《いつか見た夢》第96章
朝食を終えて直後、戻ってきた真紀とともに協力員である初老の男の家を出たのが、朝の八時頃だった。街に向かう道は出勤のための車によって、これでもかというくらいに埋めつくされていた。かろうじていてはいたものの流れは悪く、あまりスムースとはいえなかった。
その停滯気味の道路を抜けることができたのはほんの二時間ほど前のことで、午前九時半頃のことだ。もう時刻は一一時半を過ぎ、いくらもすれば正午になろうとしているところだった。繁華街に繋がる目抜き通りには、何軒ものカフェテラスが軒を連ねている。
もうそろそろ、晝の休憩時間ということで近辺のビルからサラリーマンやOLが、これらの店を埋め盡くすことだろう。俺が今こうして座っているオープンテラスのカフェも例外ではないに違いない。
淡い灰がかった丸テーブルには、同じの金屬で縁どった椅子が四つ囲んで置かれ、それらがワンセットで十數組みほど波狀型に店の前に広がっている。そのうちの一つに陣取った俺のテーブルの前には、アイスコーヒーのったグラスが無數の水滴をつけていて、並々とっていた氷はほとんどが溶けかけていた。
ゆったりとした仕草でそのグラスを取ったところで、前方から見知ったがこちらにやってきた。
「こんなところでお茶してるなんて余裕じゃない」
「コーヒーだぜ」
目の前にやってきた、藤原真紀は茶化した俺を無視して反対側の椅子に腰かけると、早速切り出した。
「あなたのいう通り、何日か前に軍人がこのあたりをうろついていたようだわ。だけどった店は、お決まりのクラブや軍屬の人間がいくようなバーではなかったみたいね。もちろん全員がそうだったわけではないみたいだけど、ほとんどの人間がこうした喫茶店ばかりにっていたようよ」
「それじゃぁとても軍人が羽目を外したってじじゃないな。一人や二人、クラブ嫌いがいたとしてそれは問題ないが、大部分がそうだとすれば疑いたくもなる。むしろ、何か他に目的があって出てきたってじだ」
真紀の報告に頷きそういうと、向こうも同じことを思っていたらしく頷き返した。
「そう思ってさらに詳しく調べてみたら、面白いことが分かったわ。これ見て」
飲もうと手にしていたアイスコーヒーを置き、代わりに差し出されたファイルを手にとって中を読む。すると、これが中々に面白いことが書かれてある。
「……なるほど。それで連中は過激武闘派一味を滅させたってわけか」
「そういうこと。あの晩、私たちがそこに運悪く居合わせてしまったというわけ。私たちを襲った連中は、シンガポール軍の走を企てた連中なのよ。そして彼らは、繁華街を遊んだというよりも、あの一味の裏を探っていたんだわ」
その通りだろう。ファイルを見れば、走を企てたという軍人たちが、なぜこんな喫茶店やなんかにばかりいったのか、その理由もよくわかる。彼らは襲撃の手はずを整えるために報を集めていたわけだ。
しかもそれだけじゃない。連中が訪れていたのはただの喫茶店なんかではなく、あの一味のボスと仲間たちと縁ゆかりのある店ばかりだったのだ。過激武闘派を謳っていた一味も、その実、裏の収益だけでなく表向きの事業を展開することで、裏で稼いだ金を隠蔽するための隠れ蓑にしていたわけだ。
さらに襲撃されたあの一味は同時に、所謂、過激右翼派でもあったらしい。どんな國にも、反制勢力というのは存在しているけども、一味はシンガポールという國は本來、東南アジアの獨立した國家であるはずなのだからイギリス連邦に加盟しているということ自が間違っているという、最右翼派に相當するらしい。
こうした手合いの人間からしてみれば、國家プロジェクトと謳っている施設建造が、イギリス利権に絡んでいるという事実くらい知っていても不思議はない。國家の一大プロジェクトとなるのだから、國家の傾向としては改革派が現在権力を掌握しているのだ。そうした権力者との敵対関係にある一味は、イギリスと深い関係にある改革派が國家プロジェクトとして容認した施設建造を阻止するため、今回の政志たちの取引を頓挫させるために荒事を起こしたと見ていいだろう。
がしかし、それは功したものの、今度は連中が狙われる羽目になったわけだから、なんとも皮なことだ。そして、この実行部隊が件の軍から走を企てたという連中になるようだ。改革派の政府にとってみれば、このまま放っておけば調子に乗った一味の連中が、今後も今回のような騒を起こしかねないので粛清したといっても過言ではないのだろう。
「あの一味が襲撃された経緯についてはわかった。しかし疑問もあるぜ。正規の軍隊があの一味を粛清したのはいいが、だったらなんでマスコミに軍人が走しただなんていわれるんだ? もし、ここに書かれてあることが本當なら、正規の軍隊を員させたこと自、軍上層部の人間だって知ってるはずだぜ。マスコミへの報作くらいお手のだろう。それに……」
