《と壁と》第二章 桐紋
第二章 桐紋
恵子は、快速電車で渋谷から小山まで行き、小山駅で水戸線に乗り換えて、結城駅で降りた。
と、書くと簡単そうであるが、小山駅で、ここまでまたされるとは思わないほど待たされた。もう、いい加減にしてくれよ!と思っているときにやっと電車がやってきてくれたのはいいものの、特急も急行も何もなく、すべて普通列車であり、信じられないほどのろく、一両に一人か二人乗っている程度だ。
そんな電車に乗って、恵子は結城駅にやってきた。東京の駅に比べれば、キオスクも、飲食店も、コンビニも駅ビルも何もない、本當に小さな駅だった。電車を降りると、誰もいないホームを歩いて、一つしかない改札口を抜け、本當に人のない駅構の窓から、大きなビルも、ショッピングモールも、レストランも本當に何もない、結城の街が見えた。ちなみに、水戸線では、自改札機がある駅を探すほうが簡単だという。
「ついに來ちゃったか。」
しため息が出た。
ここまで何もないとは思わなかった。
伯父の天川淳一さんは、父の話だと、北口駅前で待っていてくれているというから、恵子は北口のほうへ向かった。エレベーターさえもなかったので、何年ぶりに駅の階段というを降りた。
北口から出ると、タクシーが數臺いて、どれも眠そうな顔をして運転手が客を待っていた。
もしかして、客と勘違いされるのではないかと思われながら、恵子が迎えを待っていると、
一臺の軽トラックが、彼の前に現れた。え、まさか?と思っていると、トラックは彼の間で止まった。
「ごめん、待った?」
運転席から、天川淳一さんが、彼に聲をかけた。灰の著をに著けた、白髪のよく似合うおじさんだった。
「いや、ごめんね。車をかみさんにとられてしまったので、やむを得ずトラックで來てしまった。荷は荷臺において、とりあえず乗ってくれ。」
父の話によると、天川さんは、家族の反対を押し切って、結城市の呉服店のお婿さんになったというのだが、恵子はこのおじさんを、快く思ったわけではなかった。恵子にしてみれば、長男でありながら、その役目を放棄して、勝手に好きなひとのところへ行ってしまったというじだ。男が、改姓するのは非常に珍しい例だと學校でも習ったことがある。
「おい、後ろに車が來るから早くのってくれよ。」
「は、はい。」
恵子は、急いでキャリーバックをトラックの荷臺に乗せて、トラックの助手席に乗り込んだ。
「じゃあ、行くよ。」
天川さんは、エンジンをかけて、トラックは結城駅を離れて行った。
「いやあ、よく來たね。」
天川さんは穏やかであった。父からの話では、かなり荒っぽい人であったと聞いているので、想像していたより全然違っていた。
「それにしても恵子ちゃんでかくなったね。あ、もう26にもなったから、それは當たり前なのか。」
田舎の人らしくそんなことを言っている。
「まあ、どうして、こっちまで來たのかそんなことは聞かないよ。きっとつらいことがあったんだろうからねえ。それを話すのはまた辛いだろうから。こっちは、東京に比べると、本當に何もないところだけどさ、靜かに暮らすには十分すぎるくらいなところだから、ゆっくりしていってな。」
「おじさんこそ、そんなセリフを言うなんて、父が見たら信じられないと言うと思いますよ。」
恵子は、正直なセリフを言った。
「ああ、康夫がそんなこと言ってたのね。確かにそうかもしれないね。」
天川さんは、にこりと笑った。
「こっちの暮らしも、はっきり言えば楽じゃなかったよ。都會の人間だからって、ずいぶん馬鹿にされながら過ごしちゃったから、子供なんてつくる暇もなかったなあ。そうなると、家のことは康夫に任せきりで、俺は長男失格ということになるかな。盆にも正月にもそっちへは行かなかったからなあ。」
父は、伯父さんが年末年始に顔を見に來ることもないので、非常に困った人だと良く言っていたが、天川さんはそれも自覚しているようだ。
「自覚しているなら、なぜ謝罪に來なかったんですか?」
「いやあ、こっちでは、都會ほど便利なものは何もないからな。まず地元に馴染むのに、本當に神経使ったから。かみさんだって、近所の人からひどいことを言われたくらいだったぞ。こんな男を婿にとって、一何をやっているんだってね。」
「今日は、おばさんは?」
「ああ、町會の親睦會で、今でかけているよ。こういうのには必ず出ないと、うちが損をすることになるからさあ。うち、車が一臺とトラック一臺しかないから、かみさんが乗っていってしまうと、トラックしかないのよね。ここでは、一人に一臺なんて車は持てないからねえ。」
