくなくて、黎にはただ、絶することしかできなかった。