いいかけて止めた俺に、真紀が続きを促そうと聞いてきたが、俺はそれに対してただ肩をすくめるだけだった。思わず、奴らが別の目的もあっていているということを口にしてしまいそうになったのだ。あの事実は、早朝に真紀が初老の男の家に戻ってきた際にも、連中の目的がなんであるかまでは摑んでいなかったので、この事実は俺ののにだけ留めておいたのだ。
真紀が集めた、この報のファイルにもやはり、あのリーダーらしい男がいっていた事実は書かれていない。これだけは自分の手で見つけ出さなければならない。自分の都合上、真紀と行をともにしてはいるが、これ以上は真紀に突っ込んだことをしてもらっては困るのだ。
「いや、なんでもない。それよりもだ、正規の軍隊が右翼過激武闘派である一味を壊滅させたって裏報が、本當のことだとして裏社會じゃ流れているわけだが、あんたはこの辺りについてどう思う。昨日の新聞やニュースにもそれなりに目を通したが、それらしい記事は見當たらなかった。これはどう考えたっておかしいだろう」
「もちろんそう思うわ。軍の公式発表は一切ないし、それどころか、どうも軍部では大騒ぎになっているって話みたいだからね。けれど、同時に軍も今回の件については知っているんじゃないないかって節も見え隠れするの」
「というと」
真紀がいうには、軍の部が騒になっているということは本當であるが同時に、一部ではそれが起こる可能を予見していたかもしれない人もいたというのだ。これが事実だとしたら、それも確かに頷ける。軍の正規部隊が右翼過激派の武闘実行部隊を壊滅させたことを知っていないからこそ、マスコミへの公式見解もないのは當然だ。
それとともに、連中のごく一部に今回のことを知っている人がいて、その人こそが彼らをかしたと考えれば、決してあり得ない話ではない。さらに、軍を走したという連中がその後どうしたのか、それについても謎だったがこれも簡単に謎が解ける。その人が連中を匿っているのかもしれない。
なによりその人がである可能すらある。あのリーダーらしい男のいっていたことを信用すれば、その背後にいるのはであるらしいのだ。
「報の出所は」
俺は自分で行すべく、真紀に問いかける。
「なに、急に」
「俺は連中に襲われたんだ。奴らにお灸を添えてやろうと思ってね。それとどうも、俺の仕事ともあながち無関係というわけではないみたいなんでな」
「……この通りを東にいって、二ブロック先のとても目立つビルの地下にある萬よろず屋がいっていたわ」
また何かやらかす気なのと、真紀の目は明らかにそういっていた。職業柄仕方ないなといってをニヤリと吊り上げ、俺は席を立った。
真紀の教えてくれた通りに、その萬屋は存在していた。近代的なビルの地下はどこか昔の雰囲気を醸し出した、所謂、雑貨屋といった趣きのある店で、場所としてはどちらかといえばここには不釣り合いな店だ。ここを訪れた日本人のの紹介できたというと、店主の親父はすぐに真紀が摑んだ報の詳細を教えてきた。
「ところで、軍関係者の中に政界と強い繋がりを持った人はいないだろうか」
「いるよ、それもたくさんね。右翼派、左翼派、社會主義者を唱える者に賛同する者、あるいはその政敵に加擔する者もいるね」
「右翼派の政敵といえば、これといった人は誰かいないか」
尋ねると店主はその口を閉ざし、対して仕事もないカウンター周辺の雑務に取り掛りだした。つまるところ、それ以上聞きたいというのなら金を払えという意思表示だ。萬屋だけあって、報もきちんとした商品であるわけだ。俺はスラックスのポケットに忍ばせておいた一〇〇〇シンガポールドル紙幣を、數枚取り出して店主の前でちらつかせて見せる。
「前金で二枚出す。納得がいく報を話せば、さらにもう二枚出そう」
店主はニヤリと無言で差し出された二枚の紙幣をけ取ると、ぐっとを寄せて自信ありげに囁きだした。
「……これはあまり知られていないことだが、今回の騒には裏がある。どうも、高等弁務が絡んでいるらしい」
高等弁務とは、かつての植民地政策において本國から派遣される外使節長にあたり、他にも総督、大使と呼ばれる場合もある。現在では、これらまとめて大使と呼ぶほうが馴染み深いだろう。イギリス連邦加盟國同士の外については、この高等弁務が大使に代わって全権を擔って活することになる。
この役職にある者は本國元首より、派遣された土地での全ての活を擔うと同時に全権を任せられることになるため、その土地においては一大権力を手中におさめることにもなる。つまり、その土地での外においては、事実上のトップといっても過言ではないのだ。ことイギリス連邦においての高等弁務となれば、派遣された國の中においても非常に強い発言権を持つことも意味する。