なんだかあまりのんびりしても居られなさそうだ。
「まあ、田舎へ來ると、必ずあるんだけど、新參者は必ずたたかれる。本人だけではなく、配偶者や縁者も。」
「私もたたかれるの?」
なんだか心配になってきた。
「いや、大丈夫だ。そればっかりやってきたせいで、若い人が東京へ出て行ってしまって二度と帰ってこないという事態に俺たちは気が付いたからね。だから、俺たちは傷ついた若い人をめてやる立場に方向転換していくことにした。だって、自分で産んだ子が、二度と謝の気持ちを持てないまま、一生を終えてしまうなんて、これほど悲しいことはないからな。都會というは、楽しいかもしれないが、馴染めない者にとっては、徹底的につらいところでもあるわけだから、こういう暖かい人間もいるってことも、伝えてやりたいと思ったわけよ。」
「それは誰が決めたの?」
「誰かが法律で決めたわけじゃないよ。俺たち結城市の住人が、そう気が付いて、住民自ら行を起こしたんだよ。別に政府が命令を出したわけではない。そういうものを頼ってたら、俺たちの生活はつぶれちゃうから。それに気が付いたから、俺たちはそうしようと思いついたんだ。」
「的にはどうやって?」
「例えば、この辺りはかんぴょうが盛んにつくられているところだから、それを手伝ってもらいに來たりとかさ。いわゆる週末農業だな。他にも日本酒とか、うどんなどを作っている家も多いから、手打ちうどんを作らせるとか、饅頭を作らせるとか、そういう名を使って、若い人に來てもらうプロジェクトが盛んにおこなわれているよ。それより、何よりも、俺たちが、一番を張って堂々と名産品だと言えるのが俺も著ている結城紬の著だよ。まあ、近頃はアンティーク著のブームに押されて、結城はなかなか売れないが、それでも結城を作りたいという若い人は意外に多いぞ。」
「おじさんの空き部屋も、そういう人のために作ったの?」
「うーん、表向きはそうなっているが、俺の家は、一度も建て替えたことがなく、店を立てた時に、本來できるだろうなと思われるものが、使うために作った部屋だったが、使わずじまいになってしまったので、、、。」
「そうなんだ。理由はわかったから言わなくていいわ。でも、そんなちぢれっけのような著を作ってみたいとか、著てみたいという気持ちにはならないわね。私には、、、。」
確かに、伯父さんが著ている著を見ても、それが名産品というじはしない。著というと超高級な華やかな柄を思いつくが、男であるから地味であるということはあっても、どうしてもかっこいいとは思えないし、末なお百姓さんの普段著にしか見えないのだ。
「さて、著いたかな。」
伯父さんは、一つの建の前で、トラックを止めた。
「り口はそっちだよ。」
恵子は、天川さんのいう通りにトラックを降りた。四角い三階建ての建で、一階は店舗になっており、二階以降が住居になっている。一階には、「紬の天川」と書かれた看板が設置されていた。住居部分のり口は、店の裏側にあった。
「まあ、上がっていってくれ。三階の部屋がいずれも空き部屋だから、使ってくれてかまわないので。」
「わかりました。」
恵子は、キャリーバックを荷臺からおろすと、住居部分のり口から、建の中にった。
中は、おばさんが足でも悪くしたのだろうか、ところどころに手すりが付いていた。
「じゃあ、伯父さんは、店に戻るけど、恵子ちゃんは、好きなようにしてくれてかまわないからね。康夫の話ではひどく疲れているようだから、ゆっくり休ませてやれと言われているから、店を手伝えとは言わないから。」
「はい、ありがとうございます。」
恵子は、三階へ行く階段に案され、階段を上った。階段の壁には、何人かの若い男たちの寫真がられている。きっと、伯父さんが雇った職人さんだろう。彼らは、いまどうしているのだろうか。そんなことを考えながら、三階に行った。三階には、和室が二つあって、恵子は手前の方にある和室にった。和室なんて、使うのは何年ぶりだろうか。
中は、布団が一式と、正座で使うテーブルと座布団が一枚置かれていた。それが彼に與えられたスペースだった。せめて洋室にしてもらいたかったが、著を扱う店にそのような部屋はまずできないよなと、考え直した。
とりあえず、キャリーバックを部屋の隅に置き、畳の上にごろんと寢転がった。桐製の天井が真正面に來た。り紙もされていない天井で木目が、彼を優しく見つめていた。気が付いたら、急に疲れてきて、恵子は畳の上で寢てしまっていた。
「お夕食ですよ。」
どこからか、優しい聲が聞こえてきた。恵子は急いで目を覚まし、階段を駆け下りて、二階の食堂へ行った。食堂では淳一さんの奧さんの、天川真紀子さん、恵子にとってはおばさんが、何か調理していた。鍋は、かすかにそばのにおいがした。
「あ、おばさん、ご挨拶遅くなりましてすみません。」
「いいのよ。お母さんのところへ來たつもりでどうぞどうぞ。」
そういう明るいおばさんは、母と違ってどこか豪快なところもあった。恵子はおじさんに促されて、テーブルの前に座った。
「さ、食べて頂戴。ありあわせで作ったそばだけど、、、。」
おばさんは、そばを山盛り一杯乗せたざるを、恵子の前に置いた。
「おい、しゆですぎでは?」
「いいのよ、あんた。だって恵子ちゃんは若いんだし、いつもあたしたちが食べている量ではとても足りないじゃないの。さ、いただきましょう。」
恵子の前に、新品の箸と、梅雨のったが置かれた。どれも、真新しいものだから、きっと父から電話をけた直後に、買ってくれたものだろう。恵子は、そういうおばさんの心遣いが、なんとなくであるけれど、うれしいなと思った。
「じゃあ、いただきます。」
三人は、そばを食した。乾麺よりもずっとうまいそばだった。というより、そばと言えば、どん兵衛くらいしか恵子は食していなかったので、恵子には非常に新鮮な味であった。
「どう?あたしが打ったのだから、おいしくなかったら、おいしくないと素直に言ってくれていいのよ。」
なるほど。おばさんは、そばも作るのか。ということは、手打ちそばか。
「そば教室の先生から、まだ教わったばっかりだし、初心者だから、まだ不手際があるかもしれないしね。」
そば教室というものがあるとは驚きだ。
「全くな。お前は本當に習い事が好きだなあ。近所の佐藤さんにわれて、はじめは打つ練習だとか言って、毎日毎日そばばかり食べさせられて、飽きるほどだったぞ。でも、だんだん、誰かに食べさせてもいいくらいになってきたな。」
おじさんがからかうと、
「そうね。はじめは、近所付き合いで始めたのに、やっと腕試しができたかしら。」
おばさんは、そういう。つまり、この地域では、そういう近所付き合いができないと、伯父さんが言っていた通り、「たたかれる」のだろう。それでは一日中ごろごろしていては、余計にたたかれるなと恵子は思った。
「いいえ、おばさん、カップめんよりおいしいですよ。」
恵子は正直な想を言って、こう切り出した。
「明日も、店を開くのですか?」
「うん。直接來るお客さんだけではなく、通信販売なんかもあるからね。店が休みでも、発送作業なんかはしなければならないし、、、。」
伯父さんはそういった。きっと、こういう店だから、通販も併用しないと、やっていけないのだろう。だから、店自は休みでも、その作業はしなければならないのだ。
「おじさん、私お手伝いしましょうか?」
恵子は、伯父さんに言ってみた。
「いいよ、恵子ちゃんは。それよりも、休んだ方がいいって、康夫さんが言っていたのでしょう?」
おばさんは、優しく言う。それは、決して嫌味を言っているわけではないと恵子にもわかった。だからこそ、恵子は手伝いたいと思った。
「でも、お世話になるわけですから、伯父さんのお店くらい手伝いたいなと思いまして。」
「うん、それはいい試みだ。たまにはこういう著の世界にれてみるのもいいだろう。きっと都會では味わえないこともあるよ。よし、明日から店に出てもらおうか。」
「あんた、そんなこと言って、何をさせてあげればいいのよ。」
「レジ打ちとか、、、。」
「生憎だけど、レジはないじゃない。うちはそろばんでお會計を計算しているでしょうが。」
恵子はまず落膽した。
「うちの店は、洋服屋さんとはちょっと違うからねえ。洋服を販売するのとは違うやり方で、やっているのよ。それに、著というは、洋服とは全然違うのよ。例えば洋服は著る場所によって、順位が就いたりはしないでしょう。でも、著は、分制度で作られたようなところがあるから、そういうところをある程度知っておかないと、、、。」
「まあ、確かにそういうものは必要になるわな。よし、それなら一度展示會に行ってさ、著の種類を勉強してみて、そこから始めたらどうだ?」
確かに恵子は著の事なんて何も知らなかった。區別の仕方もわからないし、厳格に順位が就くことも、初めて知った。彼の知っている著と言えば、人式の振袖くらいだったし、ただ窮屈で、きにくく、著るのに非常に手間がかかるとしか、かんじられなかった。そういうものを販売するのだから、確かに知識は必要だろう。