「この高等弁務は、現在のシンガポール外相と強い繋がりを持ってる。この外務大臣は三年ほど前に閣僚抜擢されたぽっと出の若造だが、その外手腕はなかなかのものだという評判だ。しかし、この外務大臣は高等弁務の傀儡らしい。高等弁務が回しなどの裏工作をしていたわけさ。
そしてこの外務大臣の親はシンガポール軍の、元中將という大変な家柄の持ち主でもある。むしろ、この元中將と弁務が繋がってると考えていいよ。この親である元中將ってのが現役だった頃、今からおよそ一三年ほど前の話になるが、ある紛爭に自國軍の一個中隊を戦地に送り出したことがあるんだ」
一個中隊といえば、おおよそ一〇〇名ほどの人員が員されたとみることができるが、その任務容は當然ながら極だった。外相の父親だという元中將は、名をトニー・イサークというらしい。
元々は高名な軍人の家系の生まれであるトニー・イサークは、いくつかの戦役時に大佐として実績を積んで中將にまでのし上がった。イギリス軍本部とも相當な深い関係をこのときに結んでいたことが想像できるが、本國イギリスから派遣された高等弁務と関係がある以上、そのときに築いたコネクションが生きているというわけだ。トニー・イサークは息子に、現シンガポール共和國外務大臣としてのポストを用意することで、家の安泰を試みようとしているのだろう。
「その外相だっていう息子の名は」
「シュガール・ヤン。今五一歳のヤンだけど、なんせ父親は當時のことを知る人間なら、英雄といってもいいほどの人だ。その二世ともなれば軍は當然、政界にもかなりの影響力を持っているものだよ。そして今や、外相の座にまで上り詰めたわけだけど、こいつの辺に最近妙なきがあるね。
元々、先の高等弁務は父親のトニー・イサークとの繋がりを持ってはいたけど、息子のほうとは全くかすりもしないほどだった。なのにどういうわけか、この數ヶ月の間でヤンの屋敷に四度も訪問しているんだ。それどころか、ヤンもこの弁務のところに出向いているあたり、間違いなく裏取引がされたと見て間違いないよ」
「その取引というのは、例の海から真水を汲み上げるという施設の建造、これについてだろう」
俺がそういうと、店主は力強く二度三度と頷いた。
「そうさ。だけど、それだけじゃないよ。これが建造された暁には、本國イギリスから研究者を置くことも口添えした可能がある」
「イギリスからの研究者」
「そう。多分、施設の設備に関して、自國のものを設置、建設することで利権を得ようとしているんだと思う」
利権というのは間違いなく本當だろうが、おそらくそれだけではあるまい。そもそも、イギリス國王から直に命をけている弁務が、そのようなことをわざわざ言いに行くものだろうか。もちろん、ないとはいわない。しかしだ。そもそもこの施設建造には、ミスター・ベーアが深く関わっているのだ。だからこそ、政志の奴がシンガポールにまで商談を持ち込んできたのではないのか。
にも関わらず、建造についてイギリスが出てくるというのは、今ひとつ腑に落ちない。これでは、連中がこのプロジェクトそのものについて始めから知らなかったかのようにすら思える。このシンガポールがイギリス連邦加盟國である以上、高等弁務にこれらプロジェクトの一端すら知らされないというのは、はっきりいって考えられない。
どこかで、報がいかないようブロックされていたとでもいうのか……。いや、それはあり得ないだろう。高等弁務は派遣された國においては、非常に強い権限を持つ特別職だ。この弁務の耳にれないというのはすなわち、イギリスへの反逆と見なされてもおかしくはないのだ。
(いや、待てよ)
可能は低いけれども、考えられないこともないかもしれない。俺はてっきり、こうした報が使いの報員から得られたものかもしれないと考えていた。が、実はそうでなかったとしたらどうか。実際には政府、それも閣僚會議で行われた容を、意図的に弁務の耳まではれなかったとしたら……。
俺は咄嗟の閃きに、思わず口をついた。
「弁務とのパイプを持っている奴はいるか。今回の施設建造の関係者の中でだ」
「もちろんいる。一人は今あがったトニー・イサークとその息子、シュガール・ヤン。それにアメリカからの移民二世で、日系人のライアン・トーマスと名乗る男がいるね」
「ライアン・トーマス……どんな男なんだ」
當然のことにそういうと、店主は饒舌だった口が途端に重くなり言いよどんだ。
「んーむ……実のところね、このライアン・トーマスという男については、ほとんど謎に包まれてるんだ。勘違いしないでくれよ、おれだって一介の報屋だ、きちんと調べたけど詳しいことはほとんど出てこなかったんだ。正直な話、今話した容以外に、この人が本當に実在しているのか、それすらわからないときてる」
「そうかい。なら、殘りの二枚は無しということでいいんだな」
知らないからといってそれを鵜呑みにするほど馬鹿ではない。仮に本當だとして、そういえば別のことを口にしてくるに違いない。報屋はあくまで報屋であって、暴力のプロというわけではない。向こうも明日食っていくための金がしくないわけがないのだ。
「待ってくれ。知らないのは本當だ、こいつは信じてくれ。だが、他のとっておきを教えるよ」
「だったらそのとっておきとやらを教えるんだな」
店主は頷き、再び軽快に口を回しだした。
「さっきの弁務のことなんだが最近になって、突然何人もの召使いを雇ったらしいんだ」
「召使いだって?」
「ああ。それも二人や三人じゃない。おれが確認しただけでも、なくとも二〇人は下らないだろう。おかしいと思わないか? いくら弁務が特別だとしても、突然それだけの人材を雇うだなんて」
「それは確かにそうだ。雇ったのはいつ頃の話なんだ」
「ここ最近の話さ。一ヵ月ほど前のことだよ。この時期、もう一つおかしなことがあった。軍隊から何十人という現役の兵士が宿舎から走したなんていう、なんとも由々しき事態が。どうだろう、おまけに彼らは行方知れずときてる」
「行方知れずだと」
これは驚いた。けだしたということで、てっきり単に遊びたい一心での馬鹿げたことだと考えていたのだ。実際、そうした事実があって、軍側が戻ってきた兵士から事を聞いた上での発表だとばかり思っていたわけだ。真紀の現地協力者だという初老の男もいっていたので、頭の片隅に留めておきはしたが、いまだ行方が知れないとなると事態は変わってくる。
「さらに驚くのが、この走したという連中が軍の中でも指折りの兵士たちだったということ。要するに、コマンド部隊だったんだよ。そんなのが走したとなれば、さすがに軍も正式な発表はできないだろうね」
確かにこれまた驚きの報だった。まさかコマンド部隊が走したなどと、一誰が考えるだろうか。人並みにが生えた程度の知識しかないけども、確かシンガポール軍のコマンド部隊はアメリカの特殊部隊であるSEALsに訓練された部隊で、訓練生は當然、アメリカ軍がく際にもよく実働されるという噂もある実力派部隊だったはずだ。
この話が本當だとすれば、とんでもない事実だ。このシンガポールという國も、長きにわたり一黨獨裁が続いているだけあって、こうしたスキャンダルは表沙汰にできるはずがない。もし発覚すれば、それこそ野黨からの反論は強まるし、國民からも総スカンされてもおかしくない。
「最後だ。その弁務の名前も聞いておこう」
「ジョン・マクソン」
待ってましたといわんばかりに、店主は短くその名を告げた。
西の空が茜に染まり、天空が緑とも藍ともつかない不思議なへと変わる頃、俺は車の中、ジョン・マクソンの屋敷の前にて様子を窺っていた。晝間のうちに、ジョン・マクソンという男のことをいくらか調べておいたのである。
するとなかなかに興味深い事実が判明した。ジョン・マクソンは、六年ほど前にイギリスからこのシンガポールに派遣された人で、前高等弁務が、不慮の事故で死んだことが原因であるらしい。これだけで、なんとも訝しいことだがそんなことはこの薄汚い世界ではよくあることなので、良しとしよう。問題は前高等弁務が死ぬ直前に、後任にはジョン・マクソンではなく、別の人を推薦していたということだ。
もちろん弁務に後任の承認や決定権はないものの、推薦されるということは事実上、次期高等弁務のポストはかなりの割合でその推薦された人になる。前弁務は、すでに後任者を決めていて、推薦者を挙げていたにも関わらず、それが葉うことはなかったというわけだ。
こうした経緯によって弁務が死んだ直後、正式な弁務を置く前に、ひとまず代行の弁務が置かれることになる。この代行者こそが、ジョン・マクソンだった。
當初マクソンの任期は代行者ということもあって、正式な弁務が決定されるまでのわずかな期間のはずだった。だというのにマクソンは、後任に推薦された人を差し置いて、今ものうのうと高等弁務としての地位についているのである。どうも、推薦された後任者が辭退したらしいのだ。
政治家や僚のポスト爭いなど興味はないが、今回の一件に絡む人というだけあって、こうした事実は知っておいたほうがいい。このジョン・マクソンの屋敷に、正不明の召使いたちが大量に雇われたというわけだから、決して無視はできない。おまけに、この人が世に出たのがまたもや六年前とくると、どうにも何か因縁めいたものをじて仕方ないのだ。