「私、行ってみる。それに、ニ三日で帰るわけではないし、しばらくこっちにいるんだから、偏見を持たれてはいけないと思う。だから、ここを手伝いに來たという口実も作らなきゃ。おじさんだって、そういうところは大変だったんでしょ?」
「そうだね、恵子ちゃん。さすが學校の先生になっただけあるね。そうやって裏事を読み取るのがうまい。」
「おじさん、展示會はどこでやっているの?」
「えーとね。」
伯父さんは、一度立ち上がって、近くにある引き出しから、一枚の紙を取り出した。
「まあ、この辺は著の販売が盛んな街だから、展示會は、毎日のように行われているが、一番頻繁にやっているのは、この會館なんじゃないかなあ。」
そう言っておじさんは、一枚の紙を見せた。著の里、と書かれた建で、著を展示即売していると、書かれていた。
「でも、押し売りのようなことはするの?著って、よく問題になるわよね。」
著の販売というと、展示會商法とか、そういう悪質販売方法もあると恵子は聞かされたことがある。
「ああ、あそこはしないわよ。というより、このあたりの呉服屋さんは、みんな親切であることが多いの。ほら、観に來る人も多いでしょ?それに、ここは著が観名所にそのまま直結してるし、都市部じゃないから、観である程度収を得なきゃならないから、そういうへんなやり方をしたら、人が來なくなるわ。」
おばさんの言葉で恵子は安心した。
「じゃあ、私行ってみる。ちょっと勉強してくるわ。」
「うん。初めてだから、たくさん勉強できると思うよ。」
「はい。」
「ご飯にしましょ、冷めちゃうわ。」
おばさんの一言で、恵子たちは遅れた夕食をとった。しばかり不安な気持ちもあったけど、恵子は展示會に行ってみることにした。もちろん、結城紬だけが著というわけではない。それ以外の著もおじさんの店では扱っていた。だから、そういう著についても勉強してくるつもりだった。
結城市の夜は靜かだった。電車の音も、車の音も聞こえてこなかった。なので、恵子は、その日はよく眠ることができた。東京に住んでいたころに比べたら、ありえないくらい靜かだった。
翌日、恵子は、朝食をとった後、支度をして、伯父さんに運転してもらって、その展示會の會場に向かった。結城市では、どこへ行くにも車が必要だった。まず、駅は三つしかないし、バスなどは、一時間に一本どころか、全く走っていない時間帯もある。極論で言えば車なしではいられないのだ。會場は、車で行ってもおじさんの著屋からは、20分以上かかった。
展示會場は、こじんまりとしたコミュニティーセンターというじだった。大きなコンベンションホールというではなかった。恵子は、おろしてもらって、そのセンターの正面玄関から中にった。
展示室は、すぐにわかった。というのは、部屋數がないため、すぐわかってしまうのだ。恵子が中にると、付には二人の男がいた。二人ともおじさんに似たようなじの著をに著けているが、右側の男は、おそらく普通の中年男というじで、顔かたちも、長も一般的な男の長である。しかし、左側の男はというと、顔は紙のように真っ白で、長はとさほど変わらず、そしてげっそりと痩せていて、一瞬引いてしまうのではないかと思われるほど異様であった。
「いらっしゃいませ。」
右側の男が言った。
「あ、あの、大人一枚、、、。」
恵子が言うと、
「はい、500円です。」
と、返ってきたので、恵子は財布を取り出して、500円を探したが、どこにも見つからなかった。都會生活では、現金よりも、スイカとかパスモと言ったカードで払うほうが圧倒的に多いから、あまり現金を持ち歩くことはないのだ。かろうじて1000円札が一枚だけ見つかった。
「すみません、細かいのがないので、1000円でお釣りください。」
恵子は、1000円札を出して、右側の男に差し出した。
「はい、わかりました。おい、裕康、五百円玉、持ってきてやって。」
男がそういうと、裕康と呼ばれた左側の男が、プラスチックのケースを開けて、500円玉を取り出し、恵子に渡した。その指も細く、針金のようで、その手は非常に冷たかった。彼から、500円玉を渡されて、恵子はぞっとした。著の袖の間から、左腕の肘から下に緑の桐紋が見えたのだ。もしかしてこの人は元極道?そんな恐怖が頭をよぎった。もし、おじさんが言っていた、若い人を更生のために連れてくるという言葉が真実であるならば、こういう極道上がりの人も含まれるのだろうか?