「……そろそろか」
時計をちらりと見やった俺は、すぐに視線を屋敷に戻してつぶやいた。俺が調べたことを頼りにすると、今日はこの後、マクソンの支援する政治家の後援會があるらしく、マクソンはそこに出席するために出かけることになっているようなのだ。
直接マクソンを締め上げてやれば済むことだが、奴は非常に厳重な警備網を布いているため、迂闊に近寄ることができない。そこで俺は、警戒が比較的手薄になる留守の時間帯を狙って、野郎の屋敷を調べてみることにしてみたのだ。何かあれば、わざわざ危険を冒して締め上げることなどしなくとも、ある程度事が見えてくるに違いない。
案の上、いくらとしないうちに門が開かれて、黒塗りのリムジンが數臺と一臺のバンが出てくると、街の中央へ向かって走り去っていく。そして最後のリムジンが抜けると、すぐに門が堅く閉ざされた。見たところ門の周辺に人影は見當たらないので、センサーが取り付けられていて自で開閉することができるのだろう。あるいはカメラが取り付けてあり、それらを監視することで、開閉のためのボタンを作する人間が別にいるかもしれない。
そう考えた俺は、最悪の場合に備えて後者を選択した。別にただ最悪だからという理由だけではない。ある程度の予想もついての選択だ。晝間の店主が口にしていたことを考えると、數日前に俺を襲ったあの連中のことが思い出されるのだ。
よく訓練され、実に無駄のないきをしていたあの連中は、今思い返してみれば、どことなく軍隊の兵士だったように思えてくるのだ。しかも、ただ訓練されただけとも思えない。俺とてプロなのだから、敵の襲撃に気付かないわけはない。だというのにあの連中は、殲滅された一味のアジトの周辺にすでに潛んでいたのだ。
これがただ訓練されただけの兵士に勤まるものだろうか……答えは否だ。奴らが軍隊だとして、武裝した連中を捕らえるつもりもなく、一人殘らず生きて返さない徹底振りはむしろ、特殊な狀況を想定して訓練された者だからこそできる行だった。つまり、ああいった奇襲作戦に心得のある、特別部隊と考えるのが普通だろう。
となると、あの店主のいっていたことは限りなく真実に近くなってくる。特殊部隊の兵士が走し、いまだに行方がわからない。この事実を知って、困したという軍上層部が発表した苦し紛れの言い訳。そして、シンガポール國において、本國からの強い任命権を行使することのできる権限をもった、ジョン・マクソン高等弁務の屋敷に突然雇われたらしい數十人もの召使い……。
もはや、マクソンがこの特殊部隊の連中を手元に置いていると考えるのが自然だろう。この召使いたちこそが、行方知れずになったままの特殊部隊の連中なのだ。そうとしか考えられない。
そんな連中がマクソンの辺を警護しているとなれば、こちらにとってこれほど危険で不利なこともそうはあるまい。これらの事から、そのメンバーたちが大量に留守になるだろうこの時間を狙って、マクソンの屋敷を訪れたというわけだ。
同時に、こうした事を考慮し、まだ屋敷には殘留部隊が配置されていたとしても、なんら不思議はない。特殊な訓練をけた兵士の中でもとびっきりのエリート兵士たちが渦巻く特殊部隊が、そんな初歩的なことを怠るはずもないだろう。
俺は乗っている車を助手席側からそっと降り、開けたドアのすぐ下にあるマンホールの蓋を専用の道を使ってこじ開けた。中は真っ暗で何も見えない。車の後部座席のドアを開けて、必要なものを取り出して擔ぐと、こじ開けたマンホールの中へ、の壁に埋め込まれた垂直になった梯子をゆっくりと降り始めた。
頭だけが地上に出るあたりまで降りたところで、こじ開けたマンホールの蓋を閉じて暗闇のマンホールの中にを沈める。すぐに、あらかじめ咥えていたペンライトをつけ真下を照らしながら梯子を降りていく。
下降していくにつれ、水音が聞こえてくる。しかし、マンホールの中は呼吸するのも躊躇われるような、粘りつく饐えた汚臭はあまりしなかった。真っ暗なため地面までどれほどあるのかわからないが、それでもかつて験したあの汚臭がしてこないだけ、はるかにマシだった。
そうこう考えているうちに、真白いに照らされて濃い灰のコンクリートの床が見えた。直後に足が地に著いて、俺は足元とその周辺を、咥えたペンライトを手にして照らして見た。アーチ狀になった天井は低く、ご丁寧にも金屬製パイプの手すりと、人がひとり通れる程度の細い通路が、アバウトながら屋敷の方向へと一直線にびている。
中央には辺りの建や家々に配給されている水が流れていた。飲み水はともかく、生活用水に困ることのない日本で生まれ育った俺にとって、この水がこの國において貴重なものだという認識は、とても持つことができなさそうな量の水だ。本當に水に困っているのか疑問にさえ思えてくる。
俺は慎重に通路を屋敷へと向かって歩き出す。足音を忍ばせているはずなのに、やはり環境が環境なだけあって、かつかつと、どうしても足音が反響してしまう。今回の相手が普通であればさほど意識はしないが、今回は特殊な訓練をけたエリート兵士たちが相手だ。この地下水路にも、なんらかの監視センサーの類をつけていないとは言い切れない。
屋敷を訪れる前に俺は、真紀に頼んで地下水路の見取り図を手にれ、それを頭に叩き込んでいた。頭の中に広げられた迷路の道筋を辿りながら、いくつかの合流地點を越えてようやく、屋敷の真下に位置するはずの場所にたどり著いた。その場で辺りをライトで照らしながら見回すと、水流を挾んだ反対側に古びたドアが目に映る。
(これだ)
俺は擔いでいたサックを降ろし、中からお馴染の鉤縄を取り出して反対側の手すりに向かって投げてかける。四の鉤のうち二本が手すりに引っかかり、水流の中に垂れたロープを引っ張ってこちら側の手すりに、しっかりと結びつける。二度三度と、思い切り張られたロープのしなり合を確かめたところで、手すりを越えて反対の岸に向かって綱渡りをするつもりだった。
水流はさほど強いわけではないが、真っ暗ではどれほどの水かさがあるのか知れたものではない。うかつに泳いで渡ろうものなら、予想以上の深さと水の流れで流されてしまわないともいえない。ここは慎重な方法でいったほうが確実だろう。それにもしそうだとして、そうだと気付かずに流されでもしたら、それこそ間抜けな話だ。
慎重に手すりを越えて張り詰めたロープにを任すと、俺の重によってロープがたわみ、足が水流につく。足首どころか、膝上まで濡れてしまう。さすがに日も當たらない地下水道を流れる水だけあって、水溫はなかなかに冷たい。しかし十分に綱渡りのできる水圧と流れなので、しっかりとロープを摑んでさえいればなんとかなりそうだった。
左手を肩幅よりも広くばし、先のロープを摑む。今度は右手をスライドさせてロープを移していく。一番深い場所では、間はおろか腰の辺りまで水に浸かってしまい、服が濡れる覚が不快だったが、それもだんだんと吊り上がっていくによってしずつ水の流れをじるの面積が減ってくる。
ようやくばしていた左手が対岸の手すりに屆いた。俺は一気に右手を手すりにかけると、懸垂しながら手すりを越えて対岸の通路にを下ろす。小さく一息つくと俺はすぐに目の前にある、古ぼけてなかば埃をかぶっているドアを開けられないか手短に調べる。予想通り、ここは非常用ということもあるのだろう、鍵はかかっていなかった。
開いたドアの向こうをライトで照らしてみると階段になっており、緩やかな螺旋を描きながら屋敷の中に繋がっているようだった。周囲にも気を配ってみるものの、罠やセンサーのようなものは見當たらない。まぁ、ここが非常用という名目で作られているというのなら、わざわざ罠を張るようなことはしないと思うが、それでも油斷はできない。念には念を押しておくべきだろう。
罠やセンサーがないことを確認して中にり、音を立てないよう、そっとドアを閉める。そして素早く階段を昇りはじめ、中腹あたりにきたと思われたところ、あることに気がついた。
(埃がない……?)
そうなのだ。ここに侵するためにったドアには、狀況が狀況でなければ躊躇われるような薄汚い埃の溜まっていたのに、どういうわけかこの階段には、それらしい埃や汚れといったものがさほどないのだ。いいや、地下へ続く非常用階段という事実を考えれば、々綺麗すぎるかもしれない。
こんな出用の非常用階段を誰かが念りに掃除したとでもいうのか。もちろん、それがないとはいえない。最近突然雇いだしたという召使い達が、気を利かせて掃除したかもしれない。しかし、こんなところまでわざわざ掃除するほど手の込んだことをするというのは、いささか考えにくい。
第一、こんな出用の階段を最近雇ったばかりの召使いたちが、いくら主人のためとはいえ、ここまで面倒くさいことをするとは思えない。仮に自分たちのためだとしても、こんな薄汚く、鬱な地下階段を丹念に掃除するはずもないだろう。せいぜい何かあった際に、出ルート確保の確認のために一度訪れてさえいれば十分問題ないはずだ。
それが気にかかった俺は立ち止まり、簡単に周りを調べてみるとますますおかしく思えてきた。調べてみたところ、どうも掃除をしたわけではなさそうなのだ。階段の端々にはやはり埃や汚れが溜まっており、とても綺麗にしたとは思えない。むしろ、この階段が綺麗かといえばそんなことはなく、どちらかといえば薄汚れたほうであることが窺える。