とにかく、その男からは離れて恵子は展示室にはいった。中にると、たくさんの著たちが展示されていたが、どれも華やかでかわいらしいものばかりだった。振袖、留めそで、訪問著。著にはいろんな種類があることも初めて知った。結城紬というはその一部であるらしいが、きらびやかな訪問著などに比べたら、ずいぶん地味なであった。それをなぜこれほどまでに高く売るのか、恵子は理解できなかった。
展示室の奧の方には、結城紬の高級品が展示されていた。結城の中でも、六角形のような亀甲をれたものは特に評価が高いらしいのである。目の前に、黒の地に、金で亀甲をれた著があったが、恵子はそれが理解できなかった。花柄のほうがずっと綺麗。それなのになぜ、こんな六角形の繰り返しが、しいとされるのだろうか?
「お気に召されましたか?」
不意に後ろで聲がした。振り向くと、あのれ墨の男が立っていた。
「え、あ、あの、」
恵子は怖いのと、何とかしなければという気持ちとを同時にじた。同時に逃げたいとも思った。
「ご、ごめんなさい、私別に、買いたいと思ってきたわけじゃなくて、ただ、著っていうについて何も知らなかったので、どういうがあるのか、見に來ただけなんです!ど、どうか今日は許してください!」
「はい、かまいませんよ。」
思わず、面食らってしまった。
「どっちにしろ、あなたのような歳でこの著をしいと思うほうが異常ですもの。」
意外なセリフだった。
極道なら、こういうところで、買わない理由を言ってみろとか、怒鳴りつけてくるはずだ。
それなのに、この人は穏やかなままで、表も変わらずに、このようなセリフを言う。もしかしたら、極道ではないのかもしれない。
「まあ、を言えば、寸評はほしいですけどね。その黒に亀甲の著、僕が仕立てたんです。」
えええっ!なんだって!極道が、こんな著を仕立てたの?もしかしたら組長に?と言おうとしたが、
「どっちにしろ、こんなものを作っても、売れないことも確かですから、どこかのがらくた屋さんにでも持っていくことになるんでしょうね。だって、他の訪問著なんかは、結構契約が立しているみたいですけど、僕の作品は、いくら結城の正當なやり方をした布を使って仕立てたとはいえ、全くかわいらしくもなければ、しくもありません。分制度があった時代であれば、結城はよく売れたブランドではありましたが、それが撤廃されればもうアウトですよ。」
と、ため息をついて、笑って言う。
「ちょっと待ってよ。そもそも紬って、な、何なんですか。あたし、さっぱりわからないわ。」
「はい、教えましょうか。江戸時代にお百姓さんたちが野良著として著用していた著の事を言うんですよ。江戸時代に贅沢止令がだされたときに、絹の著を止されたけれど、どうしても絹を著たかったので、じゃあ、どうしたらいいかと考えた時に、遠目から見えれば木綿に見えるようにすればいいと考えて発明された著です。だから、訪問著なんかと比べると、ずいぶん末に見えるでしょ。それが絹でありながら、そうでないように見せかけるための技ですよ。」
確かにそうである。絹特有の沢のようなものは一切ないし、他の著に比べると、なんだか使い古したぼろぼろの布のようにも見えてしまうのだ。つまり、そう見えるようにするトリックを使って、お百姓さんは、偉い人たちの目をごまかしていたのだろう。確かにその分制度がなければ、そのようなトリックも不要になる。そうなれば、ただのぼろぼろの著にしか見えなくなるだろう。
「まあ、僕も、もともと著業界の人間だったわけじゃないので、このような著を制作して、一何になるのだろうかとよく疑問におもったものでした。でも、偉い方々は、これこそ一番の著というのです。僕もはじめのころは本當にわからなかったですけど、何十枚も制作し続けてきて、きっとこの、絹でありながらそうでないように見せかけることこそ、この著の魅力なんじゃないかなと気が付きました。そのために、この著は維持できたんじゃないでしょうか。當時の人たちはそれに必死だったでしょうから。確かに、著用する出番もないので、あってもなくても仕方ないと罵倒されたことも數多くありましたが、もしかして、遠い將來に、歴史の証人のような形で殘ってくれればなと思い、作ってきました。」
靜かな口調で語るその男を見て、恵子はこの人は極道ではないなと確信した。それよりも、きっと邪悪に対しては過敏な人なんだろうなとおもった。
「ただ、今の世の中では、使い道が乏しいのも確かなので、きっとがらくた屋さんに引き取ってもらうことになるでしょうけどね。それも、時代なので仕方ありません。まあ苦労はするけど、売れることにはあまり期待しないほうがいいですね。そういうものが著というですから。これまでに何十枚と作りましたが、定価で売れたことは一度もないです。著だけではく、伝統品全部がそうなる時代が來るのも、遠くないでしょうね。」
彼は笑っていた。誰に対して笑っているのだろうかと思ったが、すぐにどうにもならないことなので笑うしかないんだということを直的にじ取った。
「きっと、そんなことを語って何になるの、自分語りをしたいなら他を當たれとおっしゃるのでしょうね。まあ、言いたければ言っても結構ですよ。慣れてますから。でも、ありがとうございました。紬って何なのかと聞いて下さっただけでもね。まあ、ゆっくりご覧になってくださいな。きっと、この展示會のことはすぐに忘れてしまう事でしょう。あなたの年代なら。いや、忘れてくれたほうがいい。関わるとおおよそ、ろくな目に會わない。」
不思議な人だ。自の仕事について、ここまで卑下する必要があるのだろうか。
「変わったというか、おかしな人だわ。なんでそこまで自分をへりくだらなきゃいけないのかしら。そこまで自信を無くすんだったら、他の仕事に変えればいいのに。」
「一般的に言えば、そうですけど、こういう世界では、そうもいかないのが実なんですよ。何しろ、やる人がいませんから。でも、一般的な人からは、おおよそ理解をされないことがほとんどだから、極端から極端な人間関係しか持てないんです。普通に、友人を持てたり、家庭も持てる人は本當にわずかです。職人は本當に孤獨なままの人生で、読んで字のごとく職人というしかないんです。そして、教育者的なことも行わなければなりませんから。本當に、人生って何だろうと考えることもありますよ。」
「人生って何だろう、か。あたしも、東京で教員やってましたけど、本當に考えさせられましたわ。」
「ああ、學校の先生だったんですか。なんかそういうじだなと思ってました。」
「そうみてくれたの?私の事。」
なんとなくうれしい気持ちにもなった。
「基本的に、そういう職種の人でないと、結城に興味持つことはまずありませんよ。」
お見通しだったのか。でも、恵子は、それでもよかった。馬鹿にされっぱなしの毎日の中、教師なんてだめだと思っていたからだ。
「ありがと。」
恵子は、靜かに言った。
「なんか、自信失くしてたから、そういうこと言ってくれてうれしかった。」
「おーい、裕康。どこに行ったんだよ。もう帰る時間だろ。」
まだ晝食前なのに帰るとは早すぎると思ったが、恵子はそれは言わなかった。
「あ、そういえばそうでしたね。すぐ行きますので。」
男はそういって、恵子に軽く敬禮した。
「裕康さんっていうんですか。」
「はい。結城裕康です。まあ、なぜか結城市と同じ苗字ですが、偶然にそうなっただけで。」
「あ、あたし、小川恵子って言います。今日は、本當にありがとうございました。」
恵子も敬禮した。
「また會えるといいですね、どこかで。」
なぜか、恵子もそう思ってしまった。
「じゃあ、僕、帰りますので。恵子さんは、ゆっくり見て行ってくださいませ。」
彼は、そういうと、付のほうへ戻っていった。恵子は彼が見えなくなるまで見ていたが、一度、付の前で止まってまた歩き出したところは、し変だと思った。
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