となるとここは、なくとも二回以上は人間が行き來して、自然と埃などが掃われていったということになる。思えば、晝間の店を主も多くの召使いを雇ったというわりに、どうもはっきりとしない言い方だったのを脳裏をよぎる。大量に食事の量が増えたとか、そんなことばかりだった。明確に人を見たというわけではなかった。いや、実際には見てはいないといっても過言ではないのだろう。
だが、それもこの階段の狀況を鑑みれば頷ける。つまり、ここはそれなりの頻度で使われているのではないかということだ。それも一人や二人といった人數ではなく、一度にかなりの人數が通ったに違いない。おそらく雇われたらしい”召使いたち”は、皆この非常用階段を使って地上に出ていたのだ。そうすれば軍部の連中が、なぜ未だに兵士たちの行方が摑めないのかも説明できる。
これで高等弁務ジョン・マクソンは黒であることがはっきりした。そして、俺を襲ったあの連中がシンガポール軍が誇る鋭だということも。さすがにあんな連中を相手に、スタンドプレーをやり切れる自信はあるとはいえないが、反面なぜかわくわくしている自分がいた。俺は頷いて、再び階段を上りだす。
(だが)
それらが間違いないとして、引っかかることはあった。連中の現場指揮をとっていた男は、自分たちは一人ののもとに集ったのだといっていた。これは一どういうことなのか、全くわからないのだ。あの男がいっていたことが狀況から考えて、とても噓とは思えない。
それとも、ジョン・マクソンというのがである可能はどうか。……あまりに馬鹿馬鹿しくて移しながらかぶりを振った。晝間の店主ですらはっきりと男だといっていたし、俺が調べた上でも間違いなくジョン・マクソンは男だ。ここで実は転換して男になりましたなんてのは、とんだブラックジョークだ。笑えないにもほどがあるというものだろう。
まぁいい。それもこの屋敷を調べれば、ある程度わかってくるはずだ。妥當に考えて、あの男のいっていた通り、あの連中が一人ののために集まったというのは、おそらく真実だと考えていい。となれば、その連中を匿うジョン・マクソンも、なんらかの形でそのと関係を持っている人に違いない。
そう自分を納得させたところで、階段は終點にたどり著いた。終點の先にあったのは再びドアで、それもり口のドアと違い、先がどうなっているのか見通させない重々しい金屬製のドアだ。まるで、近代の刑務所かなにかの施設にありそうな、堅牢さを持っていると誇示していそうな扉だった。
俺はくぼみになっている取っ手部分に指をかけ、橫にゆっくりと、確実に力を籠めていく。すると、想像通りの堅牢さと重みを持った扉は、わずかに軋む音を立てながら徐々に橫へとスライドし始める。を橫にしなければ通れないくらいの隙間ができたところ俺は扉を引くのをやめ、をらせるように屋敷の中へとった。
だが扉を抜けてった場所の景を目の當たりにし俺は、さっさと移しようとした足を止め口をついていた。
「なんなんだ、この部屋は」
扉の抜けた先は、なんとも珍妙な部屋だった。奇妙な品が所狹しと置かれ、あるいは散らばっているようにも見える、骨董品置き場のような部屋だったのだ。空調は効いているようだが、なにか意味不明の寒気をじさせる部屋をゆっくりと歩いて、それらの品々を軽く凝視する。
本當に奇妙で薄ら寒い部屋だった。人模型や、大小のホルマリン漬けにされた生の標本は壁際の棚に大きさ順に置かれ、中央にはテーブルがあり、何本もの試験管とビーカーがある。それになんのためなのか、中世ヨーロッパの騎士甲冑が両の窓際に二。何もないはずの窓の向こう側を護衛しているかのように安置されている。
その窓を見て訝しく思った俺は、近寄ってみて驚いた。見る側を奇妙と思わせるのも仕方なかった理由もわかって、ますます奇妙な覚にとらわれる。なんとその窓は、実際には単なる壁だった。窓と思ったのは、壁に描かれた絵だったのだ。おまけに、今はもう日暮れ、いや夜といっても差し支えないというのに、夕暮れを描いたものなのが逆にぞわりとさせられる。
そんなありもしない窓と空を護衛している甲冑二が稽のようでありながら、ますます薄ら寒くじさせる。さらに部屋の奧に進むと、それまでとは比べられないが安置されていて、この部屋にいるのに嫌気が差してきた。これまでは単に人模型やホルマリン漬けにされた生の標本程度で済んだが、ここはもうそれらすら生溫い異世界なのだ。
ホルマリン漬けになっている標本があるのは同じだが、この奧の部屋はただの生の標本などではなかったのだ。
「……ジョン・マクソンとかいう男は狂ってるのか」
棚に陳列されていた標本の中を覗いてみて、思わずそうつぶやかずにはいられなかった。驚くべきことに、標本として浸かっていたのはなんと人間の臓なのだ。そのラベルに書かれた簡単な説明書きを見て、知らずのうちに強くしたを噛んでいた。
標本になっていたのは人間の心臓で、今にもき出しそうなほど生々しく、捌かれたばかりなのか妙に活力を帯びた赤をしている。書かれた日付は手した日のものなのか、あるいは臓がホルマリンに浸かった日のものなのかは定かではないが、半年すら経っていない。そしてラベルの最後には、この心臓が誰のものだったのかを示していて、名前と國籍が書かれている。
「ウー・アベル……シンガポール人、か」
その棚に置かれていた標本は、おぞましいことに全てが人間のもので、ご丁寧に名前と國籍、それに日付が書かれてある。中には、その臓の持ち主であったらしい人の顔寫真すら添えられて張ってあるものもある。しかし、最も奇妙だったのは、それらが全てここ一年以のものばかりだということだった。つまり、ここにある臓の持ち主たちはほんの數ヶ月、あるいは一年ほど前までは生きていたということでもある。
また部屋には先と同様、中央にテーブルが置かれており、そこには一なんのためのものか知れたものではない裝置のようなものもあった。いいや、よくよく周囲を凝らしてみると、部屋のあちこちにこういった用途不明の裝置らしきものがあるのだ。
そして部屋の壁際には、六ヶ所に渡って正確に宗教的な意味合いがあるのだろう、おどろおどろしい悪魔をモチーフにしたイコンや像があった。これではまるで、黒魔の儀式でもしていたのかと思わせるには十分なものではないか。
こんな部屋の中で、一際目立つ大きな裝置の前に俺は妙な好奇心を持ってしまった。怖いもの見たさとでもいったところか、とにかく大きな布が被せられているそれを、どうしても見なくてはならないような錯覚にとらわれたのだ。頭の片隅で、やめておけと誰かが警鐘を鳴らしてはいるが、俺はなかば顔の筋を引きつらせつつもその布を引き剝がす。
「うっ」
目の前の現れた”それ”を目の當たりにしたとき、そんなき聲が噛み殺しながられる。目の前に現れたのは、薬に浸かっている人間だったのだ。別は……いや、あるいは男なのか……俺には全く判斷のしようがないモノだった。
人間の死など見慣れているはずの俺でも、思わず全のを逆立たせ、間をみ上がらせてしまうほどのおぞましさなのだ。全のいたる部分、間接部分で切斷され、そこを再び手用の糸か何かで繋ぎとめられたものだったのだ。これを見てなんとも思わない奴は、それこそ常軌を逸している、あるいは気違いでしかあり得ない。
死は顔、頭部は間違いなくのものだった。しかし、軀はというとそうではないのだ。切斷されたそれぞれの部位は複數の人間のものであるようなのだ。首と繋がっている部ものものであるようだが、部の中心から真っ直ぐに切斷され、全く違うのもの同士を繋いだものだった。
それでいて肩は、また別の人間のものであるようだった。それもではなくおそらくは男の肩であろう。線の細さをじさせつつも、確かに発達した肩筋は年若い男のものであるように思われた。それが肘のところで再び切斷され、肘から先はまたの手になっている。
は、部から下の上腹筋はしくくびれた腰と臍はのものなのに、なぜか間は強制的に男が生えている。そして関節から下の両足は同一人のものなのかは定かではないが、やはりのものが切斷されてい付けられていた。
何よりも俺を総立たせて仕方ないのは、死のの顔だった。瞳は単に閉じられているだけかと思いきや、瞼がい付けてあるように思われるのだ。いや、い付けてあるというより接著剤か何かで、二度と瞼が開かぬよう閉じられているようであった。それとともに、も同様になっていた。薬中の黒く長い髪は一切きがなく、放狀に流れびた一本一本のが張り付いているかのような錯覚を與える。
そしてその顔は、どういうわけか妹の、沙彌佳の顔にどことなく似ている気がしてならないのだ。が東洋人だからそう見えるわけではなく、整った鼻筋と左右対稱になった目、眉のじから郭すら本當にそれらしく見えるのだ。
(まさか……)
考えたくもないことが脳裏をよぎってしまい、もはや部屋のおどろおどろしさなど瑣末なこととしか思えない。恐る恐る近づいてそのつぎはぎの死を凝視する。せざるを得なかった。ごくりと唾を飲み込む音が自分のものとは思えず、その死の猟奇的な魅力に完全に目を奪われていたのだ。
しかし、それがいけなかった。背後に人の気配がしたのを察知したにも関わらず、反応するのが遅すぎた。
「やぁ、よくきたね。待っていたよ、クキ」
素早く振り向いた俺の目の前にいたのは、なんとも奇妙で矮小な人間だった。そいつが微笑を浮かべながらそういった。
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